真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
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意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
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在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
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本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社