「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)

(先日、「青年期精神療法学会」の学会誌に依頼されて書いたものの下書きです)

「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)

大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス 福島哲夫

 

1 はじめに

現在は、日本全体がイデオロギーを嫌っている時代にあるといえる。そして、それには一定の正当性もある。思想やイデオロギーというものが、いかに過ちを犯しやすいものであるか。そして、それがどれほど多くの人々や世の中を苦しめることがあるか。それをこの50年ほどの歴史の中でも、私たちは嫌というほど味わってきた。世界を西側東側に二分した冷戦構造とその終焉。ポルポトによる虐殺や天安門事件、日本では連合赤軍事件とオウム真理教事件等々である。

これらの思想・イデオロギーに端を発した世界史的な出来事は、宗教の問題も含めて、できたら「直接は縁のない、遠い世界の出来事」と思いたいものだ。けれども、冷戦構造の終焉は、新自由主義の台頭を促し、現在の世界の過当競争と格差の問題につながっているし、過剰な「自己責任」論にも無関係とはいえない。中国や東南アジアで起こっていることは、すぐに明日の日本に大いに関係してくる。宗教問題は、私たちが日々の臨床でお会いするご家族に直接関係してくるし、生老病死の問題や何らかの犯罪被害や暴力被害は、スピリチュアルなテーマとして向き合わなければ、十分にお役に立つことができない。

そんな状況の中でお薦めしたい一冊といえばこの本だ。

近現代の精神史に広く触れつつ、現代の問題を考察しているという点で、私がここ数年で読んだ本の中では一番心に残る一冊だ。著者はキリスト教異端主義のグノーシス派に関する新進気鋭の研究者であるが、日本を含む近現代の精神史を読み解くその論理的な明解さには舌を巻くばかりである。

著者によれば、オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性があるとする。サブタイトルが示しているように、オウム真理教は現代の先進国が例外なく内に秘めている、ロマン主義・全体主義・原理主義の危険を、まさにすべて合わせ持った存在だったとする。この知見は、注目に値する。

著者が指摘しているように、このロマン主義・全体主義・原理主義の観点からすれば、ナチスとオウムが同根であるとうことはわかりやすい。そして、本書が出版された2011年以降、急速に問題になりつつある中東におけるイスラム過激派勢力の問題、それに対する西欧諸国の問題、さらに日本も含めた西欧先進国からあえて中東のイスラム圏での戦争に参加しようとする若者たち。これらの問題もロマン主義や全体主義、原理主義への憧れかその反転としての敵意というかなりナイーブな側面があると考えるととても分かりやすい。

そして、私が思うに、急速に進み過ぎた「個人主義的競争原理」への反動や不安が、これらをさらに加速させている。とくに私たち日本人はまだたかだか数十年ほどしか、この個人主義と競争原理の組み合わせに慣れていない。そんな中で全員が不安と恐怖を抱えながら、この現代社会を生きている。だからこそその反動として、ロマン主義や全体主義、原理主義に憧れるのではないだろうか。

私は、オウム真理教事件以降の日本の若者に、カルト嫌悪・宗教アレルギーがあるのを強く感じるが、それらが「何も知らずに嫌悪している」という状態であることを危惧している。カルトは自らを「カルトではない」といって近づいてくるし、日本の新宗教は「これは宗教ではない」と宣言する傾向がある。「知らず嫌悪」では、まさに知らないままに大きな影響を受けてしまう危険が高いと私は思う。たとえば「自然志向」や「健康志向」、さらには「美容」なども、極端になればカルトになって個人の尊厳を奪っていくということは、歴史的にも証明されている。

従来、精神医学や臨床心理学において宗教現象は「病理」として蔑まれるか、「憧れ」として持ち上げられるかのどちらかしかなかった。このような両極端の態度を捨てて、「この世界の中で大きな影響力を持ち続けるもの」や「私たちの世界観の代表的な体系」、さらには「目に見えない現象や人生の背後にあるかもしれない何らかの力への認知の習慣」として、慎重に理解していくことが求められていると感じる。

 

2 ロマン主義的心理学・精神医学と人文科学

ロマン主義という点に関して放っておけないのが、この著者から見る精神医学や心理学である。ロマン主義の本質は「本当の自分を求める」、あるいはさらにいえば「闇に潜む本当の私」を求めたり、「宇宙的な存在に触れることで本当の自分に目覚める」というものだという。これは「啓蒙主義」とならんで近代思想の二大潮流のうちの一つであり、「啓蒙主義」はいわば近代の表舞台であるのに対して、ロマン主義は裏舞台だと著者は言う。啓蒙主義は「人間の理性」をその基礎的な原理として据えたがために、まさに近代の礎となりえたし、反対に人間の「闇」の部分を切り捨ててしまうために、肝心の人間そのものが疎外されてしまうことにもつながった。

このロマン主義的な心理学の系譜として、著者はエレンベルガー(1970;1980)の論考に沿って、ウィリアム・ジェイムズの心理学、ユングの心理学、神智学、ニューエイジ思想とトランスパーソナル心理学、さらに日本の精神世界論におけるヨーガと密教や本山博の超心理学、桐山靖雄の阿含宗、中沢新一のチベット密教研究を列挙している。ちなみにエレンベルガーの記述に立ち返れば、フロイト派の精神分析も当然ここに入る。 

エレンベルガーのこの指摘は私ももちろん知っていたが、オウム真理教やナチスとの関連でこのようにとらえると、ドキッとするものがある。著者はこれらの心理学も含めて、第二次世界大戦後の日本の人文社会科学が、いかに中途半端なロマン主義を無自覚に抱えたまま停滞しているかについても、著者自身もその中に身を置く一人として、反省を込めながら鋭く批判している。

 そういえば、オウム事件以降の日本の大きなトピックスは、何といっても東日本大震災とそれに伴う原発事故である。とくにこの原発事故の背景にあった「安全神話」も、事故に対する一部の国民の反応の「極端な自然回帰」的な色合いの中にも、オウム真理教事件と通底するものを感じるのは、私だけではないと思う。

 

3 私たちはロマン主義者なのか啓蒙主義者なのか、そしてどれくらい権威主義的なのか?

 ここからは、本書を読みながら私が考えたことをもう少しだけ書かせていただきたい。

本書の著者が解説してくれているロマン主義と全体主義、原理主義に関しては、すでに述べたように思想史・精神史、そして現代の人文社会科学からカルト現象・オカルト文化などを読み解くにはとても有効な視点となる。その一方で、これらの現象は私たちの個別化された日常生活の中では見えにくい。少なくとも精神科や臨床心理の個人臨床においては、全体主義そのものはあからさまなものとはなりにくい。けれどもこの全体主義と原理主義の二つの近接概念、あるいは二つを包摂する概念として「権威主義」という概念に代表させれば、個人臨床の現場にも散見されるものとなる。そして、この「ロマン主義」と「権威主義」こそが私たち自身の臨床業務を振り返る上で大切な指標となると考える。ただ、ロマン主義はそれ単体では意識しにくいので、「ロマン主義-啓蒙主義」という対立軸上のどこに自分が位置するかと考えると見えやすい。

つまり一言で表現すれば「私たちはロマン主義者なのか啓蒙主義者なのか、そしてどれくらい権威主義的なのか?」という問題だ。自分が患者に教えたがっているのか、あるいは反対に探究したがっているのか? さらに臨床上で最も頼りにしているのは知性なのか、それとも感情や神秘的な力なのか。そして、それらをどの程度権威の力を借りて遂行しようと思っているか。

 これらの違いによって、臨床的な風景は完全に異なる。もちろん、これら三つとも、質のいい形でならある程度戦略的にも必要なことは、子育てや教育現場のことを想像すれば簡単に理解できる。要はバランスと自覚こそが大切なのだ。大事なのは、自分がどの程度ロマン主義的で、どの程度啓蒙主義的なのか、そしてそれらを発揮する仕方においてどの程度権威主義的なのかを、その都度その都度意識できていることだと思う。意識することで調整できたり、暴走を防ぐことができると思うからだ。

 

4 小さなカルトと幻想的なユートピアをつくらないために

 もう30年ほども前のことであるが、あの河合隼雄先生が「最近、私にはまったくそんなつもりがないのに、奉られてしまっていることに気づくことが多い」と嘆いておられた。私の知る河合隼雄先生は、ロマンチストではあったが同時に現実主義者で、決して権威主義的ではなかった。しかし、そのような河合先生を「下の者」たちが権威にしてしまっていた。周知のように権威者を過度に奉る人は、自らが権威者になれる場面ではとてつもなく権威的であることが多いので要注意だ。

精神科医も臨床心理士も、患者やクライエントの心や人生に関わる仕事である。しかも何らかの形で自信を失っている状態の人を相手にする。そのため、好むと好まざるとにかかわらず、私たちは「小さなカリスマ」になりやすく、勢い「小さなカルト」をつくってしまいやすい。また、時に絶望感に陥っている人とともに取り組む仕事であるため、どこかにユートピアがあるという希望が欲しくなる。

 周りから求められて、一時的・戦略的に質のいいささやかなカリスマとして、質のいいささやかなカルトを作り、ささやかなユートピアを現出してみせるのならいいのかもしれない。それを可能とするためにも、しっかりと「社会的知」の蓄積として、カリスマやカルト、似非ユートピアに対する鑑識眼を培わなければならないと考える。

 そして、このような鑑識眼の一つとして、私たちのうちに潜む「ロマン主義、全体主義、原理主義、さらには権威主義」への志向に気づいておくべきなのだと思う。

 

文献

Ellenberger,H.F. (1970) The Discovery of the Unconscious: The history and evolution of dynamic psychiatry. Basic Books. (木村敏・中井久夫監訳(1980)『無意識の発見―力動精神医学発達史』弘文堂)


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コメント: 2
  • #1

    無明寺 (火曜日, 08 8月 2017 01:43)

    もっと単純に考えてみれば、いいんじゃないでしょうか。

    腹が減れば食べ物を欲しがり、淋しくなれば異性を欲しがり、眠たくなれば睡る。それほど根源的な欲求でなくても、もとめるということは同じ。そして、そこに経路(みち)が存れば、原風景(その者が、脈々と受け継いで来た前の生、嘗ていた安息場。またその風景)に向かって歩いて行くのは必然です。それは信者に限らず、我々にも言えることではないでしょうか。彼らが目的の為に足掻くように、我々も足掻く。誰もが、その意味で「求道者」と言えるのではないでしょうか?

    全てが満たされた状態は、生きるという意味を奪われるにひとしい。人は我儘な動物で、極端に満たされることも、抑圧されることもどちらも嫌なのです。人の意味は何を成したかによって自己が決めるものだから、動かないことも、動けないことも、人にとっては苦痛でしかない。だから、イスラム国やオウムやナチスに行った彼らに対しては、手を振って見送ってやっては如何です?

    出来るなら、過去に遡って。


    ありがとうございます。だって、あなたがいるから、私は生き甲斐をまた創出できる。あなたがいるから、人として死ねるのだから。我々が正義と思うなら、その正義の為に闘うこと。それこそが、彼らと同じ視点に立つということだと私は思います。


    イデオロギーは間違いを犯した。しかし、それこそが生きているという証であり、私は、真っ当なように装い平然とイデオロギーを批判している人間のことを、老人の嫉妬のように思ってしまいます。

    あなたは正しい。だが、あなたは、あなたの願望で我々を抑圧しようとしている。

  • #2

    無明寺 (火曜日, 08 8月 2017 01:52)

    真善美の探究【真善美育維】

    【真理と自然観】

    《真理》
    結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
    “ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
    私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


    我々の世界は質感。
    また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


    《志向性》
    目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
    『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
    『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
    我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


    《思考》
    『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
    思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
    『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
    『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
    考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


    《生命観》
    『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
    『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

    生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
    生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

    *己と自の発展
    己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
    己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
    『志向(作用)→肉体・機構』


    然の理・然性
    自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
    然の理・然性(第1法則)
    然性→志向性(第2法則)


    【世界創造の真実】
    世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
    しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
    言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
    これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
    例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
    そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
    愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
    私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
    しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
    「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
    同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
    「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
    神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
    あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


    【真善美】
    真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

    善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
    △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
    千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

    美は活活とした生命の在り方。
    『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
    予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


    《抑止力, 育維》
    【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

    【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

    真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

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