AEDPの創始者ダイアナ・フォーシャと (2010年イタリア・フィレンツェにて)
EFT(感情焦点化療法)の創始者レスリー・グリーンバーグ先生と
2026年
5月
05日
火
1. はじめに
心理療法における「癒し(Healing)」は、単なる症状の消失や社会適応の回復という医療モデル的・還元主義的な枠組みに留まるものではない。深層心理学を中心とする心理療法において、治癒とはクライエントの存在のあり方が根本的に再編成され、世界と自己との関係性に新たな意味が見出されるプロセスを指す。
しかし、ポスト・モダン哲学の進展は、こうした「一貫した自己」や「単一の意味」の回復という治癒像そのものに疑義を呈してきた。
J.F.リオタール(1979/1986)が指摘した「大きな物語の終焉」は、心理療法における治癒の定義を、普遍的な自己実現から、断片的でローカルな意味の生成へと変容させている。
本稿では、この癒しのプロセスを理解するための二つの強力な理論的枠組みとして、「物語(Narrative)」と「コスモロジー(Cosmology)」という概念を取り上げる。
日本におけるユング心理学の導入者であり、独自の臨床思想を構築した河合隼雄は、心理療法を「クライエントが自らの物語を創造するプロセス」として捉え、「物語的な癒し」の重要性を説いた(河合隼雄, 1997)
一方で、その後継者であり、現代の変容する病態に対して理論的刷新を図ってきた河合俊雄は、「物語」を編む近代自我そのものの限界を指摘し、前近代的かつ客観的な世界秩序としての「コスモロジーによる癒し」を提唱している(河合俊雄, 2004)。
本稿では、臨床心理学・深層心理学の観点から、これら二つのパラダイムの理論的背景、治癒のメカニズム、および現代臨床における両者の相補的意義について、両氏の論考を参照しながら詳述する。
2. 心理療法における「物語的な癒し」:河合隼雄の視座を中心に
「物語」の臨床的定義と人間の存在論的基盤
河合隼雄(1997)は、『心理療法と物語の働き』において、人間を「物語を生きる存在」として位置づけた。ここでの「物語」とは、単なるフィクションや過去の出来事の羅列ではなく、断片的な体験や無意識からの混沌としたイメージに因果律と意味を与え、ひとつの連続した「私」という主体を成立させるための存在論的な基盤である。
近代科学は事象を客観的かつ要素還元的に記述しようとするが、人間の生きられる現実は主観的な意味のネットワーク(すなわち物語)によって構成されている。河合隼雄は、個人の内的世界において、意識と無意識の間に橋を架け、人生の無意味さや不条理に耐えうるだけの意味論的枠組みを提供するのは「物語」の機能であると論じた。
病理の発生と「物語」の破綻
河合隼雄の枠組みにおいて、神経症や精神疾患といった心理的「病」は、「これまで生きてきた古い物語が、内的な成長や外的な環境変化に耐えきれず、有効性を失い破綻した状態」として理解される。自我が固守する古い物語と、無意識から湧き上がる新たな生命のエネルギー(影やアニマ/アニムスの欲求)との間に深刻な乖離が生じたとき、その葛藤は「症状」として立ち現れる。
ここで重要なポスト・モダンの視点は、M.フーコー(1976/1986)が論じたように、こうした「古い物語」自体が社会的な規律訓練や権力言説によって内面化された「支配的な物語」である可能性である。物語の破綻は、近代的な主体という抑圧的な枠組みからの解放の側面を持ち合わせている。
症状は、古い物語の破綻を告げる警告であると同時に、新たな物語の生成を要求する無意識からのteleological(目的論的)なメッセージでもある。河合隼雄は、この症状の持つ意味を解読し、クライエント自身の内側から新しい物語が立ち上がるのを待つことの重要性を説いた。
共創プロセスとしての心理療法と「癒し」
物語的な癒しとは、セラピストという他者の存在(器)を媒介として、クライエントが自らの崩壊した物語を紡ぎ直し、より全体性を包含した「新たな神話(個人的神話)」を生成することである。
この過程において、セラピストはクライエントの物語を一方的に解釈したり、外側から正しい物語を与えたりする「権威者」であってはならない。これは、R.バルト(1967/1988)が提唱した「作者の死」の臨床的応用とも言える。
つまり、セラピストが「意味の源泉(作者)」であることを放棄することで、クライエントという「読者」による自由な意味の生成を可能にするのである。河合隼雄(1992)は、日本神話の「中空構造」に言及しつつ、セラピストは自らの心を「無(空)」にしてクライエントに寄り添い、共に物語を生きる「共創者」としての態度(近年ネガティヴ・ケイパビリティと言われるようになったもの)を保持すべきであると主張した。
3. 「コスモロジーによる癒し」:河合俊雄の視座を中心に
「物語」パラダイムの限界と病態水準の変容
河合隼雄の物語論は、神経症水準のクライエントに対しては極めて有効に機能した。しかし、現代社会において臨床の主戦場は、境界性パーソナリティ障害、解離性障害、発達障害、あるいは重度のひきこもりといった、より基底的な病態へとシフトしている。
河合俊雄(2004)は、これらの現代的な病態に対して「物語による癒し」が機能不全に陥っていることを鋭く指摘した。ポスト・モダンにおける「主体の解体」が進展した状況では、G.ドゥルーズ(1968/1992)が説く「器官なき身体」のように、統合された自己という前提そのものが無効化されている。
物語を紡ぐためには、そもそも「私」という連続した主体(近代自我)が確立されている必要があるが、解離や発達の偏りを持つ現代のクライエントの多くは、物語の「語り手」となるべき自我そのものが脆弱であるか、未形成である。彼らに「自らの物語を生きる」ことを要求するのは、存在しない自我への過剰な負担となり、かえって自己組織化の崩壊を招く危険性がある。
コスモロジー(宇宙観・世界秩序)の再導入
この「物語の語り手(主体)」の不在という臨床的危機に対し、河合俊雄(2006)が提示した治癒のパラダイムが「コスモロジー(Cosmology)」である。コスモロジーとは、個人の内面や主観を超えた、外部に存在する客観的な意味の体系、あるいは前近代的な世界秩序(宇宙観)を指す。
近代心理学は「意味や心は、個人の内面にある」という前提に立ってきたが、河合俊雄はW. ギーゲリッヒの「客観的プシュケ(Objective Psyche)」の概念も踏まえつつ、心の本質は個人の内部に還元されるものではなく、世界という広がりの中に遍在していると捉え直した。あるいはさらに言えば我々の個々の存在は、魂という世界の中に存在しているとした。
これは、ポスト構造主義が指摘した「主体とは構造の派生物である」という洞察と軌を一にするものである。
外部の秩序への「配置」としての癒し
コスモロジーによる癒しとは、クライエントが「自らの力で内面から物語を紡ぎ出す」ことではなく、治療の場に立ち現れる「外部の秩序(コスモロジー)の中に、クライエント自身が『布置』される」ことによって生じる。
セラピストに求められるのは、クライエントの内面に共感することではなく、箱庭、描画、あるいは面接室における事物や身体的な布置(コンステレーション)の背後に働く「自律的な事象の法則性(コスモロジー)」を発見し、それを客観的に記述・承認することである。
具体的には、クライエントの内部(それは夢や箱庭や描画を通じて知ることになるが)から、何らかの秩序が立ち上がるのを期待しつつ待ち、それが立ち現れたなら、逃すことなく、認識する(言語化するかどうかはケースバイケース)ということになる。
あるいはセラピストがいわば世界(の代表)となり、クライエント個人に間接的に秩序をもたらすという感じである(このような主語と述語を持った現代的な文章では表現できないのだが。。。)。
ドゥルーズ&ガタリ(1980/1994)の用語を用いれば、これはツリー型(因果律的な物語)の癒しから、リゾーム型(並列的・非階層的な接続)の癒しへの転換と言い換えることができるかもしれない。
河合俊雄(2016)によれば、バラバラに解離していた事象が、ある「客観的な秩序(星座)」として結びついたとき、自我の統合を待たずして、事象そのものが自律的に癒しをもたらす。個人が意味を作るのではなく、世界(コスモス)の側が個人に居場所と秩序を与えるのである。
4. 臨床的統合と展望:物語とコスモロジーの相補性
近代自我と前近代の交錯
河合隼雄の「物語的な癒し」と河合俊雄の「コスモロジーによる癒し」は、一見すると対立するパラダイムのように見える。前者は近代的な「個」の確立を目指すベクトルであり、後者は近代自我の限界を見据え、個の外部にある「環境・世界との不可分性」へと向かうベクトルである。
しかし、臨床の実際においては、これら二つのパラダイムは相補的・重層的に機能する。現代のクライエントは、近代的な自我を確立しなければならないという社会からの圧力に苦しむ一方で、その重圧に耐えきれず前近代的な未分化の状態へと退行・解離しているからである。
パラダイムの臨床的使い分けと移行
実際の心理療法においては、クライエントの病態水準や面接のフェーズに応じて、セラピストがこれら二つのパラダイムを意図的に往還することが求められる。
重篤な解離を呈するクライエントに対しては、初期段階において「コスモロジーによる癒し」が主導権を握る。感覚統合的なアプローチを通じて、言語化できない身体感覚や事象を「あるがままの秩序」として見出していく。その後、コスモロジーの安定したコンテナの中で事象が繋がり始めた段階で、初めて「私」という主語が立ち上がり、河合隼雄的な「物語的な癒し」への移行が可能となる。
逆に、強迫的な一貫性の物語に囚われたクライエントに対しては、C.レヴィ=ストロース(1962/1976)が説いた「ブリコラージュ(手近な材料の寄せ集め)」のような、断片的で非合理なコスモロジーを導入することで、硬直した物語を脱構築することが治療的意義を持つとも考えられる。
5.臨床事例を通じたパラダイムの往還と統合
架空の臨床事例:A氏(20代前半・大学生)の夢分析プロセス
ここで、これまでの論考をより現実に着地させるために臨床事例を呈示してみたい。
近代自我の解離と前近代的な事象の混淆を呈したA氏の事例(守秘義務に配慮し複数のケースを合成した架空事例)を通じて、両パラダイムがいかに臨床現場で交差するかを記述する。
【主訴と見立て】
A氏は大学進学を機に「自分が自分でない感覚(離人感)」と「言葉がまとまらない」という症状を呈し、休学・ひきこもり状態となっていた。初回面接においてA氏は自身の生い立ちや苦悩を「物語る」ことができず、断片的な身体感覚を呟くのみであった。これは、近代的な「語る主体」が機能不全に陥っている状態だと考えた。
【第1期:語りの不全とリゾーム的空間(コスモロジー的介入)】
面接が数回進んだ頃、A氏は「ひたすら幾何学的な図形が明滅し、金属音が響くだけの空間」という、自分自身(夢自我)が全く登場しない無機質な夢を報告した。
セラピストはここで「その図形は何を意味するのか」「どう感じたか」と問う(抑圧された内面の物語として解釈する)ことを控えた。むしろ、この夢を個人的な葛藤の産物ではなく、C.G.ユングの客観的プシュケ、あるいはドゥルーズ&ガタリが言う「リゾーム(中心や主体のない接続)」的な事象のありのままの現れとして扱った。セラピストは意味の還元(ツリー型解釈)を保留し、その無機質な夢の空間(コスモロジー)をただ共に眺める「証人」に徹した。
【第2期:秩序の生成とブリコラージュ(パラダイムの移行)】
数ヶ月間の面接を経る中で、A氏の夢に変化が生じた。
無機質な空間の中に「境界線」のような川が現れ、明滅していた図形が「冷たい石碑」として特定の場所に「布置(コンステレーション)」されたのである。ある日、A氏はこの夢を語り終えた後、ふと「この石碑の冷たさは、ずっと凍りついていた私の胃の底の感覚と同じだ」と自発的なメタファーを用いた。
ここで、客観的な事象の秩序(コスモロジー)の中から、夢のイメージと身体感覚という手近な素材を結びつけ、自らの体験に意味を与える「ブリコラージュ(野生の思考)」が発生した。
【第3期:「私」の立ち上がり(物語的介入)】
さらに後の夢では、ついにA氏自身(夢自我)が夢の中に登場し、その石碑に触れるという行動をとった。
これを契機に、セラピストは徐々に「物語的パラダイム」へと移行した。
A氏の夢に現れた「私」という主語を足場として、「石碑に触れたとき、あなたはどこへ向かおうとしていたのでしょうか?」と、事象に時間軸と因果律(物語)を付与する問いかけを行った。
A氏は徐々に、休学に至るまでのプレッシャーや親との葛藤を、自分自身の言葉で「一つの個人的神話」として紡ぎ始めた。
事例の理論的考察
このA氏の事例は、前述したポスト・モダンの諸概念を臨床的現実に着地させるものである。
①リゾームとコスモロジーの調停
超越論的・前近代的な「コスモロジー」と、非階層的な「リゾーム」は対立するように見える。しかし臨床空間において、セラピストが「解釈しないこと」によって維持する「夢という客観的現実(局所的なコスモロジー)」があるからこそ、クライエントはその内部で安全に自己を解体し、リゾーム的な断片として存在することができる。
すなわち、「コスモロジー的コンテナ(器)の内部においてのみ、リゾーム的な癒しは成立する」という重層構造が見出される。
②パラダイム移行のトリガー
物語とコスモロジーのパラダイム・シフトは、セラピストが恣意的に操作するものではない。
事例が示すように、無意識の自律的な秩序(夢の布置)に身を委ねる中で、クライエント自身の内側から「事象をブリコラージュし、『私』という主語を取り戻す瞬間」が立ち現れる。
セラピストの役割は、この微細な主体の萌芽を見逃さず、客観的観察者(コスモロジーの証人)から、共創的な対話者(物語の伴走者)へと自らの立ち位置を滑らかに移行させることである。
6. おわりに
心理療法における治癒のメカニズムは、時代精神や病態の変容とともに進化してきた。
河合隼雄が提示した「物語的な癒し」は、近代社会において内面の葛藤に苦しむ人々に対し、自らの人生の意味を再構築するための強力な方法論を提供した。
一方、河合俊雄が提唱する「コスモロジーによる癒し」は、近代自我が崩壊した現代の病理に対して、個人の内面を超えた客観的プシュケや世界秩序との再接続という新たな救済のパラダイムを切り拓いた。
ポスト・モダンという不確かな時代において、癒しとは「一つの正解としての物語」に到達することではない。むしろ、物語とコスモロジーの間を絶えず揺れ動きながら、固定的な自己イメージを脱構築し続けるプロセスそのものが、現代的な「癒し」の正体であると言えるだろう。
現代の心理職には、この両翼を併せ持つことによってのみ、複雑化する人間の苦悩に真に応答することが可能となると私は考える。
引用文献
河合隼雄 (1992). 『昔話と日本人の心』 岩波書店.
河合隼雄 (1997). 『心理療法と物語の働き』 岩波書店.
河合俊雄 (2004). 『概念の心理学・物語の心理学』 日本評論社.
河合俊雄 (2006). 『心理臨床の広がり』 岩波書店.
河合俊雄 (2013). 『ユング派心理療法』 ミネルヴァ書房.
河合俊雄 (2016). 『心理療法と交錯する世界』 創元社.
J.F. リオタール (1979/1986). 『ポスト・モダンの条件』 小林康夫訳, 評言社.
M. フーコー (1976/1986). 『性の歴史I 知への意志』 渡辺守章訳, 新潮社.
R. バルト (1967/1988). 『物語の構造分析』 花輪光訳, みすず書房.
G. ドゥルーズ (1968/1992). 『差異と反復』 財津理訳, 河出書房新社.
G. ドゥルーズ&F. ガタリ (1980/1994). 『千のプラトー』 宇野邦一ほか訳, 河出書房新社.
C. レヴィ=ストロース (1962/1976). 『野生の思考』 大橋保夫訳, みすず書房.
2026年
4月
29日
水
臨床心理学の領域において、近年「トラウマ」と「アタッチメント(愛着)」の関連性が極めて重要なテーマとして扱われています。
傷ついた心を癒やすための基盤として、他者との安全な結びつきが不可欠であるという認識は、現在の心理臨床における中核的なパラダイムとなっています。
しかし、「デタッチメント(距離を置くこと)」の重要性、そしてアタッチメントとは異なる次元で不可欠な「アイデンティティ(自己同一性)」の役割への視点は、臨床的にも非常に大切で、人間の精神的成熟の本質にかかわる問題だと思います。
本コラムでは、これら4つの概念がどのように交差し、私たちの心の回復と成長を支えているのかを現時点で可能な範囲で紐解いていきましょう。
1. アタッチメントの光と、トラウマによるその断絶
まずは前提として、アタッチメントとトラウマの関係を確認しておきましょう。
John Bowlby(1969)によって提唱されたアタッチメント理論は、人間(特に乳幼児)が特定の養育者との間に結ぶ情緒的な絆を指します。
この絆は、外界を探索するための「安全基地(Secure Base)」となり、傷ついた時に逃げ込む「安全な避難所(Safe Haven)」として機能します。
トラウマ(特に虐待などの対人関係トラウマや複雑性PTSD)の残酷さは、この「安全基地」そのものを破壊してしまう点にあります。
精神科医のJudith Herman(1992)は、その歴史的著書『トラウマと回復』の中で、トラウマは被害者から他者への基本的な信頼感を奪い、世界との繋がりを断ち切ってしまうと指摘しました。
だからこそ、トラウマケアの第一歩は、治療者や安全な環境との間で「もう一度、安全なアタッチメント(繋がり)を結び直すこと」に置かれます。
しかし、臨床の現場では「繋がること」だけでは不十分な場面に必ず直面します。ここで、「デタッチメント」と「アイデンティティ」の出番がやってくるのです。
2. デタッチメントの再評価:病理的な「切り離し」から、健全な「適度な距離」へ
伝統的な心理学や精神医学において、「デタッチメント(Detachment)」という言葉はネガティブな響きを持つことが少なくありませんでした。
Bowlby(1973)は、母子分離の悲哀の最終段階として、子どもが養育者を諦め無関心になる状態を「デタッチメント」と呼びました。
また、トラウマの文脈では、耐え難い苦痛から心を守るために感情や身体感覚を切り離す「解離(Dissociation)」や「感情の麻痺」としての防御的なデタッチメントが問題視されます。
しかし、現代の臨床心理学、とりわけ家族療法やマインドフルネスを基盤とする心理療法においては、デタッチメントは「健全な境界線(バウンダリー)の維持」と同義として扱われます。
例えば、家族システム理論の第一人者であるMurray Bowen(1978)は、心の健康の指標として「自己の分化(Differentiation of Self)」を提唱しました。これは、他者の強い感情や不安に巻き込まれず(融合せず)、自分の思考と感情を切り離す(デタッチする)能力を指します。
相手の痛みに過剰に同調して自分を見失う「共依存(Enmeshment / 過剰な巻き込まれ)」に陥るのではなく、相手は相手、自分は自分として「適度な距離」を保つこと。これは決して冷酷な態度ではなく、相手を一個の独立した人間として尊重し、かつ自分自身を守るための「思いやりのあるデタッチメント(Compassionate Detachment)」なのです。
アタッチメントが「くっつく力」だとすれば、健全なデタッチメントは「離れる力・線を引く力」です。トラウマからの回復においては、他者と安全に繋がる能力と同等に、他者に侵入されず自分だけの安全な空間を確保するための「適度な距離をとる能力」が不可欠となります。
けれどもここで大切なのは、カウンセラー・セラピストが、従来の「中立」的で「自己開示しない」ということではありません。
クライエントの苦しみにできるだけ共感し、これまで生き抜いてきたことを肯定し、「今、ここで」感じたことを自己開示しながらも、時間になったらセッションを終了し、セッション外のメールなどのやり取りは必要最低限にすることで、まさに「思いやりのあるデタッチメント」が確立するのです。
3. アイデンティティ:繋がりと分離の果てに立ち上がる「私」
そしてアタッチメントとは違う意味で大切なのが「アイデンティティ(Identity)」です。
Erikson,E.H.(1959)が提唱したアイデンティティ(自己同一性)は、「自分が何者であり、過去から未来へどう繋がっているのか」という自己の連続性と統合性の感覚を指します。
アタッチメントが「他者との関係性(We)」に焦点を与えるのに対し、アイデンティティは「個としての確立(I)」に焦点を当てます。
トラウマの専門家であるvan der Kolk,B.(2014)は、トラウマが脳や身体に及ぼす影響を論じた上で、トラウマ体験は単に記憶の問題ではなく「自分自身を生きている感覚(主体性)」を奪い取るものだと論じました。
激しいトラウマを受けた人は、「私は愛される価値がない」「私の中身は壊れてしまった」という形で、自己の物語(アイデンティティ)を根底から粉砕されてしまいます。
セラピーにおいてアタッチメント(安全な繋がり)を再構築することは、あくまで「土台作り」に過ぎません。
最終的なゴールは、患者が誰かの付属物やトラウマの犠牲者として生きるのではなく、「自分の人生の主人公は自分である」という確固たるアイデンティティを取り戻すことです。
発達心理学者のMargaret Mahlerら(1975)の「分離個体化理論(Separation-Individuation Theory)」は、この関係性を見事に説明しています。
乳幼児は母親とぴったりくっついた共生期(アタッチメント)を経て、少しずつ母親から離れ(デタッチメント)、自分の世界を探索することで、最終的に「独立した一個の人間(アイデンティティ)」として個体化していきます。
つまり、安全な繋がりをベースにして、そこから適度な距離をとって離れることができて初めて、人は「私」というアイデンティティを確立できるのです。
4. 三位一体のダイナミクス:回復の航海図として
ここまで見てきたように、トラウマからの回復と心の成熟において、これら3つの概念は対立するものではなく、ダイナミックに相互作用する三位一体のシステムです。
対人神経生物学のDaniel Siegel(2012)は、心の健康を「統合(Integration)」という言葉で定義し、それは「分化(個々が独立していること=デタッチメントとアイデンティティ)」と「連結(互いに結びついていること=アタッチメント)」が両立した状態であると論じています。
この三位一体の統合をAIに図にしてもらったのが以下です。
おわりに
トラウマという深い傷を負った際、私たちは他者との繋がりを強烈に求めると同時に、再び傷つくことを恐れて過剰に距離をとろうとする葛藤に苦しみます。その回復の道のりは、ただ「誰かと温かく密着すること」を目指すものではありません。
現代のセラピーでは、アタッチメントを強調する傾向がありますが、実際のセラピーでは、アタッチメントだけでなく、上記の三位一体の統合が、必ず必要となります。
セラピーにおいてもそれ以外の方法でも、回復の過程は、他者と温かく繋がり(アタッチメント)、しかし同時に相手に飲み込まれずに適度な境界線を守り(デタッチメント)、最終的に「私は私である」という揺るぎない感覚(アイデンティティ)を取り戻す、長く(時に苦しくけれども)豊かな旅です。
この「デタッチメント(適度な距離)とアイデンティティの重要性」は、まさに現代の臨床心理学が目指す、人間のしなやかな強さ(レジリエンス)の本質にかかわるものです。
この視点を持つことは、心理臨床の現場のみならず、私たちが複雑な現代社会で健全な人間関係を築いていく上でも、極めて強力な羅針盤となるのではないでしょうか?
【引用・参考文献】
2026年
4月
09日
木
カップルカウンセリングをしていて、この10年で感じられる大きな変化があります。
それは、タイトルにも書きました「妻たちの大反撃」です。
この10年を便宜的にコロナ前とコロナ中、そしてコロナ後と分けて考えてみます。
1「コロナ前」~被害に耐え続けてきた妻たち
これはコロナ前とは言うものの実は10年よりももっと前から続いていました。
この時期の夫婦カウンセリングは、家事をしない夫、暴言を吐くもしくは暴力を振るう夫、浮気する夫などの問題が多数を占めていました。
もちろん、それ以外の問題のご夫婦もありましたが、大きな傾向としてはそうでした。
そこには、DVはもちろん、発達障害傾向がある夫に振り回されてすっかり疲弊し、混乱しているいわゆる「カサンドラ症候群」の妻も多かったです。
このような妻たちは、その被害を控えめに訴えるか、夫の前ではあまり声高に言えず、別の個別セッションで被害を訴えるという場合が多かったです。
個別面接で「奥さん、それはDVなので、しっかり一時避難したり、長期的に別居を考えたりもしませんか?」と問いかけても、あまりはっきりした返答が返ってこない場合も多かったです。
このようなご夫婦には、私が作った「3つのお願い表」や、内閣府男女共同参画局の「○○家作戦会議」をお渡しして、2人の思いの違いや不満・希望を明確化していただくという介入もしてきました。
2「コロナ中」~対等に戦い始めた妻たち
ところが2020年、コロナが蔓延して、カウンセリングも一斉にオンラインとなったあの年から、一般に言う「コロナ離婚」問題のご夫婦が急増しました。
これはご存じのように、コロナ自粛で在宅ワークが増えたご夫婦が、24時間いっしょに居ることがきっかけとなっていました。自粛生活のスタイルの食い違いからストレスフルになり、夫婦喧嘩が増えて来談するものの元々の食い違いの多い夫婦だった場合がほとんどでした。(ブログ「心のソーシャルディスタンス」参照)
とくにあの時期は成城カウンセリングオフィスの近隣からの申し込みが多かったため、徒歩か車でオフィスに来ていただいて、お互いマスクして窓を開けて対面でカウンセリングをやっていました。
この時のもめ方は「夫婦対等」になっていた印象があります。
むしろ、家での夫の振る舞い、そしてコロナ禍にもかかわらず友人と飲みに行ったり、時にはキャバクラに行ったりしたことが発覚して責められるという、夫が分が悪いという感じの話し合いが多かった印象です。
3「コロナ後」~妻たちの大反撃
ところがコロナが収まった2023年頃から、妻たちの大反撃が始まりました。
もちろん、先述のご夫婦たちとは別のご夫婦たちなので、それまで我慢していた妻たちが反撃に出たとは言い切れないのですが、大きな潮流として感じざるを得ません。
それ以前から全くなかったわけではなかった「夫婦喧嘩で警察を呼ぶ」「近隣が通報して警察が来る」というケースが急に増えました。
それも、夫のDVに苦しんだ妻が身の危険を感じて通報するというよりも、お互いの喧嘩がエスカレートして、時には夫や近隣が通報して警察が来るというのも含まれていました。
この頃になると警察も慣れてきて、しっかりと双方から事情を聴取して、場合によってはその日だけは別々に過ごすことを指導したり、収まった様子を見て、説諭にとどめたりなどとこちらから見ても適切な対応をしてくれるようになりました。
その昔「民事不介入」と言って、家庭問題には一切かかわってくれなかった頃の警察とは全く別の対応となっています。
さらに夫婦カウンセリングの場面でも、妻が夫を激しく責めてなじって侮蔑してという場面が増えました。
さすがにそれは私が静止して「お互い極論になってしまっていますから、もう少し穏やかに!」としますが、家ではもっと激しい喧嘩が繰り広げられている様子です。
夫に殴られたら殴り返すというあっぱれな妻も現れました。
そしてとうとうこの1,2年で、「反撃しすぎる妻」が増えてきました。
4 反撃しすぎる妻たち
そうです。対等をはるかに超えて、夫を撃退する勢いの妻たちです。
正論ではあるけれど、それを強く激しく長時間にわたって主張する妻、一度爆発すると止まらない妻、多額の財産分与と養育費を請求して、結果的には家庭裁判所からも否定される妻等々です。
場合によっては、協議離婚した後に、妻が引き取った子どもの元夫との面会交流の約束を、いろいろな理由をつけて一度も果たさないということもあります。
これまで、ずっと我慢してきた妻たちが、やっと声を上げることができるようになり、時にその声が大きくなりすぎてしまうと考えると、とてもよくわかるので、それを責める気には全くなれないのですが。。。
それでも、夫によっては「女性の権利の濫用だ!」と(ひそかに)訴える人もおり、確かに過剰過ぎてかえってことがうまく運ばない、と思わざるを得ないケースも見られるようになって考えさせられる日々となりました。
そんな中で、信田さよ子先生がこのような記述をされているのを発見しました。
(私は)何冊かの著作において、「被害者権力」という言葉を使ってきた。被害者と自己定義した人たちが、苛烈に繰り広げる加害者への批判・攻撃に対する批判の言葉として、つまり被害者であることを支配のツールとして用いることへの批判としてである。(信田、2026)
https://www.webchikuma.com/n/n5beff3cfd9f3
まさに、そうかもしれない。
信田先生は、被害者が自分は被害者だと認めることそのものも苦しく、忌避したくなるものであり、それが権力志向にもつながるものだという深い理解も示しておられます。
まさにその通りで、それまで被害者として自分を認識できなかった妻たちが、昨今の社会的な動きに勇気を得て、「自分は被害者だったんだ」と認めた瞬間、これまで抑えてきてものが一気に爆発して、炎上して、極端な行動になってしまうのはとてもよくわかることです。
そして、このような反撃しすぎてしまう心を何とか現実的な対話として着地させるのが、私たちカウンセラーの使命かもしれないと思うようになりました。
どう着地してもらうか?
それまで穏やかで気弱な様子ではあるけれど、本当は「上から目線」だった夫に、しっかりと「対等な」目線で対話していくことを促すこともあります。また、妻の(急な)攻撃を恐れて、必要なことまで曖昧にしてしまっていて、かえって妻の怒りをかっている場合には、「どうしても無理なことはしっかり理由を説明して断る」などをご指導したりetc.
やはり夫がどう対応できるかに鍵があるというのは、変わらない感じがしています。
2026年
1月
27日
火
新年早々、すごい本を読んでしまった。
まだ、今年になって読んだ本は2冊目なのに、もう「これは今年のベストワンだ!」と決めた。
この本は、複雑性PTSDのクライエントさんから紹介していただき、そのままお借りして読んだ。
本書の著者は精神分析セラピーを3年以上にわたって受けた、複雑性PTSDの40代後半の女性。フィクションを含んだものとなっているが、基本的には実話だと言っていいだろう。
セラピストは30代男性。かなり正統的な精神分析家らしい。著者はこのセラピストと週2~3回、寝椅子を使ったセラピーを受け続けている(4年目となる?現在も継続中とのこと)。
これまで精神分析もユング派のセラピーもセラピスト側からの報告や論文、手記はかなり読んできたが、クライエント側からのここまでリアルな手記は初めて読んだ。
これは、近年注目されがちなトラウマセラピーの本ではない。
旧来の、いわば技法なしの、セラピストがその生身を提供して、長い長い時間と費用をかけて、取り組んでいくタイプの心理療法だ。
精神分析ならではの、初期には全く手ごたえを感じられず、ひたすら苦しくなるばかりのセラピー。そこから来る希死念慮、そして実際の自殺企図から措置入院。
しかし、これは精神分析のせいではなく複雑性PTSDのセラピーであれば、避けがたい経過でもある。
しかも、それがセラピストとの関係性の中で生じてくるのは、精神分析の特徴ともいえる。
そして以前から不特定男性とのセックスの行動履歴があったクライエントは、次第にセラピストと「性交」したいと強く願うようになり、それをセラピストに繰り返し伝える。不特定男性とは「セックス」を繰り返してきたが、セラピストとは「セックス」ではなく「性交」を望んだのだ。
この要望に対してセラピストがどのように対応したかは、ここには書かない。
それはネタバレでもあるし、本書で描かれた経過なしに結末だけ書くのは本書への冒涜に近いとも思うからだ。
そして、クライエントはしだいにそれまで自分自身に対してさえも隠していた本質的な傷つきに到達していく。
まずは流産にまつわる傷つき、そして次に9歳のころの性被害。
そしてそれらを通じて、クライエントは「支配ー被支配」というこれまでの唯一の関係性から「性交」という別の関係性に開かれて行く。
それは本当の意味での「交流」であり、「支配―被支配」という関係ではない。
この「性交」という言葉に象徴されるような、セラピストとクライエントとの心のふれあいと交流(と言葉で言うとあまりにも薄っぺらいものになってしまうが)によって、クライエントは、「愛されたい自分」に気付き、寂しさを感じるようになり、そして「自分で自分を分かってあげる」ようになる。
こうしてやっと、長い長いセラピーの成果が少しずつ見え始める。。。
評者自身の実施しているセラピーはここまで濃厚なものではない。
そして、統合的にいろいろな技法も取り入れるので、様相はだいぶ違う。
けれども、本質的に流れているものは似ていると言っていいだろう。
短期的にすぐにお役に立てるセラピーも、このような本格的な(このようにしか進まない)長期的なセラピーも、ニーズに合わせてより上手にできるようになりたいという願望は捨てがたい。
本書の中のセラピストはどのように思いながらこのセラピーを進めて行ったかはわからない。
けれども、評者の私は、「もう少しスムーズに、もう少し苦しみを少なく、もう少し早く何とかできないか」とついつい思ってしまう。
でも、そうならないケースがあるのも事実で、しかも「急いだら」元も子もなくなるケースもある。
そんな人間の限界と奥深さを改めて身にしみて感じさせられる本だった。
2026年
1月
01日
木
現代日本の40代の心理士たちはなんて優秀なんだろうか?
私のオフィスの40代スタッフたちもそうだけれど、すでに出版物等でも名を馳せている40代心理士たちの優秀さには、限りない希望を感じる。
それはおそらく大英帝国が没落した後にビートルズやレッドツェッペリン、クイーンなどを輩出したイギリスの状況と、バブル崩壊後30年にわたる停滞を経験している日本が、似た状況だということなのかもしれない。(日本のアニメの素晴らしさにはすでにそれを感じていた)
本書の著者もまごうことなく現代日本の突出した心理学者の一人だ。
はじめは、ちょっとふざけた軽い内容の本かなと思った。
でも、それはとんでもない偏見だった。
ちょっと言い訳させてほしい。
「○○の教科書」っていうと、やっぱりちょっとキワモノ的だし、サブタイトルは上編が「ふたりのキッチン」、下編が「ブロッコリーの花言葉」となっている。
表紙は二人の性別不明の若者が八の字眉毛で、小指でつながれた毛糸(しかも黒い毛糸)に困った様子で、足元はおぼつかない感じのイラストだ。
でも、ここからはまじめに紹介しよう。
今、日本でカップルセラピーの需要はうなぎのぼりだと実感している。
コロナ禍の時期には、いわゆる「コロナ離婚」の問題として、そしてコロナ以降は主に「妻たちの不満の爆発」と「それに対応できない夫」としてのカップルセラピーの需要の高まりを強く感じている。
考えてみれば、カップルの関係を修復するサービスって、心理職にしかできないと思う。
福祉職が支援するのは、もうすでにかなり破綻したカップルのどちらか被害にあっている側や、そのカップルの子どもに対してだ。
弁護士や裁判所が支援するのは、これまたすでにかなり破綻した関係のカップルの事後処理的な場面だったりする。
心理職だけが「今後もっとひどくならないために、前向きにカップルの関係を修復する」「よりよい関係を構築していく」というサービスが可能なのだ。
しかも、カップルのいわば外側、財産や居住形態、虐待やDVを防ぐためのシステムというよりも、カップルの関係そのものに踏み込んで修復するという醍醐味とやりがいのある仕事だと感じている。
さらに、カップルの関係を修復できたら、少子化の問題や虐待の連鎖や貧困、将来のメンタル問題の発生などをも防げるという意味で、個人カウンセリングの数倍の社会貢献にもつながると感じている。
また、AIに心理相談する人が急増している現代において、人間の心理士が今後も当分優位を保てるのは、家族療法とグループセラピーだという指摘もある(Frances,2025)。
(ちなみにこの記事には「人間のカウンセリングの優位性を保つためには、新しい複雑で重篤な病態への対応と、そのための統合的心理療法である」とも指摘されている)
こういった状況の中で、この「カップルセラピーの教科書」の発刊はとてもタイムリーなものと言えるし、これからの日本の臨床心理学の可能性を広げるものだと思う。
そして、本書の特に上編に貫かれている実証主義を重視する姿勢に触れるにつけ、これまで細々とカップルセラピーの実践をしてきた私にとっては「私を含め日本のカップルセラピストたちは、なぜ、効果検証をしようとしてこなかったのか」という自責の念にも駆られる。とにかく全体として骨太の教科書だということが痛感された。
さらに、実証性を重んじたセラピーの教科書だけあって、とてもとても統合的な本になっている。その意味では「心理療法統合ハンドブック」(杉原・福島編著、2022)のカップルセラピー編になっていると言ってもいいだろう。
以下、章をなぞりながら、読者としての私の個人的な感想という形で書かせていただく。
本書では第Ⅰ部の「カップルセラピーの基礎」において、現代のカップルが抱える基本的な問題やそれに注目することの意義や歴史、世界観を伝えてくれる。
その中では、個人療法の歴史から家族療法の歴史までが概観されて、「なぜカップルセラピーなのか」という本書の中心的テーマに導いてくれる。
第Ⅱ部においては、ゴットマンの一連の研究を包括的かつ詳細に紹介してくれている。ゴットマンの研究については、かねてから断片的に知ってはいたものの、日本語でここまで包括的に紹介されるのは初めてのことなので、これだけでも十分な価値のあるものとなっている。
とくに第6章においては、ゴットマンの「夫婦の会話を3分観察するだけで、その後二人が別れるかどうかが96%の精度で予測できる」という有名なテーゼをめぐって丁寧な解説がなされる。
実際にはゴットマンは夫婦に15分間会話してもらい、その中で(a)その日の出来事、(b)二人の間で意見が一致しない葛藤的な課題、(c)二人の間で意見が一致している楽しい出来事について順に話し合ってもらうというものだったらしい。
そして続く第7章において、ゴットマンの研究から「別れの四重奏」という著者独自の翻訳ネーミングによる、離婚するカップルの特徴が具体的に紹介される。
それは「批判、自己弁護、軽蔑、石像化」の4要素である。
この4要素があるカップルは遅かれ早かれ離婚するというのが、ゴットマンの研究のエッセンスだということである。
そして、反対に幸福な夫婦を予測する指標としては、「傾聴がある」ことや「怒りがない」ことではなく、ポジティブ感情の比率がネガティブ感情より多く、ネガティブ感情のエスカレーションがない事だという。
これらは個人的経験からも臨床経験からも、おおいにうなづけることだ。
第Ⅲ部では代表的なカップルセラピーを、その効果の実証性を基に紹介している。
そこには当然ながらゴットマン夫妻の介入プログラム、伝統的行動的カップルセラピー、ダン・ワイルのセラピーなどが紹介されている。
そして第Ⅳ部ではいよいよ感情焦点化カップルセラピーと統合的行動的カップルセラピーという、著者が実践においては最も参考にしていると思われるセラピーが詳しく紹介されている。
感情焦点化カップルセラピーでは、感情とアタッチメントが重視される一方で、統合的行動的カップルセラピーでは、「カップルが‟お互いとの違い”や‟それぞれが抱える繊細さ”を理解し、そうした違いをより批判的でない形で捉え、お互いが持つ特性に対し、ありのままに受け入れられるようになること(アクセプタンス)」を目標として掲げているという。
これは私(評者)の目指すところととても近いと感じた。
日本の夫婦はそもそもセックスレスである場合が多く、感情焦点化カップルセラピーが目指すような「熱い関係」は、そもそも望めないのではないかと感じる事が多いからだ。
とくにカップルのどちらかに発達の偏りがある場合は、感情焦点化カップルセラピーはとても難しいと感じている。
第Ⅴ部においては、日本のカップルへの適用に向けて「カップルセラピーの共通要因」「文化・社会」「ジェンダー」という3つのテーマを中心に解説されている。まさに統合的な視点からさらに対象とする人たちの文化や好みにも合わせようという「エビデンス・ベースト・プラクティス」の最先端の姿勢が、ここにも見て取れる。
ここでは、日本の「相補協調的自己感」と、「アタッチメント理論と「甘え」理論」についてかなり丁寧に論じられている。そして、後の章でさらに重要となる「応答希求」とそれに対する対手からの「応答」というセットについて、ヨーロッパ系アメリカ人とアジア人の違いをいくつかの研究から明らかにしている。
つまり日本のカップルは欧米のカップルよりもより「応答希求」を表明しない傾向があるために、それをパートナーが気づいて(察して)応答しないと傷つきが生じ、孤独や気持ちのすれ違いが起こるというのである。
そのために日本でのカップルセラピーは「すれ違いをきっかけとして、親密な相互作用を起こすつまり「すれ違いを出会いに変える」という相互作用を促す必要があるという筆者独自のカップルセラピー(CCT)の方法につながっていく。
しかし、著者は急がない。
ここで、日本のカップル関係とジェンダーについて詳しく考察する(第19章)。それは日本最古の夫婦とされるイザナギとイザナミの話(古事記)にまでさかのぼり、あの有名な黄泉の国にまつわる神話に触れる。カップルがはらむ政治性と家父長制の伝統、さらには現代日本の子供を中心とする家族関係、このような状況の中での「男性性の傷つきやすさ」や「セラピーを受けることに関する恥」等にも触れられている。
ただ、評者から見ると、日本女性の強さに関する記述が欠けているとも思われる。それは卑弥呼から始まって、シャーマンやシャーマン的指導者は日本列島においては例外的に女性が多いこと。北条政子から「船場吉兆のささやき女将」に至る「女主人」の系譜などから、日本女性の「陰の実力者」としての能力である。
いずれにしても、行動療法出身の著者の著書にこれほどまで詳しい文化史的な記述があるとは、全く予想しなかった。
そして、いよいよフィナーレであり、著者独自の「文脈的カップルセラピー」について紹介される第Ⅵ部にはいる。
この文脈的カップルセラピー(CCT)は、2セッションの予防的セラピーであり、「最小のセッション数で最大の効果を目指す」というコンセプトで開発されたものである。
著者の手によってすでにRCT(ランダム化比較化試験)が行われ、その効果も実証されている。
発想としてはブリーフセラピーのプラグマティズムを取り入れ、正統的であるよりも実用的であることを目指し、同化的統合という心理療法統合を志向していることもよくわかる。
それは行動主義よりも「ある目的から見て効果的であることこそが真実」という文脈主義の立場でもあるという。
実際の介入は以下の手順を取る。
(1)焦点化・・・気持ちのすれ違いVS出会いの会話への焦点化
前述の応答希求性とそれへの応答性の問題に焦点化するということである。
(2)積極的介入・・・エナクトメント
「今、ここで」すれ違いを出会いに変えるやり方と、そこから来るポジティブ感情を体験する機会を作る
(3)柔軟な実践
ここにきて、本書下巻の表紙にもサブタイトルにもあるブロッコリーの伏線が回収される。このブロッコリーの喩えは、このCCTにとてもとてもピッタリで、普段健康のためにできるだけブロッコリーを食べるようにしている評者にとっても、とても分かりやすい謎かけと比喩になっている。
ここでは、ネタバレを防ぐために、これ以上は説明しないでおこう
さて、いよいよ最終章は「実存的な対話を求めて」である。
最終章だけあって、実はこの章が本書の中で最も「深み」のある章となっている。
この章ではマルティン・ブーバーの実存主義哲学と禅の思想を基礎として、「魂」や「価値」について論じ、さらにはアタッチメント理論を「聖杯」(つまり絶対的中核)とする立場に疑問を投げかけることもしている。そしては進化科学への言及も含めて、私たちの生命が持つ意味や目的という方向性についても触れている。
これらはすべて「人間はなぜカップルとなることを求め、そしてカップルはどこを目指しているのか」という問いに対する、著者のもがきにも似た思索である。
「生活のため」とか「子孫を残すため」という明確な目的を失った現代のカップルにとって、このような思索は不可欠である。
そこで重要視されるのは「つながり」と「親密さ」である。
ここでとうとう「“親密さ(intimacy)とは禅における"悟り"を的確に表現した言葉だと言えるだろう」という一見とんでもないテーゼが登場する。
本来、仏教における「悟り」とは、「無常」「無我」「空」といったこの世の真理を体得することであるというのが一般的な理解である。
けれども著者は「パートナー二人にとっては、お互いとの関係性そのものが、そして、お互いにかかわり合う瞬間瞬間のプロセスそのものが、”神”であり”悟り”でありうる」としている。
一見とんでもないテーゼと書いたが、著者はしっかりと関連文献を読み込み、さらにこの悟りが英訳においてintimacyと表現されることがあるのを突き止めてからの考察でもある。
ただし、評者からするとここで使われているintimacyは英語のoneness(一体性)、やラテン語のUnusuMundus(ウヌス・ムンドゥス:一なる世界)に近いものではないだろうかと思われる。
けれども、著者がここでintimacyを悟りととらえ、それがカップルの間の親密性でもあるととらえたい気持ちはとてもよくわかる気がする。
それくらい難しく尊いものであり、実践の中で常に確かめ続けて行くしかないないものであるのは、間違いないから。
そして、この論はさらに中身態へと突き進んでいく。
この中動態理論の引用によって、「”親密さ(悟り)”とは、自己と世界という一つの内部において、”する/される”ではない、おのずと生まれるプロセスなのだと改めて理解することができる」とされる。
つまり、評者たちの世代に親しみのあるところで言うと河合隼雄の”自然(じねん)モデル”
に近いものであることがわかる。
論はさらに進んで、霊性(Spirit)つまりスピリチュアリティとメタ認知、そしてコンパッション(慈悲)におよび、最後に振り出しに戻って、以下のような控えめな結論に達する。
「カップルセラピー(CCT)では、”親密な対話の促進”、これを価値として選択する」と。
【感想】
最後に、少しまとまった形で本書全体への感想を述べたい。
本書の主張はすべて賛成である。実証研究の部分はもちろん、最終章第22章の「実存的な対話を求めて」についても、その結論も大賛成である。
非常に実践的科学的な本でありながら、最終章にここまで対話哲学や禅、スピリチュアリティに踏み込んだものとなったのは、著者がアクセプタンス・アンド・コミットメントセラピーなどの、仏教的な思想と近いセラピーに造詣が深いからこそだと思われる。
ただし、実践上の問題としてCCTの「2セッションのみの予防的介入」には、多少の疑問を抱かざるを得ない。
評者の臨床経験としても、たしかに問題が軽いカップルは、2回の介入で十分に効果があり、その効果は、比較的永続的である。たとえばすでに個人セラピーを受けているクライエントが、セラピーの経過中に結婚して、配偶者との関係性に少し悩んで1,2回のカップルセラピーを実施した場合などに経験したことが、数例ある。
けれども、カップルセラピーとして初回からお二人で来談される場合は、すでに問題はかなりこじれて深刻なものとなっている。そして、少なくとも5~10回のセッションが必要となる。
評者のオフィスに来談されるカップルは、精神科クリニックから勧められてとか、子ども家庭支援センターからの紹介でなど、すでに警察も介入しているケースも少なくない。
つまりCCTは、実証性に優れているけれど、実際的であるかどうかが最大の疑問だ。別の言い方をすれば、市場のニーズがあるかどうかという点が疑わしい。もちろん、今後は回数を多くしたCCTを開発予定なのかもしれないが。。。
もう一つの疑問は、「すでにある日本のカップルセラピーの実情と伝統にあまり触れられていない」と思われる点である。平木典子、野末武義らの名前がほとんど登場しないのは、少し残念である。ここには著者なりの意図があるのかもしれないが。。。
本書全体として非常に読みごたえがあったが、とくに最終章の対話哲学的、宗教哲学的な考察は深さもあり、一番の読み応えのある章だった。
上下巻両方の最後にあるエピローグからも推察されるように、カップルセラピーへのこのものすごいとも言える情熱は、著者自身の体験とも深くつながっているようである。そして、「親密性」を「悟り」や「霊性」の意味にまで高めて重要視する姿勢は、同性代の東畑開人の「つながり」理論との共通性を強く感じる。
もちろん世代の違う私も、どちらにも多いに共感するのだが、ここまでの情熱は持てない。それは私が「しらけ世代」に属するせいかもしれないし、思春期を高度成長期に過ごし、オイルショックを経験しながらも、バブル期に青年期を迎えた(私個人は貧乏大学院生だったので、全く関係なかったけれど)世代だからかもしれない。
著者たちの世代はそれだけ寂しさと虚無感を抱えた、しんどい世代なのかもしれない。
その寂しさと虚無感が、こういう天才たちを育んでいるのだとしたら、これはこれで悪くないのかもしれない。
この「失われた30年」で、日本が得たものはじつは大きいのかもしれない。
文献
Allen Frances(2025) Warning: AI chatbots will soon dominate psychotherapy
Published online by Cambridge University Press: 20 August 2025
※今回の記事は2015年の「臨床心理学特集号-カウンセリング・テクニック」(金剛出版)に掲載されたものの元原稿に加筆修正したものです。
-カウンセリングのベーシックテクニック6
[理解]触れあう=「今ここ」での関係
(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫
Ⅰ はじめに
カウンセリングでクライエント(以下Cl)とセラピスト(以下Th)が触れあうということについて、わかりやすく説明するのはとても難しい。色々なレベルの触れあいがあり、さらにどのように触れあうと、Clがどのように感じるのかが予測も効果もなかなか分かりにくいことが多いからだ。
ここで、カウンセリングにおける出会いと触れあいを、イヌ(Th)とネコ(Cl)の出会いにたとえてみたい。街角で初めて出会ったイヌとネコを想像してみよう。あるいはもっと正確なたとえにするとしたら「一見、優しそうな表情をしたイヌの所に、元気のなさそうなネコが来て、ちょっと様子をうかがう」とした方がいいかもしれない。ネコは見るからに弱っているかもしれないし、見たところ普通だけれども目だけがおびえていて、逃げ足は速いかもしれない。あるいは意外にも喧嘩っ早いトラブルネコで、簡単には触れあわせてもらえないかもしれない。反対に一度気を許すととんでもない甘えん坊の「かまってちゃん」ネコかもしれない。
一方、イヌの方は例外なく初めは一見優しそうにしているだろう。でも、実はがっちりと飼い主や組織に管理されている、まさに「○○のイヌ」かもしれない。さらには飼い主や師の教えにものすごく忠実な「忠犬」で、全ての活動は「教えを守るため」あるいは「教えの正しさを証明するため」だけにされているかもしれない。そして、ひそかに(名誉や権力)に飢えているかもしれない。反対に飼い主や世の中に強い反感を持っているかもしれない。もっと多いのは「世の中のかわいそうなネコを救うことに全身全霊を尽くしている」という、いわゆるヒロイックなお助け犬かもしれない。
このようなさまざまな個性を秘めたネコに対して、別の意味で様々な個性をもったイヌが、どのようにしたらしっかりと役に立てるのだろうか。一筋縄ではいかないけれど、それでも何らかの形で、触れあって、何らかの形で働きかけないといけないだろう。触れあうことに慎重になることは何よりも大切だけれど、慎重にやりすぎて、ネコが失望して路地裏や野山に去っていっては役に立てない。そのネコが捨てネコなのか迷いネコなのか、あるいはいじめられネコなのかによっても、必要とされる対応が全く違う。
以上、かなり突飛なたとえだったかもしなれいが、カウンセリングにおけるClとThの出会いと触れあいを考えるときに、主訴や相談内容とは別に、様々な要因が絡んでいることをまずは意識しておきたい。そして、このような様々な要因のうちのCl側のそれは、始めから明らかな場合も多いが、Th側のそれは、Th自身にもよくわかっていないまま巧妙に覆い隠されつつ、それでも数回会ううちに、2人の関係に多大な影響をもたらし始めるのである。
Ⅱ 「今ここで」触れあうとは-ロジャース・精神分析・ユング・認知行動療法-
カウンセリングにおいてThとClが心理的に触れあうとは、どういうことだろうか。ロジャース,C.R.による、「治療過程が生じる条件」としてあげられている6条件のうちの第1条件が、まさにこの触れあいに関するものである。それは「二人の人が心理的な接触をもっていること」とされている。そして、第2条件以下は、例の主要3条件とそれがClに伝っていることなどが続く。
しかしその一方で、精神分析においては「Clの欲求を満たしてはいけない」として、Clの触れあい欲求や不安低減欲求をある程度でも満たすような治療法を「支持的療法」として、下に見る傾向がある。でありながら、やや古い研究ではあるが、精神分析的精神療法で顕著な改善を示したのは、全て支持的な精神療法だったとの報告もある(生田、1996)。
ユング派においては、箱庭療法を分析心理学の技法として導入したカルフ,D.の「自由で保護された空間の中での、母子一体感にも似た」という言葉からも、十分に触れあいを重んじていることがうかがえる。ユング自身の著作に当たれば、とくに『分析心理学』や『転移の心理学』の中で、ClとThの無意識的な触れあいである「神秘的関与」による両者の変容が、その危険性への十分な注意喚起とともに述べられている。
認知行動療法(CBT)においては、触れあうことはとくに述べられていないが、「ホットな認知を扱う」として、感情を伴った認知を喚起する場合がある。おそらくこのような認知を取り扱う際には何らかの触れあいが生じているに違いないと思われるが、あまり正面から「触れあい」として取り上げられることはない。
筆者の基本的な姿勢は、統合的心理療法を探るというものである。このような技法も態度もClに合わせてカスタマイズするという考え方から、この項の結論を述べてしまえば『Clに応じて、最適な形で触れあうことをめざす』ということになる。それは単にクラエントの求めに応じるわけでも、Clに同調するわけでもない。あくまでも「その個々のClに最適な」触れあいをめざすのである。
そんなことがいったい可能なのだろうか。不可能である。けれども、不可能と知りつつめざすことが、不可能だからめざさないよりもはるかに質の高いものになると考えている。では、何をよりどころに最適な形を推測するのかは、この項の後半で述べることにする。
Ⅲ 各学派での「触れあい」方
来談者中心療法における「触れあい」は、Thの「うなずき」「相づち」から始まって、Thの共感と「無条件の肯定的関心」によって、すでにある程度成立する。さらにThの純粋性に由来する「Thの自己開示」によってなされることが多い。
また、精神分析技法における「今ここhere and now」では、主にClがこれまでの人生で繰り返してきたパターンをThとの間でも繰り返していることを、Thへの転移を指摘することも含めて、まさにその瞬間に指摘する技法である。その意味では直面化などの解釈技法の中心となるものであるので、詳しくはこの特集の「解釈」の項に譲りたい。この解釈技法であっても、自我心理学的な精神分析における「解釈の投与」から、サリバン,H. に代表される対人関係学派やウィニコットやビオンに代表される対象関係論、さらにはKohutの自己心理学派のかなりソフトな「言葉による触れあい」と言ってもよさそうな解釈の伝え方まで、かなり幅があると言える。
さらに近年確立されつつある、統合的な心理療法のいくつかの中でも、触れあいは様々な言葉で重視されている。感情焦点化療法(EFT: Greenberg)では、まさに感情に焦点化していくために、「空の椅子」や「二つの椅子」の技法を使いながら、ThがリードしつつClのこれまで封印されてきた感情にまで触れていく。この際にThが共感的に肯定すること(empathic affirmations)や共感的に探索すること(empathic exploration)が重要視されている。また、精神力動的なアプローチから発展した短期力動療法の一つである加速化体験療法(AEDP: Fosha, 2000)では,面接の場の安全性を確保するために,Clを積極的に肯定すること(affirmation)を重視しながら、トラウマティックな感情に対して「そこに私(Th)といっしょに留まって!」と伝えて、十分に触れていくことで変容を促進する。さらに弁証法的行動療法(DBT: Linehan,1993)では、Validation(承認)やCheerleading(はげまし)によってClの問題行動を「これまでの経緯からすれば妥当なもの」と認めつつ、新しい行動を応援するという形で触れあっていく。
おそらくシステムズアプローチやその他のブリーフセラピーにおけるリフレーミングやエンパワメント(どちらも本特集の別項を参照)も、結局は触れあいながら行っているという点では触れあい技法でもある。
Ⅳ verbalな触れあいとnon-verbalな触れあい
-「アイコンタクト」「うなずき」「相づち」「沈黙」「声のトーン」「笑い」-
これまで論じた理論や概念を抜きにしても、ThとClが会った瞬間から、すでに視線で触れあいが始まり、Clが話し始めれば「うなずき」「相づち」の形で触れあいが進んでいく。さらに沈黙にどう対応するか、声の大きさや話すスピードによっても、触れあっているかどうかの差は截然とする。そしてそれらがうまく進んでいった後に自然な「微笑み」や「笑い」にまで到達できれば、かなり触れあえているかもしれない。これらは全て基本的にはClのスタイルに合わせるべきである。アイコンタクトは「じっと見つめてくるClには、こちらもじっと見つめて」いく。反対に目を逸らしがちなClには、Thも見つめすぎないように」することが大切である。そして「ヒソヒソ話」には「ヒソヒソ話」で応じることで、静かだが劇的な触れあいが生じることもある。
もちろん、描画や箱庭による触れあいや、時によっては筆談も、例外的には動作療法のような身体的な触れあいもある。いずれにしてもnon-verbalな触れあいは、とてもインパクトも影響力も大きいのにThの側は、定型化して慣れっこになっていたり無神経になっていたりする場合がある。時々、自分の面接を録音・録画して、自己チェックや仲間同士のチェックを受けるとこのような歪みが修正できる可能性があるので、お勧めする。
Ⅴ 添った触れあいとズラした触れあい
とくにnon-verbalな触れあいは、触れあっていればいいというものではないし、「Clにぴったり添った触れあいができていればいい」ということでもない。例えば、いつもとても明るく元気よく話すClにこちらも合わせて、明るく元気よく話し続けて「先生、能天気なんですね」と言われたことがある。反対に、Clに合わせて暗く沈黙がちに対応していて「そんな暗い顔しないでください」と言われてしまったこともある。どちらの例も、このように言われること自体は悪くないし、こう言い合える関係があるということは、関係作りに成功していると言える。しかし、このように言えずに不満を募らせていって、関係が修復不能にまでなる場合もある。
声のトーン、話す速度、目線、沈黙、笑い等々のすべてに関して、Clのそれに合わせつつも「合わせ過ぎない」という「意図的なずらし」も必要なのである。速くて大きなしゃべり方には、それとかけ離れない程度のゆっくりめの中くらいの声で応じる。表面的な語りには、それよりもやや深めた内容で返すなどの意図的なズラシである。同様に、あまりにも沈んだ沈黙がちのClには、それよりもやや明るめの声で、少しThの方が言葉を多めにする場合も必要だと思う。笑いに関しては、ここで短く論じるのはとても難しいが、基本的にはClの笑いについていくべきであるが、「ごまかし」でない笑いが自然に起こるようなセッションは、これこそまさに触れあいの極意と言えるだろう。
Ⅵ 触れあうこと、それはパンドラの箱を開けるのに似たリスクを含む
ここまで述べてきたが、「触れあい」がリスクをはらんだものだということを強調しておかなくてはいけない。自己開示も「今ここで」の解釈・直面化も、non-verbalなものも、すべて下手にやったらClを傷つけたり、セラピー関係を修復不能なまでに損なうことがありうる。
けれども、この「触れあうこと」なしには本当の変化が生じることが難しいケースが多いのも事実である。ある女性専門職のClは、30回近いセッションを経た後にThの対応のズレに対して、Thの促しに応じてかなり厳しいTh批判を繰り広げ、その後に初めてThへの信頼感がもて、自己愛人格傾向が弱まって行った。これも、通常ならば「何もしない」はずの所で、Thがあえて触れあっていったからこそ起こった怒りであり、厳しい批判であった。
このように、触れあうことはそれまでClが固く閉ざしていた心の中の「パンドラの箱」を開けることにつながり、そこには激しい怒りや深い悲しみ、雪女のような触れるものすべてを凍てつかせる恨みが秘められているかもしれない。しかし、これを開けなければ変容が訪れないなら、慎重に意図的に開いていくしかないのである。
Ⅶ どのようなClにどのように触れあって行くのか
では、本項の本題ともいうべき「どのようなClにどのように触れあっていけばいいのか」について、簡単に解説したい。福島(2006、2011)においては、Clの内省力と変化への動機づけを簡単な質問でアセスメントして、それに応じて大まかに4種類の態度と技法を調整すべきであるとした。
ここにごく簡単にまとめれば、内省力と動機づけのともに高いClには、受身的中立的な態度で、まさにこれまでの教科書にあるような来談者中心的あるいは精神分析的な触れあいから、洞察を促すような態度がよい。しかし、動機づけが高くとも内省力の乏しいClには、Thがリードしつつ触れあいつつ、心理教育を中心とした関わりが必要である。さらに内省力が高くとも変化への動機づけが低い場合には、Thは積極的に感情面に触れたり、Th自身の感情をある程度開示したり、「肯定的介入」でClと触れあったりしないと変化が生じない。最後に動機づけと内省力のともに低い場合には、触れあい自体が難しいが、Thの肯定的な触れあいや、時にはTh自身の失敗談や挫折体験をすら含んだ「体験の自己開示」が有効な場合もある。本特集の別項「ミラクルクエスチョン」や「リフレーミング」が特に有効なのも、この領域のClである。(図2.参照)
福島の統合モデルでは、これら以外にClのスピリチュアルな次元にも、響きあう領域で深めていくということも含まれている(図3.参照)が、詳しくは上記の論文や著書を参照していただきたい。
Ⅷ 今後の展開
筆者は、ここ数年、これまで述べてきたような「触れあい」に関して、シンプルに「ClとThの心理的距離」という視点からとらえられないかを試みている。2つのスケールを、カウンセリング・ロールプレイや試行カウンセリング、さらにはカウンセリング実験の評定軸として用いて、ある程度の有効性が確認できている(樽澤・福島2015)。少なくともTh側がこのようなスケールを頭に入れて、「今ここで」の関係性への感覚を研ぎ澄ますことが何より重要と思われる。
さらにMallinckrodt,B. et al.(2014)によって試みられているような、理想的な「治療的距離」とClのアタッチメント・スタイルとの関連を探ることによって、Clごとに異なる理想的な触れあいを提供する際の指標となるのではないかと考えている。Mallinckrodt,B. et al.によれば、治療前に回避的なアタッチメント・スタイルを示したClはThの関わりを「近すぎる」ものとして知覚し、反対に治療前に不安を感じていたClはThの関わりを「遠すぎる」と知覚していたという。さらに、治療の進展によって回避的だったClはThに対して関わりをもつようになり、反対に治療前に不安の高かったClは、期待に反して治療後も自律性が高まっていなかったとしている。
この研究はまだまだ試論の段階であり、Clのアタッチメント・スタイルや治療的距離をどのように測定するかという方法上の問題もあるが、「個々のClに最適な触れあいを探る」という点では、可能性に満ちた研究だと言える。
いずれにしても、触れあい方に唯一正しい定式化された解はない。何らかの指標を持ちながら、その瞬間瞬間に最適なものを選び取っていくしかない。その意味で、「探究する姿勢」が欠かせないということを強調して、この項を終わりたい。
文献
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樽澤百合・福島哲夫(2015)カウンセリング場面における聴き手の頷き量が話し手に与える影響に関する実験研究-知覚された共感性、快感情、心理的距離に注目して-.日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.
2026年
5月
05日
火
1. はじめに
心理療法における「癒し(Healing)」は、単なる症状の消失や社会適応の回復という医療モデル的・還元主義的な枠組みに留まるものではない。深層心理学を中心とする心理療法において、治癒とはクライエントの存在のあり方が根本的に再編成され、世界と自己との関係性に新たな意味が見出されるプロセスを指す。
しかし、ポスト・モダン哲学の進展は、こうした「一貫した自己」や「単一の意味」の回復という治癒像そのものに疑義を呈してきた。
J.F.リオタール(1979/1986)が指摘した「大きな物語の終焉」は、心理療法における治癒の定義を、普遍的な自己実現から、断片的でローカルな意味の生成へと変容させている。
本稿では、この癒しのプロセスを理解するための二つの強力な理論的枠組みとして、「物語(Narrative)」と「コスモロジー(Cosmology)」という概念を取り上げる。
日本におけるユング心理学の導入者であり、独自の臨床思想を構築した河合隼雄は、心理療法を「クライエントが自らの物語を創造するプロセス」として捉え、「物語的な癒し」の重要性を説いた(河合隼雄, 1997)
一方で、その後継者であり、現代の変容する病態に対して理論的刷新を図ってきた河合俊雄は、「物語」を編む近代自我そのものの限界を指摘し、前近代的かつ客観的な世界秩序としての「コスモロジーによる癒し」を提唱している(河合俊雄, 2004)。
本稿では、臨床心理学・深層心理学の観点から、これら二つのパラダイムの理論的背景、治癒のメカニズム、および現代臨床における両者の相補的意義について、両氏の論考を参照しながら詳述する。
2. 心理療法における「物語的な癒し」:河合隼雄の視座を中心に
「物語」の臨床的定義と人間の存在論的基盤
河合隼雄(1997)は、『心理療法と物語の働き』において、人間を「物語を生きる存在」として位置づけた。ここでの「物語」とは、単なるフィクションや過去の出来事の羅列ではなく、断片的な体験や無意識からの混沌としたイメージに因果律と意味を与え、ひとつの連続した「私」という主体を成立させるための存在論的な基盤である。
近代科学は事象を客観的かつ要素還元的に記述しようとするが、人間の生きられる現実は主観的な意味のネットワーク(すなわち物語)によって構成されている。河合隼雄は、個人の内的世界において、意識と無意識の間に橋を架け、人生の無意味さや不条理に耐えうるだけの意味論的枠組みを提供するのは「物語」の機能であると論じた。
病理の発生と「物語」の破綻
河合隼雄の枠組みにおいて、神経症や精神疾患といった心理的「病」は、「これまで生きてきた古い物語が、内的な成長や外的な環境変化に耐えきれず、有効性を失い破綻した状態」として理解される。自我が固守する古い物語と、無意識から湧き上がる新たな生命のエネルギー(影やアニマ/アニムスの欲求)との間に深刻な乖離が生じたとき、その葛藤は「症状」として立ち現れる。
ここで重要なポスト・モダンの視点は、M.フーコー(1976/1986)が論じたように、こうした「古い物語」自体が社会的な規律訓練や権力言説によって内面化された「支配的な物語」である可能性である。物語の破綻は、近代的な主体という抑圧的な枠組みからの解放の側面を持ち合わせている。
症状は、古い物語の破綻を告げる警告であると同時に、新たな物語の生成を要求する無意識からのteleological(目的論的)なメッセージでもある。河合隼雄は、この症状の持つ意味を解読し、クライエント自身の内側から新しい物語が立ち上がるのを待つことの重要性を説いた。
共創プロセスとしての心理療法と「癒し」
物語的な癒しとは、セラピストという他者の存在(器)を媒介として、クライエントが自らの崩壊した物語を紡ぎ直し、より全体性を包含した「新たな神話(個人的神話)」を生成することである。
この過程において、セラピストはクライエントの物語を一方的に解釈したり、外側から正しい物語を与えたりする「権威者」であってはならない。これは、R.バルト(1967/1988)が提唱した「作者の死」の臨床的応用とも言える。
つまり、セラピストが「意味の源泉(作者)」であることを放棄することで、クライエントという「読者」による自由な意味の生成を可能にするのである。河合隼雄(1992)は、日本神話の「中空構造」に言及しつつ、セラピストは自らの心を「無(空)」にしてクライエントに寄り添い、共に物語を生きる「共創者」としての態度(近年ネガティヴ・ケイパビリティと言われるようになったもの)を保持すべきであると主張した。
3. 「コスモロジーによる癒し」:河合俊雄の視座を中心に
「物語」パラダイムの限界と病態水準の変容
河合隼雄の物語論は、神経症水準のクライエントに対しては極めて有効に機能した。しかし、現代社会において臨床の主戦場は、境界性パーソナリティ障害、解離性障害、発達障害、あるいは重度のひきこもりといった、より基底的な病態へとシフトしている。
河合俊雄(2004)は、これらの現代的な病態に対して「物語による癒し」が機能不全に陥っていることを鋭く指摘した。ポスト・モダンにおける「主体の解体」が進展した状況では、G.ドゥルーズ(1968/1992)が説く「器官なき身体」のように、統合された自己という前提そのものが無効化されている。
物語を紡ぐためには、そもそも「私」という連続した主体(近代自我)が確立されている必要があるが、解離や発達の偏りを持つ現代のクライエントの多くは、物語の「語り手」となるべき自我そのものが脆弱であるか、未形成である。彼らに「自らの物語を生きる」ことを要求するのは、存在しない自我への過剰な負担となり、かえって自己組織化の崩壊を招く危険性がある。
コスモロジー(宇宙観・世界秩序)の再導入
この「物語の語り手(主体)」の不在という臨床的危機に対し、河合俊雄(2006)が提示した治癒のパラダイムが「コスモロジー(Cosmology)」である。コスモロジーとは、個人の内面や主観を超えた、外部に存在する客観的な意味の体系、あるいは前近代的な世界秩序(宇宙観)を指す。
近代心理学は「意味や心は、個人の内面にある」という前提に立ってきたが、河合俊雄はW. ギーゲリッヒの「客観的プシュケ(Objective Psyche)」の概念も踏まえつつ、心の本質は個人の内部に還元されるものではなく、世界という広がりの中に遍在していると捉え直した。あるいはさらに言えば我々の個々の存在は、魂という世界の中に存在しているとした。
これは、ポスト構造主義が指摘した「主体とは構造の派生物である」という洞察と軌を一にするものである。
外部の秩序への「配置」としての癒し
コスモロジーによる癒しとは、クライエントが「自らの力で内面から物語を紡ぎ出す」ことではなく、治療の場に立ち現れる「外部の秩序(コスモロジー)の中に、クライエント自身が『布置』される」ことによって生じる。
セラピストに求められるのは、クライエントの内面に共感することではなく、箱庭、描画、あるいは面接室における事物や身体的な布置(コンステレーション)の背後に働く「自律的な事象の法則性(コスモロジー)」を発見し、それを客観的に記述・承認することである。
具体的には、クライエントの内部(それは夢や箱庭や描画を通じて知ることになるが)から、何らかの秩序が立ち上がるのを期待しつつ待ち、それが立ち現れたなら、逃すことなく、認識する(言語化するかどうかはケースバイケース)ということになる。
あるいはセラピストがいわば世界(の代表)となり、クライエント個人に間接的に秩序をもたらすという感じである(このような主語と述語を持った現代的な文章では表現できないのだが。。。)。
ドゥルーズ&ガタリ(1980/1994)の用語を用いれば、これはツリー型(因果律的な物語)の癒しから、リゾーム型(並列的・非階層的な接続)の癒しへの転換と言い換えることができるかもしれない。
河合俊雄(2016)によれば、バラバラに解離していた事象が、ある「客観的な秩序(星座)」として結びついたとき、自我の統合を待たずして、事象そのものが自律的に癒しをもたらす。個人が意味を作るのではなく、世界(コスモス)の側が個人に居場所と秩序を与えるのである。
4. 臨床的統合と展望:物語とコスモロジーの相補性
近代自我と前近代の交錯
河合隼雄の「物語的な癒し」と河合俊雄の「コスモロジーによる癒し」は、一見すると対立するパラダイムのように見える。前者は近代的な「個」の確立を目指すベクトルであり、後者は近代自我の限界を見据え、個の外部にある「環境・世界との不可分性」へと向かうベクトルである。
しかし、臨床の実際においては、これら二つのパラダイムは相補的・重層的に機能する。現代のクライエントは、近代的な自我を確立しなければならないという社会からの圧力に苦しむ一方で、その重圧に耐えきれず前近代的な未分化の状態へと退行・解離しているからである。
パラダイムの臨床的使い分けと移行
実際の心理療法においては、クライエントの病態水準や面接のフェーズに応じて、セラピストがこれら二つのパラダイムを意図的に往還することが求められる。
重篤な解離を呈するクライエントに対しては、初期段階において「コスモロジーによる癒し」が主導権を握る。感覚統合的なアプローチを通じて、言語化できない身体感覚や事象を「あるがままの秩序」として見出していく。その後、コスモロジーの安定したコンテナの中で事象が繋がり始めた段階で、初めて「私」という主語が立ち上がり、河合隼雄的な「物語的な癒し」への移行が可能となる。
逆に、強迫的な一貫性の物語に囚われたクライエントに対しては、C.レヴィ=ストロース(1962/1976)が説いた「ブリコラージュ(手近な材料の寄せ集め)」のような、断片的で非合理なコスモロジーを導入することで、硬直した物語を脱構築することが治療的意義を持つとも考えられる。
5.臨床事例を通じたパラダイムの往還と統合
架空の臨床事例:A氏(20代前半・大学生)の夢分析プロセス
ここで、これまでの論考をより現実に着地させるために臨床事例を呈示してみたい。
近代自我の解離と前近代的な事象の混淆を呈したA氏の事例(守秘義務に配慮し複数のケースを合成した架空事例)を通じて、両パラダイムがいかに臨床現場で交差するかを記述する。
【主訴と見立て】
A氏は大学進学を機に「自分が自分でない感覚(離人感)」と「言葉がまとまらない」という症状を呈し、休学・ひきこもり状態となっていた。初回面接においてA氏は自身の生い立ちや苦悩を「物語る」ことができず、断片的な身体感覚を呟くのみであった。これは、近代的な「語る主体」が機能不全に陥っている状態だと考えた。
【第1期:語りの不全とリゾーム的空間(コスモロジー的介入)】
面接が数回進んだ頃、A氏は「ひたすら幾何学的な図形が明滅し、金属音が響くだけの空間」という、自分自身(夢自我)が全く登場しない無機質な夢を報告した。
セラピストはここで「その図形は何を意味するのか」「どう感じたか」と問う(抑圧された内面の物語として解釈する)ことを控えた。むしろ、この夢を個人的な葛藤の産物ではなく、C.G.ユングの客観的プシュケ、あるいはドゥルーズ&ガタリが言う「リゾーム(中心や主体のない接続)」的な事象のありのままの現れとして扱った。セラピストは意味の還元(ツリー型解釈)を保留し、その無機質な夢の空間(コスモロジー)をただ共に眺める「証人」に徹した。
【第2期:秩序の生成とブリコラージュ(パラダイムの移行)】
数ヶ月間の面接を経る中で、A氏の夢に変化が生じた。
無機質な空間の中に「境界線」のような川が現れ、明滅していた図形が「冷たい石碑」として特定の場所に「布置(コンステレーション)」されたのである。ある日、A氏はこの夢を語り終えた後、ふと「この石碑の冷たさは、ずっと凍りついていた私の胃の底の感覚と同じだ」と自発的なメタファーを用いた。
ここで、客観的な事象の秩序(コスモロジー)の中から、夢のイメージと身体感覚という手近な素材を結びつけ、自らの体験に意味を与える「ブリコラージュ(野生の思考)」が発生した。
【第3期:「私」の立ち上がり(物語的介入)】
さらに後の夢では、ついにA氏自身(夢自我)が夢の中に登場し、その石碑に触れるという行動をとった。
これを契機に、セラピストは徐々に「物語的パラダイム」へと移行した。
A氏の夢に現れた「私」という主語を足場として、「石碑に触れたとき、あなたはどこへ向かおうとしていたのでしょうか?」と、事象に時間軸と因果律(物語)を付与する問いかけを行った。
A氏は徐々に、休学に至るまでのプレッシャーや親との葛藤を、自分自身の言葉で「一つの個人的神話」として紡ぎ始めた。
事例の理論的考察
このA氏の事例は、前述したポスト・モダンの諸概念を臨床的現実に着地させるものである。
①リゾームとコスモロジーの調停
超越論的・前近代的な「コスモロジー」と、非階層的な「リゾーム」は対立するように見える。しかし臨床空間において、セラピストが「解釈しないこと」によって維持する「夢という客観的現実(局所的なコスモロジー)」があるからこそ、クライエントはその内部で安全に自己を解体し、リゾーム的な断片として存在することができる。
すなわち、「コスモロジー的コンテナ(器)の内部においてのみ、リゾーム的な癒しは成立する」という重層構造が見出される。
②パラダイム移行のトリガー
物語とコスモロジーのパラダイム・シフトは、セラピストが恣意的に操作するものではない。
事例が示すように、無意識の自律的な秩序(夢の布置)に身を委ねる中で、クライエント自身の内側から「事象をブリコラージュし、『私』という主語を取り戻す瞬間」が立ち現れる。
セラピストの役割は、この微細な主体の萌芽を見逃さず、客観的観察者(コスモロジーの証人)から、共創的な対話者(物語の伴走者)へと自らの立ち位置を滑らかに移行させることである。
6. おわりに
心理療法における治癒のメカニズムは、時代精神や病態の変容とともに進化してきた。
河合隼雄が提示した「物語的な癒し」は、近代社会において内面の葛藤に苦しむ人々に対し、自らの人生の意味を再構築するための強力な方法論を提供した。
一方、河合俊雄が提唱する「コスモロジーによる癒し」は、近代自我が崩壊した現代の病理に対して、個人の内面を超えた客観的プシュケや世界秩序との再接続という新たな救済のパラダイムを切り拓いた。
ポスト・モダンという不確かな時代において、癒しとは「一つの正解としての物語」に到達することではない。むしろ、物語とコスモロジーの間を絶えず揺れ動きながら、固定的な自己イメージを脱構築し続けるプロセスそのものが、現代的な「癒し」の正体であると言えるだろう。
現代の心理職には、この両翼を併せ持つことによってのみ、複雑化する人間の苦悩に真に応答することが可能となると私は考える。
引用文献
河合隼雄 (1992). 『昔話と日本人の心』 岩波書店.
河合隼雄 (1997). 『心理療法と物語の働き』 岩波書店.
河合俊雄 (2004). 『概念の心理学・物語の心理学』 日本評論社.
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2026年
4月
29日
水
臨床心理学の領域において、近年「トラウマ」と「アタッチメント(愛着)」の関連性が極めて重要なテーマとして扱われています。
傷ついた心を癒やすための基盤として、他者との安全な結びつきが不可欠であるという認識は、現在の心理臨床における中核的なパラダイムとなっています。
しかし、「デタッチメント(距離を置くこと)」の重要性、そしてアタッチメントとは異なる次元で不可欠な「アイデンティティ(自己同一性)」の役割への視点は、臨床的にも非常に大切で、人間の精神的成熟の本質にかかわる問題だと思います。
本コラムでは、これら4つの概念がどのように交差し、私たちの心の回復と成長を支えているのかを現時点で可能な範囲で紐解いていきましょう。
1. アタッチメントの光と、トラウマによるその断絶
まずは前提として、アタッチメントとトラウマの関係を確認しておきましょう。
John Bowlby(1969)によって提唱されたアタッチメント理論は、人間(特に乳幼児)が特定の養育者との間に結ぶ情緒的な絆を指します。
この絆は、外界を探索するための「安全基地(Secure Base)」となり、傷ついた時に逃げ込む「安全な避難所(Safe Haven)」として機能します。
トラウマ(特に虐待などの対人関係トラウマや複雑性PTSD)の残酷さは、この「安全基地」そのものを破壊してしまう点にあります。
精神科医のJudith Herman(1992)は、その歴史的著書『トラウマと回復』の中で、トラウマは被害者から他者への基本的な信頼感を奪い、世界との繋がりを断ち切ってしまうと指摘しました。
だからこそ、トラウマケアの第一歩は、治療者や安全な環境との間で「もう一度、安全なアタッチメント(繋がり)を結び直すこと」に置かれます。
しかし、臨床の現場では「繋がること」だけでは不十分な場面に必ず直面します。ここで、「デタッチメント」と「アイデンティティ」の出番がやってくるのです。
2. デタッチメントの再評価:病理的な「切り離し」から、健全な「適度な距離」へ
伝統的な心理学や精神医学において、「デタッチメント(Detachment)」という言葉はネガティブな響きを持つことが少なくありませんでした。
Bowlby(1973)は、母子分離の悲哀の最終段階として、子どもが養育者を諦め無関心になる状態を「デタッチメント」と呼びました。
また、トラウマの文脈では、耐え難い苦痛から心を守るために感情や身体感覚を切り離す「解離(Dissociation)」や「感情の麻痺」としての防御的なデタッチメントが問題視されます。
しかし、現代の臨床心理学、とりわけ家族療法やマインドフルネスを基盤とする心理療法においては、デタッチメントは「健全な境界線(バウンダリー)の維持」と同義として扱われます。
例えば、家族システム理論の第一人者であるMurray Bowen(1978)は、心の健康の指標として「自己の分化(Differentiation of Self)」を提唱しました。これは、他者の強い感情や不安に巻き込まれず(融合せず)、自分の思考と感情を切り離す(デタッチする)能力を指します。
相手の痛みに過剰に同調して自分を見失う「共依存(Enmeshment / 過剰な巻き込まれ)」に陥るのではなく、相手は相手、自分は自分として「適度な距離」を保つこと。これは決して冷酷な態度ではなく、相手を一個の独立した人間として尊重し、かつ自分自身を守るための「思いやりのあるデタッチメント(Compassionate Detachment)」なのです。
アタッチメントが「くっつく力」だとすれば、健全なデタッチメントは「離れる力・線を引く力」です。トラウマからの回復においては、他者と安全に繋がる能力と同等に、他者に侵入されず自分だけの安全な空間を確保するための「適度な距離をとる能力」が不可欠となります。
けれどもここで大切なのは、カウンセラー・セラピストが、従来の「中立」的で「自己開示しない」ということではありません。
クライエントの苦しみにできるだけ共感し、これまで生き抜いてきたことを肯定し、「今、ここで」感じたことを自己開示しながらも、時間になったらセッションを終了し、セッション外のメールなどのやり取りは必要最低限にすることで、まさに「思いやりのあるデタッチメント」が確立するのです。
3. アイデンティティ:繋がりと分離の果てに立ち上がる「私」
そしてアタッチメントとは違う意味で大切なのが「アイデンティティ(Identity)」です。
Erikson,E.H.(1959)が提唱したアイデンティティ(自己同一性)は、「自分が何者であり、過去から未来へどう繋がっているのか」という自己の連続性と統合性の感覚を指します。
アタッチメントが「他者との関係性(We)」に焦点を与えるのに対し、アイデンティティは「個としての確立(I)」に焦点を当てます。
トラウマの専門家であるvan der Kolk,B.(2014)は、トラウマが脳や身体に及ぼす影響を論じた上で、トラウマ体験は単に記憶の問題ではなく「自分自身を生きている感覚(主体性)」を奪い取るものだと論じました。
激しいトラウマを受けた人は、「私は愛される価値がない」「私の中身は壊れてしまった」という形で、自己の物語(アイデンティティ)を根底から粉砕されてしまいます。
セラピーにおいてアタッチメント(安全な繋がり)を再構築することは、あくまで「土台作り」に過ぎません。
最終的なゴールは、患者が誰かの付属物やトラウマの犠牲者として生きるのではなく、「自分の人生の主人公は自分である」という確固たるアイデンティティを取り戻すことです。
発達心理学者のMargaret Mahlerら(1975)の「分離個体化理論(Separation-Individuation Theory)」は、この関係性を見事に説明しています。
乳幼児は母親とぴったりくっついた共生期(アタッチメント)を経て、少しずつ母親から離れ(デタッチメント)、自分の世界を探索することで、最終的に「独立した一個の人間(アイデンティティ)」として個体化していきます。
つまり、安全な繋がりをベースにして、そこから適度な距離をとって離れることができて初めて、人は「私」というアイデンティティを確立できるのです。
4. 三位一体のダイナミクス:回復の航海図として
ここまで見てきたように、トラウマからの回復と心の成熟において、これら3つの概念は対立するものではなく、ダイナミックに相互作用する三位一体のシステムです。
対人神経生物学のDaniel Siegel(2012)は、心の健康を「統合(Integration)」という言葉で定義し、それは「分化(個々が独立していること=デタッチメントとアイデンティティ)」と「連結(互いに結びついていること=アタッチメント)」が両立した状態であると論じています。
この三位一体の統合をAIに図にしてもらったのが以下です。
おわりに
トラウマという深い傷を負った際、私たちは他者との繋がりを強烈に求めると同時に、再び傷つくことを恐れて過剰に距離をとろうとする葛藤に苦しみます。その回復の道のりは、ただ「誰かと温かく密着すること」を目指すものではありません。
現代のセラピーでは、アタッチメントを強調する傾向がありますが、実際のセラピーでは、アタッチメントだけでなく、上記の三位一体の統合が、必ず必要となります。
セラピーにおいてもそれ以外の方法でも、回復の過程は、他者と温かく繋がり(アタッチメント)、しかし同時に相手に飲み込まれずに適度な境界線を守り(デタッチメント)、最終的に「私は私である」という揺るぎない感覚(アイデンティティ)を取り戻す、長く(時に苦しくけれども)豊かな旅です。
この「デタッチメント(適度な距離)とアイデンティティの重要性」は、まさに現代の臨床心理学が目指す、人間のしなやかな強さ(レジリエンス)の本質にかかわるものです。
この視点を持つことは、心理臨床の現場のみならず、私たちが複雑な現代社会で健全な人間関係を築いていく上でも、極めて強力な羅針盤となるのではないでしょうか?
【引用・参考文献】
2026年
4月
09日
木
カップルカウンセリングをしていて、この10年で感じられる大きな変化があります。
それは、タイトルにも書きました「妻たちの大反撃」です。
この10年を便宜的にコロナ前とコロナ中、そしてコロナ後と分けて考えてみます。
1「コロナ前」~被害に耐え続けてきた妻たち
これはコロナ前とは言うものの実は10年よりももっと前から続いていました。
この時期の夫婦カウンセリングは、家事をしない夫、暴言を吐くもしくは暴力を振るう夫、浮気する夫などの問題が多数を占めていました。
もちろん、それ以外の問題のご夫婦もありましたが、大きな傾向としてはそうでした。
そこには、DVはもちろん、発達障害傾向がある夫に振り回されてすっかり疲弊し、混乱しているいわゆる「カサンドラ症候群」の妻も多かったです。
このような妻たちは、その被害を控えめに訴えるか、夫の前ではあまり声高に言えず、別の個別セッションで被害を訴えるという場合が多かったです。
個別面接で「奥さん、それはDVなので、しっかり一時避難したり、長期的に別居を考えたりもしませんか?」と問いかけても、あまりはっきりした返答が返ってこない場合も多かったです。
このようなご夫婦には、私が作った「3つのお願い表」や、内閣府男女共同参画局の「○○家作戦会議」をお渡しして、2人の思いの違いや不満・希望を明確化していただくという介入もしてきました。
2「コロナ中」~対等に戦い始めた妻たち
ところが2020年、コロナが蔓延して、カウンセリングも一斉にオンラインとなったあの年から、一般に言う「コロナ離婚」問題のご夫婦が急増しました。
これはご存じのように、コロナ自粛で在宅ワークが増えたご夫婦が、24時間いっしょに居ることがきっかけとなっていました。自粛生活のスタイルの食い違いからストレスフルになり、夫婦喧嘩が増えて来談するものの元々の食い違いの多い夫婦だった場合がほとんどでした。(ブログ「心のソーシャルディスタンス」参照)
とくにあの時期は成城カウンセリングオフィスの近隣からの申し込みが多かったため、徒歩か車でオフィスに来ていただいて、お互いマスクして窓を開けて対面でカウンセリングをやっていました。
この時のもめ方は「夫婦対等」になっていた印象があります。
むしろ、家での夫の振る舞い、そしてコロナ禍にもかかわらず友人と飲みに行ったり、時にはキャバクラに行ったりしたことが発覚して責められるという、夫が分が悪いという感じの話し合いが多かった印象です。
3「コロナ後」~妻たちの大反撃
ところがコロナが収まった2023年頃から、妻たちの大反撃が始まりました。
もちろん、先述のご夫婦たちとは別のご夫婦たちなので、それまで我慢していた妻たちが反撃に出たとは言い切れないのですが、大きな潮流として感じざるを得ません。
それ以前から全くなかったわけではなかった「夫婦喧嘩で警察を呼ぶ」「近隣が通報して警察が来る」というケースが急に増えました。
それも、夫のDVに苦しんだ妻が身の危険を感じて通報するというよりも、お互いの喧嘩がエスカレートして、時には夫や近隣が通報して警察が来るというのも含まれていました。
この頃になると警察も慣れてきて、しっかりと双方から事情を聴取して、場合によってはその日だけは別々に過ごすことを指導したり、収まった様子を見て、説諭にとどめたりなどとこちらから見ても適切な対応をしてくれるようになりました。
その昔「民事不介入」と言って、家庭問題には一切かかわってくれなかった頃の警察とは全く別の対応となっています。
さらに夫婦カウンセリングの場面でも、妻が夫を激しく責めてなじって侮蔑してという場面が増えました。
さすがにそれは私が静止して「お互い極論になってしまっていますから、もう少し穏やかに!」としますが、家ではもっと激しい喧嘩が繰り広げられている様子です。
夫に殴られたら殴り返すというあっぱれな妻も現れました。
そしてとうとうこの1,2年で、「反撃しすぎる妻」が増えてきました。
4 反撃しすぎる妻たち
そうです。対等をはるかに超えて、夫を撃退する勢いの妻たちです。
正論ではあるけれど、それを強く激しく長時間にわたって主張する妻、一度爆発すると止まらない妻、多額の財産分与と養育費を請求して、結果的には家庭裁判所からも否定される妻等々です。
場合によっては、協議離婚した後に、妻が引き取った子どもの元夫との面会交流の約束を、いろいろな理由をつけて一度も果たさないということもあります。
これまで、ずっと我慢してきた妻たちが、やっと声を上げることができるようになり、時にその声が大きくなりすぎてしまうと考えると、とてもよくわかるので、それを責める気には全くなれないのですが。。。
それでも、夫によっては「女性の権利の濫用だ!」と(ひそかに)訴える人もおり、確かに過剰過ぎてかえってことがうまく運ばない、と思わざるを得ないケースも見られるようになって考えさせられる日々となりました。
そんな中で、信田さよ子先生がこのような記述をされているのを発見しました。
(私は)何冊かの著作において、「被害者権力」という言葉を使ってきた。被害者と自己定義した人たちが、苛烈に繰り広げる加害者への批判・攻撃に対する批判の言葉として、つまり被害者であることを支配のツールとして用いることへの批判としてである。(信田、2026)
https://www.webchikuma.com/n/n5beff3cfd9f3
まさに、そうかもしれない。
信田先生は、被害者が自分は被害者だと認めることそのものも苦しく、忌避したくなるものであり、それが権力志向にもつながるものだという深い理解も示しておられます。
まさにその通りで、それまで被害者として自分を認識できなかった妻たちが、昨今の社会的な動きに勇気を得て、「自分は被害者だったんだ」と認めた瞬間、これまで抑えてきてものが一気に爆発して、炎上して、極端な行動になってしまうのはとてもよくわかることです。
そして、このような反撃しすぎてしまう心を何とか現実的な対話として着地させるのが、私たちカウンセラーの使命かもしれないと思うようになりました。
どう着地してもらうか?
それまで穏やかで気弱な様子ではあるけれど、本当は「上から目線」だった夫に、しっかりと「対等な」目線で対話していくことを促すこともあります。また、妻の(急な)攻撃を恐れて、必要なことまで曖昧にしてしまっていて、かえって妻の怒りをかっている場合には、「どうしても無理なことはしっかり理由を説明して断る」などをご指導したりetc.
やはり夫がどう対応できるかに鍵があるというのは、変わらない感じがしています。
2026年
1月
27日
火
新年早々、すごい本を読んでしまった。
まだ、今年になって読んだ本は2冊目なのに、もう「これは今年のベストワンだ!」と決めた。
この本は、複雑性PTSDのクライエントさんから紹介していただき、そのままお借りして読んだ。
本書の著者は精神分析セラピーを3年以上にわたって受けた、複雑性PTSDの40代後半の女性。フィクションを含んだものとなっているが、基本的には実話だと言っていいだろう。
セラピストは30代男性。かなり正統的な精神分析家らしい。著者はこのセラピストと週2~3回、寝椅子を使ったセラピーを受け続けている(4年目となる?現在も継続中とのこと)。
これまで精神分析もユング派のセラピーもセラピスト側からの報告や論文、手記はかなり読んできたが、クライエント側からのここまでリアルな手記は初めて読んだ。
これは、近年注目されがちなトラウマセラピーの本ではない。
旧来の、いわば技法なしの、セラピストがその生身を提供して、長い長い時間と費用をかけて、取り組んでいくタイプの心理療法だ。
精神分析ならではの、初期には全く手ごたえを感じられず、ひたすら苦しくなるばかりのセラピー。そこから来る希死念慮、そして実際の自殺企図から措置入院。
しかし、これは精神分析のせいではなく複雑性PTSDのセラピーであれば、避けがたい経過でもある。
しかも、それがセラピストとの関係性の中で生じてくるのは、精神分析の特徴ともいえる。
そして以前から不特定男性とのセックスの行動履歴があったクライエントは、次第にセラピストと「性交」したいと強く願うようになり、それをセラピストに繰り返し伝える。不特定男性とは「セックス」を繰り返してきたが、セラピストとは「セックス」ではなく「性交」を望んだのだ。
この要望に対してセラピストがどのように対応したかは、ここには書かない。
それはネタバレでもあるし、本書で描かれた経過なしに結末だけ書くのは本書への冒涜に近いとも思うからだ。
そして、クライエントはしだいにそれまで自分自身に対してさえも隠していた本質的な傷つきに到達していく。
まずは流産にまつわる傷つき、そして次に9歳のころの性被害。
そしてそれらを通じて、クライエントは「支配ー被支配」というこれまでの唯一の関係性から「性交」という別の関係性に開かれて行く。
それは本当の意味での「交流」であり、「支配―被支配」という関係ではない。
この「性交」という言葉に象徴されるような、セラピストとクライエントとの心のふれあいと交流(と言葉で言うとあまりにも薄っぺらいものになってしまうが)によって、クライエントは、「愛されたい自分」に気付き、寂しさを感じるようになり、そして「自分で自分を分かってあげる」ようになる。
こうしてやっと、長い長いセラピーの成果が少しずつ見え始める。。。
評者自身の実施しているセラピーはここまで濃厚なものではない。
そして、統合的にいろいろな技法も取り入れるので、様相はだいぶ違う。
けれども、本質的に流れているものは似ていると言っていいだろう。
短期的にすぐにお役に立てるセラピーも、このような本格的な(このようにしか進まない)長期的なセラピーも、ニーズに合わせてより上手にできるようになりたいという願望は捨てがたい。
本書の中のセラピストはどのように思いながらこのセラピーを進めて行ったかはわからない。
けれども、評者の私は、「もう少しスムーズに、もう少し苦しみを少なく、もう少し早く何とかできないか」とついつい思ってしまう。
でも、そうならないケースがあるのも事実で、しかも「急いだら」元も子もなくなるケースもある。
そんな人間の限界と奥深さを改めて身にしみて感じさせられる本だった。
2026年
1月
01日
木
現代日本の40代の心理士たちはなんて優秀なんだろうか?
私のオフィスの40代スタッフたちもそうだけれど、すでに出版物等でも名を馳せている40代心理士たちの優秀さには、限りない希望を感じる。
それはおそらく大英帝国が没落した後にビートルズやレッドツェッペリン、クイーンなどを輩出したイギリスの状況と、バブル崩壊後30年にわたる停滞を経験している日本が、似た状況だということなのかもしれない。(日本のアニメの素晴らしさにはすでにそれを感じていた)
本書の著者もまごうことなく現代日本の突出した心理学者の一人だ。
はじめは、ちょっとふざけた軽い内容の本かなと思った。
でも、それはとんでもない偏見だった。
ちょっと言い訳させてほしい。
「○○の教科書」っていうと、やっぱりちょっとキワモノ的だし、サブタイトルは上編が「ふたりのキッチン」、下編が「ブロッコリーの花言葉」となっている。
表紙は二人の性別不明の若者が八の字眉毛で、小指でつながれた毛糸(しかも黒い毛糸)に困った様子で、足元はおぼつかない感じのイラストだ。
でも、ここからはまじめに紹介しよう。
今、日本でカップルセラピーの需要はうなぎのぼりだと実感している。
コロナ禍の時期には、いわゆる「コロナ離婚」の問題として、そしてコロナ以降は主に「妻たちの不満の爆発」と「それに対応できない夫」としてのカップルセラピーの需要の高まりを強く感じている。
考えてみれば、カップルの関係を修復するサービスって、心理職にしかできないと思う。
福祉職が支援するのは、もうすでにかなり破綻したカップルのどちらか被害にあっている側や、そのカップルの子どもに対してだ。
弁護士や裁判所が支援するのは、これまたすでにかなり破綻した関係のカップルの事後処理的な場面だったりする。
心理職だけが「今後もっとひどくならないために、前向きにカップルの関係を修復する」「よりよい関係を構築していく」というサービスが可能なのだ。
しかも、カップルのいわば外側、財産や居住形態、虐待やDVを防ぐためのシステムというよりも、カップルの関係そのものに踏み込んで修復するという醍醐味とやりがいのある仕事だと感じている。
さらに、カップルの関係を修復できたら、少子化の問題や虐待の連鎖や貧困、将来のメンタル問題の発生などをも防げるという意味で、個人カウンセリングの数倍の社会貢献にもつながると感じている。
また、AIに心理相談する人が急増している現代において、人間の心理士が今後も当分優位を保てるのは、家族療法とグループセラピーだという指摘もある(Frances,2025)。
(ちなみにこの記事には「人間のカウンセリングの優位性を保つためには、新しい複雑で重篤な病態への対応と、そのための統合的心理療法である」とも指摘されている)
こういった状況の中で、この「カップルセラピーの教科書」の発刊はとてもタイムリーなものと言えるし、これからの日本の臨床心理学の可能性を広げるものだと思う。
そして、本書の特に上編に貫かれている実証主義を重視する姿勢に触れるにつけ、これまで細々とカップルセラピーの実践をしてきた私にとっては「私を含め日本のカップルセラピストたちは、なぜ、効果検証をしようとしてこなかったのか」という自責の念にも駆られる。とにかく全体として骨太の教科書だということが痛感された。
さらに、実証性を重んじたセラピーの教科書だけあって、とてもとても統合的な本になっている。その意味では「心理療法統合ハンドブック」(杉原・福島編著、2022)のカップルセラピー編になっていると言ってもいいだろう。
以下、章をなぞりながら、読者としての私の個人的な感想という形で書かせていただく。
本書では第Ⅰ部の「カップルセラピーの基礎」において、現代のカップルが抱える基本的な問題やそれに注目することの意義や歴史、世界観を伝えてくれる。
その中では、個人療法の歴史から家族療法の歴史までが概観されて、「なぜカップルセラピーなのか」という本書の中心的テーマに導いてくれる。
第Ⅱ部においては、ゴットマンの一連の研究を包括的かつ詳細に紹介してくれている。ゴットマンの研究については、かねてから断片的に知ってはいたものの、日本語でここまで包括的に紹介されるのは初めてのことなので、これだけでも十分な価値のあるものとなっている。
とくに第6章においては、ゴットマンの「夫婦の会話を3分観察するだけで、その後二人が別れるかどうかが96%の精度で予測できる」という有名なテーゼをめぐって丁寧な解説がなされる。
実際にはゴットマンは夫婦に15分間会話してもらい、その中で(a)その日の出来事、(b)二人の間で意見が一致しない葛藤的な課題、(c)二人の間で意見が一致している楽しい出来事について順に話し合ってもらうというものだったらしい。
そして続く第7章において、ゴットマンの研究から「別れの四重奏」という著者独自の翻訳ネーミングによる、離婚するカップルの特徴が具体的に紹介される。
それは「批判、自己弁護、軽蔑、石像化」の4要素である。
この4要素があるカップルは遅かれ早かれ離婚するというのが、ゴットマンの研究のエッセンスだということである。
そして、反対に幸福な夫婦を予測する指標としては、「傾聴がある」ことや「怒りがない」ことではなく、ポジティブ感情の比率がネガティブ感情より多く、ネガティブ感情のエスカレーションがない事だという。
これらは個人的経験からも臨床経験からも、おおいにうなづけることだ。
第Ⅲ部では代表的なカップルセラピーを、その効果の実証性を基に紹介している。
そこには当然ながらゴットマン夫妻の介入プログラム、伝統的行動的カップルセラピー、ダン・ワイルのセラピーなどが紹介されている。
そして第Ⅳ部ではいよいよ感情焦点化カップルセラピーと統合的行動的カップルセラピーという、著者が実践においては最も参考にしていると思われるセラピーが詳しく紹介されている。
感情焦点化カップルセラピーでは、感情とアタッチメントが重視される一方で、統合的行動的カップルセラピーでは、「カップルが‟お互いとの違い”や‟それぞれが抱える繊細さ”を理解し、そうした違いをより批判的でない形で捉え、お互いが持つ特性に対し、ありのままに受け入れられるようになること(アクセプタンス)」を目標として掲げているという。
これは私(評者)の目指すところととても近いと感じた。
日本の夫婦はそもそもセックスレスである場合が多く、感情焦点化カップルセラピーが目指すような「熱い関係」は、そもそも望めないのではないかと感じる事が多いからだ。
とくにカップルのどちらかに発達の偏りがある場合は、感情焦点化カップルセラピーはとても難しいと感じている。
第Ⅴ部においては、日本のカップルへの適用に向けて「カップルセラピーの共通要因」「文化・社会」「ジェンダー」という3つのテーマを中心に解説されている。まさに統合的な視点からさらに対象とする人たちの文化や好みにも合わせようという「エビデンス・ベースト・プラクティス」の最先端の姿勢が、ここにも見て取れる。
ここでは、日本の「相補協調的自己感」と、「アタッチメント理論と「甘え」理論」についてかなり丁寧に論じられている。そして、後の章でさらに重要となる「応答希求」とそれに対する対手からの「応答」というセットについて、ヨーロッパ系アメリカ人とアジア人の違いをいくつかの研究から明らかにしている。
つまり日本のカップルは欧米のカップルよりもより「応答希求」を表明しない傾向があるために、それをパートナーが気づいて(察して)応答しないと傷つきが生じ、孤独や気持ちのすれ違いが起こるというのである。
そのために日本でのカップルセラピーは「すれ違いをきっかけとして、親密な相互作用を起こすつまり「すれ違いを出会いに変える」という相互作用を促す必要があるという筆者独自のカップルセラピー(CCT)の方法につながっていく。
しかし、著者は急がない。
ここで、日本のカップル関係とジェンダーについて詳しく考察する(第19章)。それは日本最古の夫婦とされるイザナギとイザナミの話(古事記)にまでさかのぼり、あの有名な黄泉の国にまつわる神話に触れる。カップルがはらむ政治性と家父長制の伝統、さらには現代日本の子供を中心とする家族関係、このような状況の中での「男性性の傷つきやすさ」や「セラピーを受けることに関する恥」等にも触れられている。
ただ、評者から見ると、日本女性の強さに関する記述が欠けているとも思われる。それは卑弥呼から始まって、シャーマンやシャーマン的指導者は日本列島においては例外的に女性が多いこと。北条政子から「船場吉兆のささやき女将」に至る「女主人」の系譜などから、日本女性の「陰の実力者」としての能力である。
いずれにしても、行動療法出身の著者の著書にこれほどまで詳しい文化史的な記述があるとは、全く予想しなかった。
そして、いよいよフィナーレであり、著者独自の「文脈的カップルセラピー」について紹介される第Ⅵ部にはいる。
この文脈的カップルセラピー(CCT)は、2セッションの予防的セラピーであり、「最小のセッション数で最大の効果を目指す」というコンセプトで開発されたものである。
著者の手によってすでにRCT(ランダム化比較化試験)が行われ、その効果も実証されている。
発想としてはブリーフセラピーのプラグマティズムを取り入れ、正統的であるよりも実用的であることを目指し、同化的統合という心理療法統合を志向していることもよくわかる。
それは行動主義よりも「ある目的から見て効果的であることこそが真実」という文脈主義の立場でもあるという。
実際の介入は以下の手順を取る。
(1)焦点化・・・気持ちのすれ違いVS出会いの会話への焦点化
前述の応答希求性とそれへの応答性の問題に焦点化するということである。
(2)積極的介入・・・エナクトメント
「今、ここで」すれ違いを出会いに変えるやり方と、そこから来るポジティブ感情を体験する機会を作る
(3)柔軟な実践
ここにきて、本書下巻の表紙にもサブタイトルにもあるブロッコリーの伏線が回収される。このブロッコリーの喩えは、このCCTにとてもとてもピッタリで、普段健康のためにできるだけブロッコリーを食べるようにしている評者にとっても、とても分かりやすい謎かけと比喩になっている。
ここでは、ネタバレを防ぐために、これ以上は説明しないでおこう
さて、いよいよ最終章は「実存的な対話を求めて」である。
最終章だけあって、実はこの章が本書の中で最も「深み」のある章となっている。
この章ではマルティン・ブーバーの実存主義哲学と禅の思想を基礎として、「魂」や「価値」について論じ、さらにはアタッチメント理論を「聖杯」(つまり絶対的中核)とする立場に疑問を投げかけることもしている。そしては進化科学への言及も含めて、私たちの生命が持つ意味や目的という方向性についても触れている。
これらはすべて「人間はなぜカップルとなることを求め、そしてカップルはどこを目指しているのか」という問いに対する、著者のもがきにも似た思索である。
「生活のため」とか「子孫を残すため」という明確な目的を失った現代のカップルにとって、このような思索は不可欠である。
そこで重要視されるのは「つながり」と「親密さ」である。
ここでとうとう「“親密さ(intimacy)とは禅における"悟り"を的確に表現した言葉だと言えるだろう」という一見とんでもないテーゼが登場する。
本来、仏教における「悟り」とは、「無常」「無我」「空」といったこの世の真理を体得することであるというのが一般的な理解である。
けれども著者は「パートナー二人にとっては、お互いとの関係性そのものが、そして、お互いにかかわり合う瞬間瞬間のプロセスそのものが、”神”であり”悟り”でありうる」としている。
一見とんでもないテーゼと書いたが、著者はしっかりと関連文献を読み込み、さらにこの悟りが英訳においてintimacyと表現されることがあるのを突き止めてからの考察でもある。
ただし、評者からするとここで使われているintimacyは英語のoneness(一体性)、やラテン語のUnusuMundus(ウヌス・ムンドゥス:一なる世界)に近いものではないだろうかと思われる。
けれども、著者がここでintimacyを悟りととらえ、それがカップルの間の親密性でもあるととらえたい気持ちはとてもよくわかる気がする。
それくらい難しく尊いものであり、実践の中で常に確かめ続けて行くしかないないものであるのは、間違いないから。
そして、この論はさらに中身態へと突き進んでいく。
この中動態理論の引用によって、「”親密さ(悟り)”とは、自己と世界という一つの内部において、”する/される”ではない、おのずと生まれるプロセスなのだと改めて理解することができる」とされる。
つまり、評者たちの世代に親しみのあるところで言うと河合隼雄の”自然(じねん)モデル”
に近いものであることがわかる。
論はさらに進んで、霊性(Spirit)つまりスピリチュアリティとメタ認知、そしてコンパッション(慈悲)におよび、最後に振り出しに戻って、以下のような控えめな結論に達する。
「カップルセラピー(CCT)では、”親密な対話の促進”、これを価値として選択する」と。
【感想】
最後に、少しまとまった形で本書全体への感想を述べたい。
本書の主張はすべて賛成である。実証研究の部分はもちろん、最終章第22章の「実存的な対話を求めて」についても、その結論も大賛成である。
非常に実践的科学的な本でありながら、最終章にここまで対話哲学や禅、スピリチュアリティに踏み込んだものとなったのは、著者がアクセプタンス・アンド・コミットメントセラピーなどの、仏教的な思想と近いセラピーに造詣が深いからこそだと思われる。
ただし、実践上の問題としてCCTの「2セッションのみの予防的介入」には、多少の疑問を抱かざるを得ない。
評者の臨床経験としても、たしかに問題が軽いカップルは、2回の介入で十分に効果があり、その効果は、比較的永続的である。たとえばすでに個人セラピーを受けているクライエントが、セラピーの経過中に結婚して、配偶者との関係性に少し悩んで1,2回のカップルセラピーを実施した場合などに経験したことが、数例ある。
けれども、カップルセラピーとして初回からお二人で来談される場合は、すでに問題はかなりこじれて深刻なものとなっている。そして、少なくとも5~10回のセッションが必要となる。
評者のオフィスに来談されるカップルは、精神科クリニックから勧められてとか、子ども家庭支援センターからの紹介でなど、すでに警察も介入しているケースも少なくない。
つまりCCTは、実証性に優れているけれど、実際的であるかどうかが最大の疑問だ。別の言い方をすれば、市場のニーズがあるかどうかという点が疑わしい。もちろん、今後は回数を多くしたCCTを開発予定なのかもしれないが。。。
もう一つの疑問は、「すでにある日本のカップルセラピーの実情と伝統にあまり触れられていない」と思われる点である。平木典子、野末武義らの名前がほとんど登場しないのは、少し残念である。ここには著者なりの意図があるのかもしれないが。。。
本書全体として非常に読みごたえがあったが、とくに最終章の対話哲学的、宗教哲学的な考察は深さもあり、一番の読み応えのある章だった。
上下巻両方の最後にあるエピローグからも推察されるように、カップルセラピーへのこのものすごいとも言える情熱は、著者自身の体験とも深くつながっているようである。そして、「親密性」を「悟り」や「霊性」の意味にまで高めて重要視する姿勢は、同性代の東畑開人の「つながり」理論との共通性を強く感じる。
もちろん世代の違う私も、どちらにも多いに共感するのだが、ここまでの情熱は持てない。それは私が「しらけ世代」に属するせいかもしれないし、思春期を高度成長期に過ごし、オイルショックを経験しながらも、バブル期に青年期を迎えた(私個人は貧乏大学院生だったので、全く関係なかったけれど)世代だからかもしれない。
著者たちの世代はそれだけ寂しさと虚無感を抱えた、しんどい世代なのかもしれない。
その寂しさと虚無感が、こういう天才たちを育んでいるのだとしたら、これはこれで悪くないのかもしれない。
この「失われた30年」で、日本が得たものはじつは大きいのかもしれない。
文献
Allen Frances(2025) Warning: AI chatbots will soon dominate psychotherapy
Published online by Cambridge University Press: 20 August 2025
2026年
5月
05日
火
1. はじめに
心理療法における「癒し(Healing)」は、単なる症状の消失や社会適応の回復という医療モデル的・還元主義的な枠組みに留まるものではない。深層心理学を中心とする心理療法において、治癒とはクライエントの存在のあり方が根本的に再編成され、世界と自己との関係性に新たな意味が見出されるプロセスを指す。
しかし、ポスト・モダン哲学の進展は、こうした「一貫した自己」や「単一の意味」の回復という治癒像そのものに疑義を呈してきた。
J.F.リオタール(1979/1986)が指摘した「大きな物語の終焉」は、心理療法における治癒の定義を、普遍的な自己実現から、断片的でローカルな意味の生成へと変容させている。
本稿では、この癒しのプロセスを理解するための二つの強力な理論的枠組みとして、「物語(Narrative)」と「コスモロジー(Cosmology)」という概念を取り上げる。
日本におけるユング心理学の導入者であり、独自の臨床思想を構築した河合隼雄は、心理療法を「クライエントが自らの物語を創造するプロセス」として捉え、「物語的な癒し」の重要性を説いた(河合隼雄, 1997)
一方で、その後継者であり、現代の変容する病態に対して理論的刷新を図ってきた河合俊雄は、「物語」を編む近代自我そのものの限界を指摘し、前近代的かつ客観的な世界秩序としての「コスモロジーによる癒し」を提唱している(河合俊雄, 2004)。
本稿では、臨床心理学・深層心理学の観点から、これら二つのパラダイムの理論的背景、治癒のメカニズム、および現代臨床における両者の相補的意義について、両氏の論考を参照しながら詳述する。
2. 心理療法における「物語的な癒し」:河合隼雄の視座を中心に
「物語」の臨床的定義と人間の存在論的基盤
河合隼雄(1997)は、『心理療法と物語の働き』において、人間を「物語を生きる存在」として位置づけた。ここでの「物語」とは、単なるフィクションや過去の出来事の羅列ではなく、断片的な体験や無意識からの混沌としたイメージに因果律と意味を与え、ひとつの連続した「私」という主体を成立させるための存在論的な基盤である。
近代科学は事象を客観的かつ要素還元的に記述しようとするが、人間の生きられる現実は主観的な意味のネットワーク(すなわち物語)によって構成されている。河合隼雄は、個人の内的世界において、意識と無意識の間に橋を架け、人生の無意味さや不条理に耐えうるだけの意味論的枠組みを提供するのは「物語」の機能であると論じた。
病理の発生と「物語」の破綻
河合隼雄の枠組みにおいて、神経症や精神疾患といった心理的「病」は、「これまで生きてきた古い物語が、内的な成長や外的な環境変化に耐えきれず、有効性を失い破綻した状態」として理解される。自我が固守する古い物語と、無意識から湧き上がる新たな生命のエネルギー(影やアニマ/アニムスの欲求)との間に深刻な乖離が生じたとき、その葛藤は「症状」として立ち現れる。
ここで重要なポスト・モダンの視点は、M.フーコー(1976/1986)が論じたように、こうした「古い物語」自体が社会的な規律訓練や権力言説によって内面化された「支配的な物語」である可能性である。物語の破綻は、近代的な主体という抑圧的な枠組みからの解放の側面を持ち合わせている。
症状は、古い物語の破綻を告げる警告であると同時に、新たな物語の生成を要求する無意識からのteleological(目的論的)なメッセージでもある。河合隼雄は、この症状の持つ意味を解読し、クライエント自身の内側から新しい物語が立ち上がるのを待つことの重要性を説いた。
共創プロセスとしての心理療法と「癒し」
物語的な癒しとは、セラピストという他者の存在(器)を媒介として、クライエントが自らの崩壊した物語を紡ぎ直し、より全体性を包含した「新たな神話(個人的神話)」を生成することである。
この過程において、セラピストはクライエントの物語を一方的に解釈したり、外側から正しい物語を与えたりする「権威者」であってはならない。これは、R.バルト(1967/1988)が提唱した「作者の死」の臨床的応用とも言える。
つまり、セラピストが「意味の源泉(作者)」であることを放棄することで、クライエントという「読者」による自由な意味の生成を可能にするのである。河合隼雄(1992)は、日本神話の「中空構造」に言及しつつ、セラピストは自らの心を「無(空)」にしてクライエントに寄り添い、共に物語を生きる「共創者」としての態度(近年ネガティヴ・ケイパビリティと言われるようになったもの)を保持すべきであると主張した。
3. 「コスモロジーによる癒し」:河合俊雄の視座を中心に
「物語」パラダイムの限界と病態水準の変容
河合隼雄の物語論は、神経症水準のクライエントに対しては極めて有効に機能した。しかし、現代社会において臨床の主戦場は、境界性パーソナリティ障害、解離性障害、発達障害、あるいは重度のひきこもりといった、より基底的な病態へとシフトしている。
河合俊雄(2004)は、これらの現代的な病態に対して「物語による癒し」が機能不全に陥っていることを鋭く指摘した。ポスト・モダンにおける「主体の解体」が進展した状況では、G.ドゥルーズ(1968/1992)が説く「器官なき身体」のように、統合された自己という前提そのものが無効化されている。
物語を紡ぐためには、そもそも「私」という連続した主体(近代自我)が確立されている必要があるが、解離や発達の偏りを持つ現代のクライエントの多くは、物語の「語り手」となるべき自我そのものが脆弱であるか、未形成である。彼らに「自らの物語を生きる」ことを要求するのは、存在しない自我への過剰な負担となり、かえって自己組織化の崩壊を招く危険性がある。
コスモロジー(宇宙観・世界秩序)の再導入
この「物語の語り手(主体)」の不在という臨床的危機に対し、河合俊雄(2006)が提示した治癒のパラダイムが「コスモロジー(Cosmology)」である。コスモロジーとは、個人の内面や主観を超えた、外部に存在する客観的な意味の体系、あるいは前近代的な世界秩序(宇宙観)を指す。
近代心理学は「意味や心は、個人の内面にある」という前提に立ってきたが、河合俊雄はW. ギーゲリッヒの「客観的プシュケ(Objective Psyche)」の概念も踏まえつつ、心の本質は個人の内部に還元されるものではなく、世界という広がりの中に遍在していると捉え直した。あるいはさらに言えば我々の個々の存在は、魂という世界の中に存在しているとした。
これは、ポスト構造主義が指摘した「主体とは構造の派生物である」という洞察と軌を一にするものである。
外部の秩序への「配置」としての癒し
コスモロジーによる癒しとは、クライエントが「自らの力で内面から物語を紡ぎ出す」ことではなく、治療の場に立ち現れる「外部の秩序(コスモロジー)の中に、クライエント自身が『布置』される」ことによって生じる。
セラピストに求められるのは、クライエントの内面に共感することではなく、箱庭、描画、あるいは面接室における事物や身体的な布置(コンステレーション)の背後に働く「自律的な事象の法則性(コスモロジー)」を発見し、それを客観的に記述・承認することである。
具体的には、クライエントの内部(それは夢や箱庭や描画を通じて知ることになるが)から、何らかの秩序が立ち上がるのを期待しつつ待ち、それが立ち現れたなら、逃すことなく、認識する(言語化するかどうかはケースバイケース)ということになる。
あるいはセラピストがいわば世界(の代表)となり、クライエント個人に間接的に秩序をもたらすという感じである(このような主語と述語を持った現代的な文章では表現できないのだが。。。)。
ドゥルーズ&ガタリ(1980/1994)の用語を用いれば、これはツリー型(因果律的な物語)の癒しから、リゾーム型(並列的・非階層的な接続)の癒しへの転換と言い換えることができるかもしれない。
河合俊雄(2016)によれば、バラバラに解離していた事象が、ある「客観的な秩序(星座)」として結びついたとき、自我の統合を待たずして、事象そのものが自律的に癒しをもたらす。個人が意味を作るのではなく、世界(コスモス)の側が個人に居場所と秩序を与えるのである。
4. 臨床的統合と展望:物語とコスモロジーの相補性
近代自我と前近代の交錯
河合隼雄の「物語的な癒し」と河合俊雄の「コスモロジーによる癒し」は、一見すると対立するパラダイムのように見える。前者は近代的な「個」の確立を目指すベクトルであり、後者は近代自我の限界を見据え、個の外部にある「環境・世界との不可分性」へと向かうベクトルである。
しかし、臨床の実際においては、これら二つのパラダイムは相補的・重層的に機能する。現代のクライエントは、近代的な自我を確立しなければならないという社会からの圧力に苦しむ一方で、その重圧に耐えきれず前近代的な未分化の状態へと退行・解離しているからである。
パラダイムの臨床的使い分けと移行
実際の心理療法においては、クライエントの病態水準や面接のフェーズに応じて、セラピストがこれら二つのパラダイムを意図的に往還することが求められる。
重篤な解離を呈するクライエントに対しては、初期段階において「コスモロジーによる癒し」が主導権を握る。感覚統合的なアプローチを通じて、言語化できない身体感覚や事象を「あるがままの秩序」として見出していく。その後、コスモロジーの安定したコンテナの中で事象が繋がり始めた段階で、初めて「私」という主語が立ち上がり、河合隼雄的な「物語的な癒し」への移行が可能となる。
逆に、強迫的な一貫性の物語に囚われたクライエントに対しては、C.レヴィ=ストロース(1962/1976)が説いた「ブリコラージュ(手近な材料の寄せ集め)」のような、断片的で非合理なコスモロジーを導入することで、硬直した物語を脱構築することが治療的意義を持つとも考えられる。
5.臨床事例を通じたパラダイムの往還と統合
架空の臨床事例:A氏(20代前半・大学生)の夢分析プロセス
ここで、これまでの論考をより現実に着地させるために臨床事例を呈示してみたい。
近代自我の解離と前近代的な事象の混淆を呈したA氏の事例(守秘義務に配慮し複数のケースを合成した架空事例)を通じて、両パラダイムがいかに臨床現場で交差するかを記述する。
【主訴と見立て】
A氏は大学進学を機に「自分が自分でない感覚(離人感)」と「言葉がまとまらない」という症状を呈し、休学・ひきこもり状態となっていた。初回面接においてA氏は自身の生い立ちや苦悩を「物語る」ことができず、断片的な身体感覚を呟くのみであった。これは、近代的な「語る主体」が機能不全に陥っている状態だと考えた。
【第1期:語りの不全とリゾーム的空間(コスモロジー的介入)】
面接が数回進んだ頃、A氏は「ひたすら幾何学的な図形が明滅し、金属音が響くだけの空間」という、自分自身(夢自我)が全く登場しない無機質な夢を報告した。
セラピストはここで「その図形は何を意味するのか」「どう感じたか」と問う(抑圧された内面の物語として解釈する)ことを控えた。むしろ、この夢を個人的な葛藤の産物ではなく、C.G.ユングの客観的プシュケ、あるいはドゥルーズ&ガタリが言う「リゾーム(中心や主体のない接続)」的な事象のありのままの現れとして扱った。セラピストは意味の還元(ツリー型解釈)を保留し、その無機質な夢の空間(コスモロジー)をただ共に眺める「証人」に徹した。
【第2期:秩序の生成とブリコラージュ(パラダイムの移行)】
数ヶ月間の面接を経る中で、A氏の夢に変化が生じた。
無機質な空間の中に「境界線」のような川が現れ、明滅していた図形が「冷たい石碑」として特定の場所に「布置(コンステレーション)」されたのである。ある日、A氏はこの夢を語り終えた後、ふと「この石碑の冷たさは、ずっと凍りついていた私の胃の底の感覚と同じだ」と自発的なメタファーを用いた。
ここで、客観的な事象の秩序(コスモロジー)の中から、夢のイメージと身体感覚という手近な素材を結びつけ、自らの体験に意味を与える「ブリコラージュ(野生の思考)」が発生した。
【第3期:「私」の立ち上がり(物語的介入)】
さらに後の夢では、ついにA氏自身(夢自我)が夢の中に登場し、その石碑に触れるという行動をとった。
これを契機に、セラピストは徐々に「物語的パラダイム」へと移行した。
A氏の夢に現れた「私」という主語を足場として、「石碑に触れたとき、あなたはどこへ向かおうとしていたのでしょうか?」と、事象に時間軸と因果律(物語)を付与する問いかけを行った。
A氏は徐々に、休学に至るまでのプレッシャーや親との葛藤を、自分自身の言葉で「一つの個人的神話」として紡ぎ始めた。
事例の理論的考察
このA氏の事例は、前述したポスト・モダンの諸概念を臨床的現実に着地させるものである。
①リゾームとコスモロジーの調停
超越論的・前近代的な「コスモロジー」と、非階層的な「リゾーム」は対立するように見える。しかし臨床空間において、セラピストが「解釈しないこと」によって維持する「夢という客観的現実(局所的なコスモロジー)」があるからこそ、クライエントはその内部で安全に自己を解体し、リゾーム的な断片として存在することができる。
すなわち、「コスモロジー的コンテナ(器)の内部においてのみ、リゾーム的な癒しは成立する」という重層構造が見出される。
②パラダイム移行のトリガー
物語とコスモロジーのパラダイム・シフトは、セラピストが恣意的に操作するものではない。
事例が示すように、無意識の自律的な秩序(夢の布置)に身を委ねる中で、クライエント自身の内側から「事象をブリコラージュし、『私』という主語を取り戻す瞬間」が立ち現れる。
セラピストの役割は、この微細な主体の萌芽を見逃さず、客観的観察者(コスモロジーの証人)から、共創的な対話者(物語の伴走者)へと自らの立ち位置を滑らかに移行させることである。
6. おわりに
心理療法における治癒のメカニズムは、時代精神や病態の変容とともに進化してきた。
河合隼雄が提示した「物語的な癒し」は、近代社会において内面の葛藤に苦しむ人々に対し、自らの人生の意味を再構築するための強力な方法論を提供した。
一方、河合俊雄が提唱する「コスモロジーによる癒し」は、近代自我が崩壊した現代の病理に対して、個人の内面を超えた客観的プシュケや世界秩序との再接続という新たな救済のパラダイムを切り拓いた。
ポスト・モダンという不確かな時代において、癒しとは「一つの正解としての物語」に到達することではない。むしろ、物語とコスモロジーの間を絶えず揺れ動きながら、固定的な自己イメージを脱構築し続けるプロセスそのものが、現代的な「癒し」の正体であると言えるだろう。
現代の心理職には、この両翼を併せ持つことによってのみ、複雑化する人間の苦悩に真に応答することが可能となると私は考える。
引用文献
河合隼雄 (1992). 『昔話と日本人の心』 岩波書店.
河合隼雄 (1997). 『心理療法と物語の働き』 岩波書店.
河合俊雄 (2004). 『概念の心理学・物語の心理学』 日本評論社.
河合俊雄 (2006). 『心理臨床の広がり』 岩波書店.
河合俊雄 (2013). 『ユング派心理療法』 ミネルヴァ書房.
河合俊雄 (2016). 『心理療法と交錯する世界』 創元社.
J.F. リオタール (1979/1986). 『ポスト・モダンの条件』 小林康夫訳, 評言社.
M. フーコー (1976/1986). 『性の歴史I 知への意志』 渡辺守章訳, 新潮社.
R. バルト (1967/1988). 『物語の構造分析』 花輪光訳, みすず書房.
G. ドゥルーズ (1968/1992). 『差異と反復』 財津理訳, 河出書房新社.
G. ドゥルーズ&F. ガタリ (1980/1994). 『千のプラトー』 宇野邦一ほか訳, 河出書房新社.
C. レヴィ=ストロース (1962/1976). 『野生の思考』 大橋保夫訳, みすず書房.
2026年
4月
29日
水
臨床心理学の領域において、近年「トラウマ」と「アタッチメント(愛着)」の関連性が極めて重要なテーマとして扱われています。
傷ついた心を癒やすための基盤として、他者との安全な結びつきが不可欠であるという認識は、現在の心理臨床における中核的なパラダイムとなっています。
しかし、「デタッチメント(距離を置くこと)」の重要性、そしてアタッチメントとは異なる次元で不可欠な「アイデンティティ(自己同一性)」の役割への視点は、臨床的にも非常に大切で、人間の精神的成熟の本質にかかわる問題だと思います。
本コラムでは、これら4つの概念がどのように交差し、私たちの心の回復と成長を支えているのかを現時点で可能な範囲で紐解いていきましょう。
1. アタッチメントの光と、トラウマによるその断絶
まずは前提として、アタッチメントとトラウマの関係を確認しておきましょう。
John Bowlby(1969)によって提唱されたアタッチメント理論は、人間(特に乳幼児)が特定の養育者との間に結ぶ情緒的な絆を指します。
この絆は、外界を探索するための「安全基地(Secure Base)」となり、傷ついた時に逃げ込む「安全な避難所(Safe Haven)」として機能します。
トラウマ(特に虐待などの対人関係トラウマや複雑性PTSD)の残酷さは、この「安全基地」そのものを破壊してしまう点にあります。
精神科医のJudith Herman(1992)は、その歴史的著書『トラウマと回復』の中で、トラウマは被害者から他者への基本的な信頼感を奪い、世界との繋がりを断ち切ってしまうと指摘しました。
だからこそ、トラウマケアの第一歩は、治療者や安全な環境との間で「もう一度、安全なアタッチメント(繋がり)を結び直すこと」に置かれます。
しかし、臨床の現場では「繋がること」だけでは不十分な場面に必ず直面します。ここで、「デタッチメント」と「アイデンティティ」の出番がやってくるのです。
2. デタッチメントの再評価:病理的な「切り離し」から、健全な「適度な距離」へ
伝統的な心理学や精神医学において、「デタッチメント(Detachment)」という言葉はネガティブな響きを持つことが少なくありませんでした。
Bowlby(1973)は、母子分離の悲哀の最終段階として、子どもが養育者を諦め無関心になる状態を「デタッチメント」と呼びました。
また、トラウマの文脈では、耐え難い苦痛から心を守るために感情や身体感覚を切り離す「解離(Dissociation)」や「感情の麻痺」としての防御的なデタッチメントが問題視されます。
しかし、現代の臨床心理学、とりわけ家族療法やマインドフルネスを基盤とする心理療法においては、デタッチメントは「健全な境界線(バウンダリー)の維持」と同義として扱われます。
例えば、家族システム理論の第一人者であるMurray Bowen(1978)は、心の健康の指標として「自己の分化(Differentiation of Self)」を提唱しました。これは、他者の強い感情や不安に巻き込まれず(融合せず)、自分の思考と感情を切り離す(デタッチする)能力を指します。
相手の痛みに過剰に同調して自分を見失う「共依存(Enmeshment / 過剰な巻き込まれ)」に陥るのではなく、相手は相手、自分は自分として「適度な距離」を保つこと。これは決して冷酷な態度ではなく、相手を一個の独立した人間として尊重し、かつ自分自身を守るための「思いやりのあるデタッチメント(Compassionate Detachment)」なのです。
アタッチメントが「くっつく力」だとすれば、健全なデタッチメントは「離れる力・線を引く力」です。トラウマからの回復においては、他者と安全に繋がる能力と同等に、他者に侵入されず自分だけの安全な空間を確保するための「適度な距離をとる能力」が不可欠となります。
けれどもここで大切なのは、カウンセラー・セラピストが、従来の「中立」的で「自己開示しない」ということではありません。
クライエントの苦しみにできるだけ共感し、これまで生き抜いてきたことを肯定し、「今、ここで」感じたことを自己開示しながらも、時間になったらセッションを終了し、セッション外のメールなどのやり取りは必要最低限にすることで、まさに「思いやりのあるデタッチメント」が確立するのです。
3. アイデンティティ:繋がりと分離の果てに立ち上がる「私」
そしてアタッチメントとは違う意味で大切なのが「アイデンティティ(Identity)」です。
Erikson,E.H.(1959)が提唱したアイデンティティ(自己同一性)は、「自分が何者であり、過去から未来へどう繋がっているのか」という自己の連続性と統合性の感覚を指します。
アタッチメントが「他者との関係性(We)」に焦点を与えるのに対し、アイデンティティは「個としての確立(I)」に焦点を当てます。
トラウマの専門家であるvan der Kolk,B.(2014)は、トラウマが脳や身体に及ぼす影響を論じた上で、トラウマ体験は単に記憶の問題ではなく「自分自身を生きている感覚(主体性)」を奪い取るものだと論じました。
激しいトラウマを受けた人は、「私は愛される価値がない」「私の中身は壊れてしまった」という形で、自己の物語(アイデンティティ)を根底から粉砕されてしまいます。
セラピーにおいてアタッチメント(安全な繋がり)を再構築することは、あくまで「土台作り」に過ぎません。
最終的なゴールは、患者が誰かの付属物やトラウマの犠牲者として生きるのではなく、「自分の人生の主人公は自分である」という確固たるアイデンティティを取り戻すことです。
発達心理学者のMargaret Mahlerら(1975)の「分離個体化理論(Separation-Individuation Theory)」は、この関係性を見事に説明しています。
乳幼児は母親とぴったりくっついた共生期(アタッチメント)を経て、少しずつ母親から離れ(デタッチメント)、自分の世界を探索することで、最終的に「独立した一個の人間(アイデンティティ)」として個体化していきます。
つまり、安全な繋がりをベースにして、そこから適度な距離をとって離れることができて初めて、人は「私」というアイデンティティを確立できるのです。
4. 三位一体のダイナミクス:回復の航海図として
ここまで見てきたように、トラウマからの回復と心の成熟において、これら3つの概念は対立するものではなく、ダイナミックに相互作用する三位一体のシステムです。
対人神経生物学のDaniel Siegel(2012)は、心の健康を「統合(Integration)」という言葉で定義し、それは「分化(個々が独立していること=デタッチメントとアイデンティティ)」と「連結(互いに結びついていること=アタッチメント)」が両立した状態であると論じています。
この三位一体の統合をAIに図にしてもらったのが以下です。
おわりに
トラウマという深い傷を負った際、私たちは他者との繋がりを強烈に求めると同時に、再び傷つくことを恐れて過剰に距離をとろうとする葛藤に苦しみます。その回復の道のりは、ただ「誰かと温かく密着すること」を目指すものではありません。
現代のセラピーでは、アタッチメントを強調する傾向がありますが、実際のセラピーでは、アタッチメントだけでなく、上記の三位一体の統合が、必ず必要となります。
セラピーにおいてもそれ以外の方法でも、回復の過程は、他者と温かく繋がり(アタッチメント)、しかし同時に相手に飲み込まれずに適度な境界線を守り(デタッチメント)、最終的に「私は私である」という揺るぎない感覚(アイデンティティ)を取り戻す、長く(時に苦しくけれども)豊かな旅です。
この「デタッチメント(適度な距離)とアイデンティティの重要性」は、まさに現代の臨床心理学が目指す、人間のしなやかな強さ(レジリエンス)の本質にかかわるものです。
この視点を持つことは、心理臨床の現場のみならず、私たちが複雑な現代社会で健全な人間関係を築いていく上でも、極めて強力な羅針盤となるのではないでしょうか?
【引用・参考文献】
2026年
4月
09日
木
カップルカウンセリングをしていて、この10年で感じられる大きな変化があります。
それは、タイトルにも書きました「妻たちの大反撃」です。
この10年を便宜的にコロナ前とコロナ中、そしてコロナ後と分けて考えてみます。
1「コロナ前」~被害に耐え続けてきた妻たち
これはコロナ前とは言うものの実は10年よりももっと前から続いていました。
この時期の夫婦カウンセリングは、家事をしない夫、暴言を吐くもしくは暴力を振るう夫、浮気する夫などの問題が多数を占めていました。
もちろん、それ以外の問題のご夫婦もありましたが、大きな傾向としてはそうでした。
そこには、DVはもちろん、発達障害傾向がある夫に振り回されてすっかり疲弊し、混乱しているいわゆる「カサンドラ症候群」の妻も多かったです。
このような妻たちは、その被害を控えめに訴えるか、夫の前ではあまり声高に言えず、別の個別セッションで被害を訴えるという場合が多かったです。
個別面接で「奥さん、それはDVなので、しっかり一時避難したり、長期的に別居を考えたりもしませんか?」と問いかけても、あまりはっきりした返答が返ってこない場合も多かったです。
このようなご夫婦には、私が作った「3つのお願い表」や、内閣府男女共同参画局の「○○家作戦会議」をお渡しして、2人の思いの違いや不満・希望を明確化していただくという介入もしてきました。
2「コロナ中」~対等に戦い始めた妻たち
ところが2020年、コロナが蔓延して、カウンセリングも一斉にオンラインとなったあの年から、一般に言う「コロナ離婚」問題のご夫婦が急増しました。
これはご存じのように、コロナ自粛で在宅ワークが増えたご夫婦が、24時間いっしょに居ることがきっかけとなっていました。自粛生活のスタイルの食い違いからストレスフルになり、夫婦喧嘩が増えて来談するものの元々の食い違いの多い夫婦だった場合がほとんどでした。(ブログ「心のソーシャルディスタンス」参照)
とくにあの時期は成城カウンセリングオフィスの近隣からの申し込みが多かったため、徒歩か車でオフィスに来ていただいて、お互いマスクして窓を開けて対面でカウンセリングをやっていました。
この時のもめ方は「夫婦対等」になっていた印象があります。
むしろ、家での夫の振る舞い、そしてコロナ禍にもかかわらず友人と飲みに行ったり、時にはキャバクラに行ったりしたことが発覚して責められるという、夫が分が悪いという感じの話し合いが多かった印象です。
3「コロナ後」~妻たちの大反撃
ところがコロナが収まった2023年頃から、妻たちの大反撃が始まりました。
もちろん、先述のご夫婦たちとは別のご夫婦たちなので、それまで我慢していた妻たちが反撃に出たとは言い切れないのですが、大きな潮流として感じざるを得ません。
それ以前から全くなかったわけではなかった「夫婦喧嘩で警察を呼ぶ」「近隣が通報して警察が来る」というケースが急に増えました。
それも、夫のDVに苦しんだ妻が身の危険を感じて通報するというよりも、お互いの喧嘩がエスカレートして、時には夫や近隣が通報して警察が来るというのも含まれていました。
この頃になると警察も慣れてきて、しっかりと双方から事情を聴取して、場合によってはその日だけは別々に過ごすことを指導したり、収まった様子を見て、説諭にとどめたりなどとこちらから見ても適切な対応をしてくれるようになりました。
その昔「民事不介入」と言って、家庭問題には一切かかわってくれなかった頃の警察とは全く別の対応となっています。
さらに夫婦カウンセリングの場面でも、妻が夫を激しく責めてなじって侮蔑してという場面が増えました。
さすがにそれは私が静止して「お互い極論になってしまっていますから、もう少し穏やかに!」としますが、家ではもっと激しい喧嘩が繰り広げられている様子です。
夫に殴られたら殴り返すというあっぱれな妻も現れました。
そしてとうとうこの1,2年で、「反撃しすぎる妻」が増えてきました。
4 反撃しすぎる妻たち
そうです。対等をはるかに超えて、夫を撃退する勢いの妻たちです。
正論ではあるけれど、それを強く激しく長時間にわたって主張する妻、一度爆発すると止まらない妻、多額の財産分与と養育費を請求して、結果的には家庭裁判所からも否定される妻等々です。
場合によっては、協議離婚した後に、妻が引き取った子どもの元夫との面会交流の約束を、いろいろな理由をつけて一度も果たさないということもあります。
これまで、ずっと我慢してきた妻たちが、やっと声を上げることができるようになり、時にその声が大きくなりすぎてしまうと考えると、とてもよくわかるので、それを責める気には全くなれないのですが。。。
それでも、夫によっては「女性の権利の濫用だ!」と(ひそかに)訴える人もおり、確かに過剰過ぎてかえってことがうまく運ばない、と思わざるを得ないケースも見られるようになって考えさせられる日々となりました。
そんな中で、信田さよ子先生がこのような記述をされているのを発見しました。
(私は)何冊かの著作において、「被害者権力」という言葉を使ってきた。被害者と自己定義した人たちが、苛烈に繰り広げる加害者への批判・攻撃に対する批判の言葉として、つまり被害者であることを支配のツールとして用いることへの批判としてである。(信田、2026)
https://www.webchikuma.com/n/n5beff3cfd9f3
まさに、そうかもしれない。
信田先生は、被害者が自分は被害者だと認めることそのものも苦しく、忌避したくなるものであり、それが権力志向にもつながるものだという深い理解も示しておられます。
まさにその通りで、それまで被害者として自分を認識できなかった妻たちが、昨今の社会的な動きに勇気を得て、「自分は被害者だったんだ」と認めた瞬間、これまで抑えてきてものが一気に爆発して、炎上して、極端な行動になってしまうのはとてもよくわかることです。
そして、このような反撃しすぎてしまう心を何とか現実的な対話として着地させるのが、私たちカウンセラーの使命かもしれないと思うようになりました。
どう着地してもらうか?
それまで穏やかで気弱な様子ではあるけれど、本当は「上から目線」だった夫に、しっかりと「対等な」目線で対話していくことを促すこともあります。また、妻の(急な)攻撃を恐れて、必要なことまで曖昧にしてしまっていて、かえって妻の怒りをかっている場合には、「どうしても無理なことはしっかり理由を説明して断る」などをご指導したりetc.
やはり夫がどう対応できるかに鍵があるというのは、変わらない感じがしています。
2026年
1月
27日
火
新年早々、すごい本を読んでしまった。
まだ、今年になって読んだ本は2冊目なのに、もう「これは今年のベストワンだ!」と決めた。
この本は、複雑性PTSDのクライエントさんから紹介していただき、そのままお借りして読んだ。
本書の著者は精神分析セラピーを3年以上にわたって受けた、複雑性PTSDの40代後半の女性。フィクションを含んだものとなっているが、基本的には実話だと言っていいだろう。
セラピストは30代男性。かなり正統的な精神分析家らしい。著者はこのセラピストと週2~3回、寝椅子を使ったセラピーを受け続けている(4年目となる?現在も継続中とのこと)。
これまで精神分析もユング派のセラピーもセラピスト側からの報告や論文、手記はかなり読んできたが、クライエント側からのここまでリアルな手記は初めて読んだ。
これは、近年注目されがちなトラウマセラピーの本ではない。
旧来の、いわば技法なしの、セラピストがその生身を提供して、長い長い時間と費用をかけて、取り組んでいくタイプの心理療法だ。
精神分析ならではの、初期には全く手ごたえを感じられず、ひたすら苦しくなるばかりのセラピー。そこから来る希死念慮、そして実際の自殺企図から措置入院。
しかし、これは精神分析のせいではなく複雑性PTSDのセラピーであれば、避けがたい経過でもある。
しかも、それがセラピストとの関係性の中で生じてくるのは、精神分析の特徴ともいえる。
そして以前から不特定男性とのセックスの行動履歴があったクライエントは、次第にセラピストと「性交」したいと強く願うようになり、それをセラピストに繰り返し伝える。不特定男性とは「セックス」を繰り返してきたが、セラピストとは「セックス」ではなく「性交」を望んだのだ。
この要望に対してセラピストがどのように対応したかは、ここには書かない。
それはネタバレでもあるし、本書で描かれた経過なしに結末だけ書くのは本書への冒涜に近いとも思うからだ。
そして、クライエントはしだいにそれまで自分自身に対してさえも隠していた本質的な傷つきに到達していく。
まずは流産にまつわる傷つき、そして次に9歳のころの性被害。
そしてそれらを通じて、クライエントは「支配ー被支配」というこれまでの唯一の関係性から「性交」という別の関係性に開かれて行く。
それは本当の意味での「交流」であり、「支配―被支配」という関係ではない。
この「性交」という言葉に象徴されるような、セラピストとクライエントとの心のふれあいと交流(と言葉で言うとあまりにも薄っぺらいものになってしまうが)によって、クライエントは、「愛されたい自分」に気付き、寂しさを感じるようになり、そして「自分で自分を分かってあげる」ようになる。
こうしてやっと、長い長いセラピーの成果が少しずつ見え始める。。。
評者自身の実施しているセラピーはここまで濃厚なものではない。
そして、統合的にいろいろな技法も取り入れるので、様相はだいぶ違う。
けれども、本質的に流れているものは似ていると言っていいだろう。
短期的にすぐにお役に立てるセラピーも、このような本格的な(このようにしか進まない)長期的なセラピーも、ニーズに合わせてより上手にできるようになりたいという願望は捨てがたい。
本書の中のセラピストはどのように思いながらこのセラピーを進めて行ったかはわからない。
けれども、評者の私は、「もう少しスムーズに、もう少し苦しみを少なく、もう少し早く何とかできないか」とついつい思ってしまう。
でも、そうならないケースがあるのも事実で、しかも「急いだら」元も子もなくなるケースもある。
そんな人間の限界と奥深さを改めて身にしみて感じさせられる本だった。
2026年
1月
01日
木
現代日本の40代の心理士たちはなんて優秀なんだろうか?
私のオフィスの40代スタッフたちもそうだけれど、すでに出版物等でも名を馳せている40代心理士たちの優秀さには、限りない希望を感じる。
それはおそらく大英帝国が没落した後にビートルズやレッドツェッペリン、クイーンなどを輩出したイギリスの状況と、バブル崩壊後30年にわたる停滞を経験している日本が、似た状況だということなのかもしれない。(日本のアニメの素晴らしさにはすでにそれを感じていた)
本書の著者もまごうことなく現代日本の突出した心理学者の一人だ。
はじめは、ちょっとふざけた軽い内容の本かなと思った。
でも、それはとんでもない偏見だった。
ちょっと言い訳させてほしい。
「○○の教科書」っていうと、やっぱりちょっとキワモノ的だし、サブタイトルは上編が「ふたりのキッチン」、下編が「ブロッコリーの花言葉」となっている。
表紙は二人の性別不明の若者が八の字眉毛で、小指でつながれた毛糸(しかも黒い毛糸)に困った様子で、足元はおぼつかない感じのイラストだ。
でも、ここからはまじめに紹介しよう。
今、日本でカップルセラピーの需要はうなぎのぼりだと実感している。
コロナ禍の時期には、いわゆる「コロナ離婚」の問題として、そしてコロナ以降は主に「妻たちの不満の爆発」と「それに対応できない夫」としてのカップルセラピーの需要の高まりを強く感じている。
考えてみれば、カップルの関係を修復するサービスって、心理職にしかできないと思う。
福祉職が支援するのは、もうすでにかなり破綻したカップルのどちらか被害にあっている側や、そのカップルの子どもに対してだ。
弁護士や裁判所が支援するのは、これまたすでにかなり破綻した関係のカップルの事後処理的な場面だったりする。
心理職だけが「今後もっとひどくならないために、前向きにカップルの関係を修復する」「よりよい関係を構築していく」というサービスが可能なのだ。
しかも、カップルのいわば外側、財産や居住形態、虐待やDVを防ぐためのシステムというよりも、カップルの関係そのものに踏み込んで修復するという醍醐味とやりがいのある仕事だと感じている。
さらに、カップルの関係を修復できたら、少子化の問題や虐待の連鎖や貧困、将来のメンタル問題の発生などをも防げるという意味で、個人カウンセリングの数倍の社会貢献にもつながると感じている。
また、AIに心理相談する人が急増している現代において、人間の心理士が今後も当分優位を保てるのは、家族療法とグループセラピーだという指摘もある(Frances,2025)。
(ちなみにこの記事には「人間のカウンセリングの優位性を保つためには、新しい複雑で重篤な病態への対応と、そのための統合的心理療法である」とも指摘されている)
こういった状況の中で、この「カップルセラピーの教科書」の発刊はとてもタイムリーなものと言えるし、これからの日本の臨床心理学の可能性を広げるものだと思う。
そして、本書の特に上編に貫かれている実証主義を重視する姿勢に触れるにつけ、これまで細々とカップルセラピーの実践をしてきた私にとっては「私を含め日本のカップルセラピストたちは、なぜ、効果検証をしようとしてこなかったのか」という自責の念にも駆られる。とにかく全体として骨太の教科書だということが痛感された。
さらに、実証性を重んじたセラピーの教科書だけあって、とてもとても統合的な本になっている。その意味では「心理療法統合ハンドブック」(杉原・福島編著、2022)のカップルセラピー編になっていると言ってもいいだろう。
以下、章をなぞりながら、読者としての私の個人的な感想という形で書かせていただく。
本書では第Ⅰ部の「カップルセラピーの基礎」において、現代のカップルが抱える基本的な問題やそれに注目することの意義や歴史、世界観を伝えてくれる。
その中では、個人療法の歴史から家族療法の歴史までが概観されて、「なぜカップルセラピーなのか」という本書の中心的テーマに導いてくれる。
第Ⅱ部においては、ゴットマンの一連の研究を包括的かつ詳細に紹介してくれている。ゴットマンの研究については、かねてから断片的に知ってはいたものの、日本語でここまで包括的に紹介されるのは初めてのことなので、これだけでも十分な価値のあるものとなっている。
とくに第6章においては、ゴットマンの「夫婦の会話を3分観察するだけで、その後二人が別れるかどうかが96%の精度で予測できる」という有名なテーゼをめぐって丁寧な解説がなされる。
実際にはゴットマンは夫婦に15分間会話してもらい、その中で(a)その日の出来事、(b)二人の間で意見が一致しない葛藤的な課題、(c)二人の間で意見が一致している楽しい出来事について順に話し合ってもらうというものだったらしい。
そして続く第7章において、ゴットマンの研究から「別れの四重奏」という著者独自の翻訳ネーミングによる、離婚するカップルの特徴が具体的に紹介される。
それは「批判、自己弁護、軽蔑、石像化」の4要素である。
この4要素があるカップルは遅かれ早かれ離婚するというのが、ゴットマンの研究のエッセンスだということである。
そして、反対に幸福な夫婦を予測する指標としては、「傾聴がある」ことや「怒りがない」ことではなく、ポジティブ感情の比率がネガティブ感情より多く、ネガティブ感情のエスカレーションがない事だという。
これらは個人的経験からも臨床経験からも、おおいにうなづけることだ。
第Ⅲ部では代表的なカップルセラピーを、その効果の実証性を基に紹介している。
そこには当然ながらゴットマン夫妻の介入プログラム、伝統的行動的カップルセラピー、ダン・ワイルのセラピーなどが紹介されている。
そして第Ⅳ部ではいよいよ感情焦点化カップルセラピーと統合的行動的カップルセラピーという、著者が実践においては最も参考にしていると思われるセラピーが詳しく紹介されている。
感情焦点化カップルセラピーでは、感情とアタッチメントが重視される一方で、統合的行動的カップルセラピーでは、「カップルが‟お互いとの違い”や‟それぞれが抱える繊細さ”を理解し、そうした違いをより批判的でない形で捉え、お互いが持つ特性に対し、ありのままに受け入れられるようになること(アクセプタンス)」を目標として掲げているという。
これは私(評者)の目指すところととても近いと感じた。
日本の夫婦はそもそもセックスレスである場合が多く、感情焦点化カップルセラピーが目指すような「熱い関係」は、そもそも望めないのではないかと感じる事が多いからだ。
とくにカップルのどちらかに発達の偏りがある場合は、感情焦点化カップルセラピーはとても難しいと感じている。
第Ⅴ部においては、日本のカップルへの適用に向けて「カップルセラピーの共通要因」「文化・社会」「ジェンダー」という3つのテーマを中心に解説されている。まさに統合的な視点からさらに対象とする人たちの文化や好みにも合わせようという「エビデンス・ベースト・プラクティス」の最先端の姿勢が、ここにも見て取れる。
ここでは、日本の「相補協調的自己感」と、「アタッチメント理論と「甘え」理論」についてかなり丁寧に論じられている。そして、後の章でさらに重要となる「応答希求」とそれに対する対手からの「応答」というセットについて、ヨーロッパ系アメリカ人とアジア人の違いをいくつかの研究から明らかにしている。
つまり日本のカップルは欧米のカップルよりもより「応答希求」を表明しない傾向があるために、それをパートナーが気づいて(察して)応答しないと傷つきが生じ、孤独や気持ちのすれ違いが起こるというのである。
そのために日本でのカップルセラピーは「すれ違いをきっかけとして、親密な相互作用を起こすつまり「すれ違いを出会いに変える」という相互作用を促す必要があるという筆者独自のカップルセラピー(CCT)の方法につながっていく。
しかし、著者は急がない。
ここで、日本のカップル関係とジェンダーについて詳しく考察する(第19章)。それは日本最古の夫婦とされるイザナギとイザナミの話(古事記)にまでさかのぼり、あの有名な黄泉の国にまつわる神話に触れる。カップルがはらむ政治性と家父長制の伝統、さらには現代日本の子供を中心とする家族関係、このような状況の中での「男性性の傷つきやすさ」や「セラピーを受けることに関する恥」等にも触れられている。
ただ、評者から見ると、日本女性の強さに関する記述が欠けているとも思われる。それは卑弥呼から始まって、シャーマンやシャーマン的指導者は日本列島においては例外的に女性が多いこと。北条政子から「船場吉兆のささやき女将」に至る「女主人」の系譜などから、日本女性の「陰の実力者」としての能力である。
いずれにしても、行動療法出身の著者の著書にこれほどまで詳しい文化史的な記述があるとは、全く予想しなかった。
そして、いよいよフィナーレであり、著者独自の「文脈的カップルセラピー」について紹介される第Ⅵ部にはいる。
この文脈的カップルセラピー(CCT)は、2セッションの予防的セラピーであり、「最小のセッション数で最大の効果を目指す」というコンセプトで開発されたものである。
著者の手によってすでにRCT(ランダム化比較化試験)が行われ、その効果も実証されている。
発想としてはブリーフセラピーのプラグマティズムを取り入れ、正統的であるよりも実用的であることを目指し、同化的統合という心理療法統合を志向していることもよくわかる。
それは行動主義よりも「ある目的から見て効果的であることこそが真実」という文脈主義の立場でもあるという。
実際の介入は以下の手順を取る。
(1)焦点化・・・気持ちのすれ違いVS出会いの会話への焦点化
前述の応答希求性とそれへの応答性の問題に焦点化するということである。
(2)積極的介入・・・エナクトメント
「今、ここで」すれ違いを出会いに変えるやり方と、そこから来るポジティブ感情を体験する機会を作る
(3)柔軟な実践
ここにきて、本書下巻の表紙にもサブタイトルにもあるブロッコリーの伏線が回収される。このブロッコリーの喩えは、このCCTにとてもとてもピッタリで、普段健康のためにできるだけブロッコリーを食べるようにしている評者にとっても、とても分かりやすい謎かけと比喩になっている。
ここでは、ネタバレを防ぐために、これ以上は説明しないでおこう
さて、いよいよ最終章は「実存的な対話を求めて」である。
最終章だけあって、実はこの章が本書の中で最も「深み」のある章となっている。
この章ではマルティン・ブーバーの実存主義哲学と禅の思想を基礎として、「魂」や「価値」について論じ、さらにはアタッチメント理論を「聖杯」(つまり絶対的中核)とする立場に疑問を投げかけることもしている。そしては進化科学への言及も含めて、私たちの生命が持つ意味や目的という方向性についても触れている。
これらはすべて「人間はなぜカップルとなることを求め、そしてカップルはどこを目指しているのか」という問いに対する、著者のもがきにも似た思索である。
「生活のため」とか「子孫を残すため」という明確な目的を失った現代のカップルにとって、このような思索は不可欠である。
そこで重要視されるのは「つながり」と「親密さ」である。
ここでとうとう「“親密さ(intimacy)とは禅における"悟り"を的確に表現した言葉だと言えるだろう」という一見とんでもないテーゼが登場する。
本来、仏教における「悟り」とは、「無常」「無我」「空」といったこの世の真理を体得することであるというのが一般的な理解である。
けれども著者は「パートナー二人にとっては、お互いとの関係性そのものが、そして、お互いにかかわり合う瞬間瞬間のプロセスそのものが、”神”であり”悟り”でありうる」としている。
一見とんでもないテーゼと書いたが、著者はしっかりと関連文献を読み込み、さらにこの悟りが英訳においてintimacyと表現されることがあるのを突き止めてからの考察でもある。
ただし、評者からするとここで使われているintimacyは英語のoneness(一体性)、やラテン語のUnusuMundus(ウヌス・ムンドゥス:一なる世界)に近いものではないだろうかと思われる。
けれども、著者がここでintimacyを悟りととらえ、それがカップルの間の親密性でもあるととらえたい気持ちはとてもよくわかる気がする。
それくらい難しく尊いものであり、実践の中で常に確かめ続けて行くしかないないものであるのは、間違いないから。
そして、この論はさらに中身態へと突き進んでいく。
この中動態理論の引用によって、「”親密さ(悟り)”とは、自己と世界という一つの内部において、”する/される”ではない、おのずと生まれるプロセスなのだと改めて理解することができる」とされる。
つまり、評者たちの世代に親しみのあるところで言うと河合隼雄の”自然(じねん)モデル”
に近いものであることがわかる。
論はさらに進んで、霊性(Spirit)つまりスピリチュアリティとメタ認知、そしてコンパッション(慈悲)におよび、最後に振り出しに戻って、以下のような控えめな結論に達する。
「カップルセラピー(CCT)では、”親密な対話の促進”、これを価値として選択する」と。
【感想】
最後に、少しまとまった形で本書全体への感想を述べたい。
本書の主張はすべて賛成である。実証研究の部分はもちろん、最終章第22章の「実存的な対話を求めて」についても、その結論も大賛成である。
非常に実践的科学的な本でありながら、最終章にここまで対話哲学や禅、スピリチュアリティに踏み込んだものとなったのは、著者がアクセプタンス・アンド・コミットメントセラピーなどの、仏教的な思想と近いセラピーに造詣が深いからこそだと思われる。
ただし、実践上の問題としてCCTの「2セッションのみの予防的介入」には、多少の疑問を抱かざるを得ない。
評者の臨床経験としても、たしかに問題が軽いカップルは、2回の介入で十分に効果があり、その効果は、比較的永続的である。たとえばすでに個人セラピーを受けているクライエントが、セラピーの経過中に結婚して、配偶者との関係性に少し悩んで1,2回のカップルセラピーを実施した場合などに経験したことが、数例ある。
けれども、カップルセラピーとして初回からお二人で来談される場合は、すでに問題はかなりこじれて深刻なものとなっている。そして、少なくとも5~10回のセッションが必要となる。
評者のオフィスに来談されるカップルは、精神科クリニックから勧められてとか、子ども家庭支援センターからの紹介でなど、すでに警察も介入しているケースも少なくない。
つまりCCTは、実証性に優れているけれど、実際的であるかどうかが最大の疑問だ。別の言い方をすれば、市場のニーズがあるかどうかという点が疑わしい。もちろん、今後は回数を多くしたCCTを開発予定なのかもしれないが。。。
もう一つの疑問は、「すでにある日本のカップルセラピーの実情と伝統にあまり触れられていない」と思われる点である。平木典子、野末武義らの名前がほとんど登場しないのは、少し残念である。ここには著者なりの意図があるのかもしれないが。。。
本書全体として非常に読みごたえがあったが、とくに最終章の対話哲学的、宗教哲学的な考察は深さもあり、一番の読み応えのある章だった。
上下巻両方の最後にあるエピローグからも推察されるように、カップルセラピーへのこのものすごいとも言える情熱は、著者自身の体験とも深くつながっているようである。そして、「親密性」を「悟り」や「霊性」の意味にまで高めて重要視する姿勢は、同性代の東畑開人の「つながり」理論との共通性を強く感じる。
もちろん世代の違う私も、どちらにも多いに共感するのだが、ここまでの情熱は持てない。それは私が「しらけ世代」に属するせいかもしれないし、思春期を高度成長期に過ごし、オイルショックを経験しながらも、バブル期に青年期を迎えた(私個人は貧乏大学院生だったので、全く関係なかったけれど)世代だからかもしれない。
著者たちの世代はそれだけ寂しさと虚無感を抱えた、しんどい世代なのかもしれない。
その寂しさと虚無感が、こういう天才たちを育んでいるのだとしたら、これはこれで悪くないのかもしれない。
この「失われた30年」で、日本が得たものはじつは大きいのかもしれない。
文献
Allen Frances(2025) Warning: AI chatbots will soon dominate psychotherapy
Published online by Cambridge University Press: 20 August 2025
2026年
5月
05日
火
1. はじめに
心理療法における「癒し(Healing)」は、単なる症状の消失や社会適応の回復という医療モデル的・還元主義的な枠組みに留まるものではない。深層心理学を中心とする心理療法において、治癒とはクライエントの存在のあり方が根本的に再編成され、世界と自己との関係性に新たな意味が見出されるプロセスを指す。
しかし、ポスト・モダン哲学の進展は、こうした「一貫した自己」や「単一の意味」の回復という治癒像そのものに疑義を呈してきた。
J.F.リオタール(1979/1986)が指摘した「大きな物語の終焉」は、心理療法における治癒の定義を、普遍的な自己実現から、断片的でローカルな意味の生成へと変容させている。
本稿では、この癒しのプロセスを理解するための二つの強力な理論的枠組みとして、「物語(Narrative)」と「コスモロジー(Cosmology)」という概念を取り上げる。
日本におけるユング心理学の導入者であり、独自の臨床思想を構築した河合隼雄は、心理療法を「クライエントが自らの物語を創造するプロセス」として捉え、「物語的な癒し」の重要性を説いた(河合隼雄, 1997)
一方で、その後継者であり、現代の変容する病態に対して理論的刷新を図ってきた河合俊雄は、「物語」を編む近代自我そのものの限界を指摘し、前近代的かつ客観的な世界秩序としての「コスモロジーによる癒し」を提唱している(河合俊雄, 2004)。
本稿では、臨床心理学・深層心理学の観点から、これら二つのパラダイムの理論的背景、治癒のメカニズム、および現代臨床における両者の相補的意義について、両氏の論考を参照しながら詳述する。
2. 心理療法における「物語的な癒し」:河合隼雄の視座を中心に
「物語」の臨床的定義と人間の存在論的基盤
河合隼雄(1997)は、『心理療法と物語の働き』において、人間を「物語を生きる存在」として位置づけた。ここでの「物語」とは、単なるフィクションや過去の出来事の羅列ではなく、断片的な体験や無意識からの混沌としたイメージに因果律と意味を与え、ひとつの連続した「私」という主体を成立させるための存在論的な基盤である。
近代科学は事象を客観的かつ要素還元的に記述しようとするが、人間の生きられる現実は主観的な意味のネットワーク(すなわち物語)によって構成されている。河合隼雄は、個人の内的世界において、意識と無意識の間に橋を架け、人生の無意味さや不条理に耐えうるだけの意味論的枠組みを提供するのは「物語」の機能であると論じた。
病理の発生と「物語」の破綻
河合隼雄の枠組みにおいて、神経症や精神疾患といった心理的「病」は、「これまで生きてきた古い物語が、内的な成長や外的な環境変化に耐えきれず、有効性を失い破綻した状態」として理解される。自我が固守する古い物語と、無意識から湧き上がる新たな生命のエネルギー(影やアニマ/アニムスの欲求)との間に深刻な乖離が生じたとき、その葛藤は「症状」として立ち現れる。
ここで重要なポスト・モダンの視点は、M.フーコー(1976/1986)が論じたように、こうした「古い物語」自体が社会的な規律訓練や権力言説によって内面化された「支配的な物語」である可能性である。物語の破綻は、近代的な主体という抑圧的な枠組みからの解放の側面を持ち合わせている。
症状は、古い物語の破綻を告げる警告であると同時に、新たな物語の生成を要求する無意識からのteleological(目的論的)なメッセージでもある。河合隼雄は、この症状の持つ意味を解読し、クライエント自身の内側から新しい物語が立ち上がるのを待つことの重要性を説いた。
共創プロセスとしての心理療法と「癒し」
物語的な癒しとは、セラピストという他者の存在(器)を媒介として、クライエントが自らの崩壊した物語を紡ぎ直し、より全体性を包含した「新たな神話(個人的神話)」を生成することである。
この過程において、セラピストはクライエントの物語を一方的に解釈したり、外側から正しい物語を与えたりする「権威者」であってはならない。これは、R.バルト(1967/1988)が提唱した「作者の死」の臨床的応用とも言える。
つまり、セラピストが「意味の源泉(作者)」であることを放棄することで、クライエントという「読者」による自由な意味の生成を可能にするのである。河合隼雄(1992)は、日本神話の「中空構造」に言及しつつ、セラピストは自らの心を「無(空)」にしてクライエントに寄り添い、共に物語を生きる「共創者」としての態度(近年ネガティヴ・ケイパビリティと言われるようになったもの)を保持すべきであると主張した。
3. 「コスモロジーによる癒し」:河合俊雄の視座を中心に
「物語」パラダイムの限界と病態水準の変容
河合隼雄の物語論は、神経症水準のクライエントに対しては極めて有効に機能した。しかし、現代社会において臨床の主戦場は、境界性パーソナリティ障害、解離性障害、発達障害、あるいは重度のひきこもりといった、より基底的な病態へとシフトしている。
河合俊雄(2004)は、これらの現代的な病態に対して「物語による癒し」が機能不全に陥っていることを鋭く指摘した。ポスト・モダンにおける「主体の解体」が進展した状況では、G.ドゥルーズ(1968/1992)が説く「器官なき身体」のように、統合された自己という前提そのものが無効化されている。
物語を紡ぐためには、そもそも「私」という連続した主体(近代自我)が確立されている必要があるが、解離や発達の偏りを持つ現代のクライエントの多くは、物語の「語り手」となるべき自我そのものが脆弱であるか、未形成である。彼らに「自らの物語を生きる」ことを要求するのは、存在しない自我への過剰な負担となり、かえって自己組織化の崩壊を招く危険性がある。
コスモロジー(宇宙観・世界秩序)の再導入
この「物語の語り手(主体)」の不在という臨床的危機に対し、河合俊雄(2006)が提示した治癒のパラダイムが「コスモロジー(Cosmology)」である。コスモロジーとは、個人の内面や主観を超えた、外部に存在する客観的な意味の体系、あるいは前近代的な世界秩序(宇宙観)を指す。
近代心理学は「意味や心は、個人の内面にある」という前提に立ってきたが、河合俊雄はW. ギーゲリッヒの「客観的プシュケ(Objective Psyche)」の概念も踏まえつつ、心の本質は個人の内部に還元されるものではなく、世界という広がりの中に遍在していると捉え直した。あるいはさらに言えば我々の個々の存在は、魂という世界の中に存在しているとした。
これは、ポスト構造主義が指摘した「主体とは構造の派生物である」という洞察と軌を一にするものである。
外部の秩序への「配置」としての癒し
コスモロジーによる癒しとは、クライエントが「自らの力で内面から物語を紡ぎ出す」ことではなく、治療の場に立ち現れる「外部の秩序(コスモロジー)の中に、クライエント自身が『布置』される」ことによって生じる。
セラピストに求められるのは、クライエントの内面に共感することではなく、箱庭、描画、あるいは面接室における事物や身体的な布置(コンステレーション)の背後に働く「自律的な事象の法則性(コスモロジー)」を発見し、それを客観的に記述・承認することである。
具体的には、クライエントの内部(それは夢や箱庭や描画を通じて知ることになるが)から、何らかの秩序が立ち上がるのを期待しつつ待ち、それが立ち現れたなら、逃すことなく、認識する(言語化するかどうかはケースバイケース)ということになる。
あるいはセラピストがいわば世界(の代表)となり、クライエント個人に間接的に秩序をもたらすという感じである(このような主語と述語を持った現代的な文章では表現できないのだが。。。)。
ドゥルーズ&ガタリ(1980/1994)の用語を用いれば、これはツリー型(因果律的な物語)の癒しから、リゾーム型(並列的・非階層的な接続)の癒しへの転換と言い換えることができるかもしれない。
河合俊雄(2016)によれば、バラバラに解離していた事象が、ある「客観的な秩序(星座)」として結びついたとき、自我の統合を待たずして、事象そのものが自律的に癒しをもたらす。個人が意味を作るのではなく、世界(コスモス)の側が個人に居場所と秩序を与えるのである。
4. 臨床的統合と展望:物語とコスモロジーの相補性
近代自我と前近代の交錯
河合隼雄の「物語的な癒し」と河合俊雄の「コスモロジーによる癒し」は、一見すると対立するパラダイムのように見える。前者は近代的な「個」の確立を目指すベクトルであり、後者は近代自我の限界を見据え、個の外部にある「環境・世界との不可分性」へと向かうベクトルである。
しかし、臨床の実際においては、これら二つのパラダイムは相補的・重層的に機能する。現代のクライエントは、近代的な自我を確立しなければならないという社会からの圧力に苦しむ一方で、その重圧に耐えきれず前近代的な未分化の状態へと退行・解離しているからである。
パラダイムの臨床的使い分けと移行
実際の心理療法においては、クライエントの病態水準や面接のフェーズに応じて、セラピストがこれら二つのパラダイムを意図的に往還することが求められる。
重篤な解離を呈するクライエントに対しては、初期段階において「コスモロジーによる癒し」が主導権を握る。感覚統合的なアプローチを通じて、言語化できない身体感覚や事象を「あるがままの秩序」として見出していく。その後、コスモロジーの安定したコンテナの中で事象が繋がり始めた段階で、初めて「私」という主語が立ち上がり、河合隼雄的な「物語的な癒し」への移行が可能となる。
逆に、強迫的な一貫性の物語に囚われたクライエントに対しては、C.レヴィ=ストロース(1962/1976)が説いた「ブリコラージュ(手近な材料の寄せ集め)」のような、断片的で非合理なコスモロジーを導入することで、硬直した物語を脱構築することが治療的意義を持つとも考えられる。
5.臨床事例を通じたパラダイムの往還と統合
架空の臨床事例:A氏(20代前半・大学生)の夢分析プロセス
ここで、これまでの論考をより現実に着地させるために臨床事例を呈示してみたい。
近代自我の解離と前近代的な事象の混淆を呈したA氏の事例(守秘義務に配慮し複数のケースを合成した架空事例)を通じて、両パラダイムがいかに臨床現場で交差するかを記述する。
【主訴と見立て】
A氏は大学進学を機に「自分が自分でない感覚(離人感)」と「言葉がまとまらない」という症状を呈し、休学・ひきこもり状態となっていた。初回面接においてA氏は自身の生い立ちや苦悩を「物語る」ことができず、断片的な身体感覚を呟くのみであった。これは、近代的な「語る主体」が機能不全に陥っている状態だと考えた。
【第1期:語りの不全とリゾーム的空間(コスモロジー的介入)】
面接が数回進んだ頃、A氏は「ひたすら幾何学的な図形が明滅し、金属音が響くだけの空間」という、自分自身(夢自我)が全く登場しない無機質な夢を報告した。
セラピストはここで「その図形は何を意味するのか」「どう感じたか」と問う(抑圧された内面の物語として解釈する)ことを控えた。むしろ、この夢を個人的な葛藤の産物ではなく、C.G.ユングの客観的プシュケ、あるいはドゥルーズ&ガタリが言う「リゾーム(中心や主体のない接続)」的な事象のありのままの現れとして扱った。セラピストは意味の還元(ツリー型解釈)を保留し、その無機質な夢の空間(コスモロジー)をただ共に眺める「証人」に徹した。
【第2期:秩序の生成とブリコラージュ(パラダイムの移行)】
数ヶ月間の面接を経る中で、A氏の夢に変化が生じた。
無機質な空間の中に「境界線」のような川が現れ、明滅していた図形が「冷たい石碑」として特定の場所に「布置(コンステレーション)」されたのである。ある日、A氏はこの夢を語り終えた後、ふと「この石碑の冷たさは、ずっと凍りついていた私の胃の底の感覚と同じだ」と自発的なメタファーを用いた。
ここで、客観的な事象の秩序(コスモロジー)の中から、夢のイメージと身体感覚という手近な素材を結びつけ、自らの体験に意味を与える「ブリコラージュ(野生の思考)」が発生した。
【第3期:「私」の立ち上がり(物語的介入)】
さらに後の夢では、ついにA氏自身(夢自我)が夢の中に登場し、その石碑に触れるという行動をとった。
これを契機に、セラピストは徐々に「物語的パラダイム」へと移行した。
A氏の夢に現れた「私」という主語を足場として、「石碑に触れたとき、あなたはどこへ向かおうとしていたのでしょうか?」と、事象に時間軸と因果律(物語)を付与する問いかけを行った。
A氏は徐々に、休学に至るまでのプレッシャーや親との葛藤を、自分自身の言葉で「一つの個人的神話」として紡ぎ始めた。
事例の理論的考察
このA氏の事例は、前述したポスト・モダンの諸概念を臨床的現実に着地させるものである。
①リゾームとコスモロジーの調停
超越論的・前近代的な「コスモロジー」と、非階層的な「リゾーム」は対立するように見える。しかし臨床空間において、セラピストが「解釈しないこと」によって維持する「夢という客観的現実(局所的なコスモロジー)」があるからこそ、クライエントはその内部で安全に自己を解体し、リゾーム的な断片として存在することができる。
すなわち、「コスモロジー的コンテナ(器)の内部においてのみ、リゾーム的な癒しは成立する」という重層構造が見出される。
②パラダイム移行のトリガー
物語とコスモロジーのパラダイム・シフトは、セラピストが恣意的に操作するものではない。
事例が示すように、無意識の自律的な秩序(夢の布置)に身を委ねる中で、クライエント自身の内側から「事象をブリコラージュし、『私』という主語を取り戻す瞬間」が立ち現れる。
セラピストの役割は、この微細な主体の萌芽を見逃さず、客観的観察者(コスモロジーの証人)から、共創的な対話者(物語の伴走者)へと自らの立ち位置を滑らかに移行させることである。
6. おわりに
心理療法における治癒のメカニズムは、時代精神や病態の変容とともに進化してきた。
河合隼雄が提示した「物語的な癒し」は、近代社会において内面の葛藤に苦しむ人々に対し、自らの人生の意味を再構築するための強力な方法論を提供した。
一方、河合俊雄が提唱する「コスモロジーによる癒し」は、近代自我が崩壊した現代の病理に対して、個人の内面を超えた客観的プシュケや世界秩序との再接続という新たな救済のパラダイムを切り拓いた。
ポスト・モダンという不確かな時代において、癒しとは「一つの正解としての物語」に到達することではない。むしろ、物語とコスモロジーの間を絶えず揺れ動きながら、固定的な自己イメージを脱構築し続けるプロセスそのものが、現代的な「癒し」の正体であると言えるだろう。
現代の心理職には、この両翼を併せ持つことによってのみ、複雑化する人間の苦悩に真に応答することが可能となると私は考える。
引用文献
河合隼雄 (1992). 『昔話と日本人の心』 岩波書店.
河合隼雄 (1997). 『心理療法と物語の働き』 岩波書店.
河合俊雄 (2004). 『概念の心理学・物語の心理学』 日本評論社.
河合俊雄 (2006). 『心理臨床の広がり』 岩波書店.
河合俊雄 (2013). 『ユング派心理療法』 ミネルヴァ書房.
河合俊雄 (2016). 『心理療法と交錯する世界』 創元社.
J.F. リオタール (1979/1986). 『ポスト・モダンの条件』 小林康夫訳, 評言社.
M. フーコー (1976/1986). 『性の歴史I 知への意志』 渡辺守章訳, 新潮社.
R. バルト (1967/1988). 『物語の構造分析』 花輪光訳, みすず書房.
G. ドゥルーズ (1968/1992). 『差異と反復』 財津理訳, 河出書房新社.
G. ドゥルーズ&F. ガタリ (1980/1994). 『千のプラトー』 宇野邦一ほか訳, 河出書房新社.
C. レヴィ=ストロース (1962/1976). 『野生の思考』 大橋保夫訳, みすず書房.
2026年
4月
29日
水
臨床心理学の領域において、近年「トラウマ」と「アタッチメント(愛着)」の関連性が極めて重要なテーマとして扱われています。
傷ついた心を癒やすための基盤として、他者との安全な結びつきが不可欠であるという認識は、現在の心理臨床における中核的なパラダイムとなっています。
しかし、「デタッチメント(距離を置くこと)」の重要性、そしてアタッチメントとは異なる次元で不可欠な「アイデンティティ(自己同一性)」の役割への視点は、臨床的にも非常に大切で、人間の精神的成熟の本質にかかわる問題だと思います。
本コラムでは、これら4つの概念がどのように交差し、私たちの心の回復と成長を支えているのかを現時点で可能な範囲で紐解いていきましょう。
1. アタッチメントの光と、トラウマによるその断絶
まずは前提として、アタッチメントとトラウマの関係を確認しておきましょう。
John Bowlby(1969)によって提唱されたアタッチメント理論は、人間(特に乳幼児)が特定の養育者との間に結ぶ情緒的な絆を指します。
この絆は、外界を探索するための「安全基地(Secure Base)」となり、傷ついた時に逃げ込む「安全な避難所(Safe Haven)」として機能します。
トラウマ(特に虐待などの対人関係トラウマや複雑性PTSD)の残酷さは、この「安全基地」そのものを破壊してしまう点にあります。
精神科医のJudith Herman(1992)は、その歴史的著書『トラウマと回復』の中で、トラウマは被害者から他者への基本的な信頼感を奪い、世界との繋がりを断ち切ってしまうと指摘しました。
だからこそ、トラウマケアの第一歩は、治療者や安全な環境との間で「もう一度、安全なアタッチメント(繋がり)を結び直すこと」に置かれます。
しかし、臨床の現場では「繋がること」だけでは不十分な場面に必ず直面します。ここで、「デタッチメント」と「アイデンティティ」の出番がやってくるのです。
2. デタッチメントの再評価:病理的な「切り離し」から、健全な「適度な距離」へ
伝統的な心理学や精神医学において、「デタッチメント(Detachment)」という言葉はネガティブな響きを持つことが少なくありませんでした。
Bowlby(1973)は、母子分離の悲哀の最終段階として、子どもが養育者を諦め無関心になる状態を「デタッチメント」と呼びました。
また、トラウマの文脈では、耐え難い苦痛から心を守るために感情や身体感覚を切り離す「解離(Dissociation)」や「感情の麻痺」としての防御的なデタッチメントが問題視されます。
しかし、現代の臨床心理学、とりわけ家族療法やマインドフルネスを基盤とする心理療法においては、デタッチメントは「健全な境界線(バウンダリー)の維持」と同義として扱われます。
例えば、家族システム理論の第一人者であるMurray Bowen(1978)は、心の健康の指標として「自己の分化(Differentiation of Self)」を提唱しました。これは、他者の強い感情や不安に巻き込まれず(融合せず)、自分の思考と感情を切り離す(デタッチする)能力を指します。
相手の痛みに過剰に同調して自分を見失う「共依存(Enmeshment / 過剰な巻き込まれ)」に陥るのではなく、相手は相手、自分は自分として「適度な距離」を保つこと。これは決して冷酷な態度ではなく、相手を一個の独立した人間として尊重し、かつ自分自身を守るための「思いやりのあるデタッチメント(Compassionate Detachment)」なのです。
アタッチメントが「くっつく力」だとすれば、健全なデタッチメントは「離れる力・線を引く力」です。トラウマからの回復においては、他者と安全に繋がる能力と同等に、他者に侵入されず自分だけの安全な空間を確保するための「適度な距離をとる能力」が不可欠となります。
けれどもここで大切なのは、カウンセラー・セラピストが、従来の「中立」的で「自己開示しない」ということではありません。
クライエントの苦しみにできるだけ共感し、これまで生き抜いてきたことを肯定し、「今、ここで」感じたことを自己開示しながらも、時間になったらセッションを終了し、セッション外のメールなどのやり取りは必要最低限にすることで、まさに「思いやりのあるデタッチメント」が確立するのです。
3. アイデンティティ:繋がりと分離の果てに立ち上がる「私」
そしてアタッチメントとは違う意味で大切なのが「アイデンティティ(Identity)」です。
Erikson,E.H.(1959)が提唱したアイデンティティ(自己同一性)は、「自分が何者であり、過去から未来へどう繋がっているのか」という自己の連続性と統合性の感覚を指します。
アタッチメントが「他者との関係性(We)」に焦点を与えるのに対し、アイデンティティは「個としての確立(I)」に焦点を当てます。
トラウマの専門家であるvan der Kolk,B.(2014)は、トラウマが脳や身体に及ぼす影響を論じた上で、トラウマ体験は単に記憶の問題ではなく「自分自身を生きている感覚(主体性)」を奪い取るものだと論じました。
激しいトラウマを受けた人は、「私は愛される価値がない」「私の中身は壊れてしまった」という形で、自己の物語(アイデンティティ)を根底から粉砕されてしまいます。
セラピーにおいてアタッチメント(安全な繋がり)を再構築することは、あくまで「土台作り」に過ぎません。
最終的なゴールは、患者が誰かの付属物やトラウマの犠牲者として生きるのではなく、「自分の人生の主人公は自分である」という確固たるアイデンティティを取り戻すことです。
発達心理学者のMargaret Mahlerら(1975)の「分離個体化理論(Separation-Individuation Theory)」は、この関係性を見事に説明しています。
乳幼児は母親とぴったりくっついた共生期(アタッチメント)を経て、少しずつ母親から離れ(デタッチメント)、自分の世界を探索することで、最終的に「独立した一個の人間(アイデンティティ)」として個体化していきます。
つまり、安全な繋がりをベースにして、そこから適度な距離をとって離れることができて初めて、人は「私」というアイデンティティを確立できるのです。
4. 三位一体のダイナミクス:回復の航海図として
ここまで見てきたように、トラウマからの回復と心の成熟において、これら3つの概念は対立するものではなく、ダイナミックに相互作用する三位一体のシステムです。
対人神経生物学のDaniel Siegel(2012)は、心の健康を「統合(Integration)」という言葉で定義し、それは「分化(個々が独立していること=デタッチメントとアイデンティティ)」と「連結(互いに結びついていること=アタッチメント)」が両立した状態であると論じています。
この三位一体の統合をAIに図にしてもらったのが以下です。
おわりに
トラウマという深い傷を負った際、私たちは他者との繋がりを強烈に求めると同時に、再び傷つくことを恐れて過剰に距離をとろうとする葛藤に苦しみます。その回復の道のりは、ただ「誰かと温かく密着すること」を目指すものではありません。
現代のセラピーでは、アタッチメントを強調する傾向がありますが、実際のセラピーでは、アタッチメントだけでなく、上記の三位一体の統合が、必ず必要となります。
セラピーにおいてもそれ以外の方法でも、回復の過程は、他者と温かく繋がり(アタッチメント)、しかし同時に相手に飲み込まれずに適度な境界線を守り(デタッチメント)、最終的に「私は私である」という揺るぎない感覚(アイデンティティ)を取り戻す、長く(時に苦しくけれども)豊かな旅です。
この「デタッチメント(適度な距離)とアイデンティティの重要性」は、まさに現代の臨床心理学が目指す、人間のしなやかな強さ(レジリエンス)の本質にかかわるものです。
この視点を持つことは、心理臨床の現場のみならず、私たちが複雑な現代社会で健全な人間関係を築いていく上でも、極めて強力な羅針盤となるのではないでしょうか?
【引用・参考文献】
2026年
4月
09日
木
カップルカウンセリングをしていて、この10年で感じられる大きな変化があります。
それは、タイトルにも書きました「妻たちの大反撃」です。
この10年を便宜的にコロナ前とコロナ中、そしてコロナ後と分けて考えてみます。
1「コロナ前」~被害に耐え続けてきた妻たち
これはコロナ前とは言うものの実は10年よりももっと前から続いていました。
この時期の夫婦カウンセリングは、家事をしない夫、暴言を吐くもしくは暴力を振るう夫、浮気する夫などの問題が多数を占めていました。
もちろん、それ以外の問題のご夫婦もありましたが、大きな傾向としてはそうでした。
そこには、DVはもちろん、発達障害傾向がある夫に振り回されてすっかり疲弊し、混乱しているいわゆる「カサンドラ症候群」の妻も多かったです。
このような妻たちは、その被害を控えめに訴えるか、夫の前ではあまり声高に言えず、別の個別セッションで被害を訴えるという場合が多かったです。
個別面接で「奥さん、それはDVなので、しっかり一時避難したり、長期的に別居を考えたりもしませんか?」と問いかけても、あまりはっきりした返答が返ってこない場合も多かったです。
このようなご夫婦には、私が作った「3つのお願い表」や、内閣府男女共同参画局の「○○家作戦会議」をお渡しして、2人の思いの違いや不満・希望を明確化していただくという介入もしてきました。
2「コロナ中」~対等に戦い始めた妻たち
ところが2020年、コロナが蔓延して、カウンセリングも一斉にオンラインとなったあの年から、一般に言う「コロナ離婚」問題のご夫婦が急増しました。
これはご存じのように、コロナ自粛で在宅ワークが増えたご夫婦が、24時間いっしょに居ることがきっかけとなっていました。自粛生活のスタイルの食い違いからストレスフルになり、夫婦喧嘩が増えて来談するものの元々の食い違いの多い夫婦だった場合がほとんどでした。(ブログ「心のソーシャルディスタンス」参照)
とくにあの時期は成城カウンセリングオフィスの近隣からの申し込みが多かったため、徒歩か車でオフィスに来ていただいて、お互いマスクして窓を開けて対面でカウンセリングをやっていました。
この時のもめ方は「夫婦対等」になっていた印象があります。
むしろ、家での夫の振る舞い、そしてコロナ禍にもかかわらず友人と飲みに行ったり、時にはキャバクラに行ったりしたことが発覚して責められるという、夫が分が悪いという感じの話し合いが多かった印象です。
3「コロナ後」~妻たちの大反撃
ところがコロナが収まった2023年頃から、妻たちの大反撃が始まりました。
もちろん、先述のご夫婦たちとは別のご夫婦たちなので、それまで我慢していた妻たちが反撃に出たとは言い切れないのですが、大きな潮流として感じざるを得ません。
それ以前から全くなかったわけではなかった「夫婦喧嘩で警察を呼ぶ」「近隣が通報して警察が来る」というケースが急に増えました。
それも、夫のDVに苦しんだ妻が身の危険を感じて通報するというよりも、お互いの喧嘩がエスカレートして、時には夫や近隣が通報して警察が来るというのも含まれていました。
この頃になると警察も慣れてきて、しっかりと双方から事情を聴取して、場合によってはその日だけは別々に過ごすことを指導したり、収まった様子を見て、説諭にとどめたりなどとこちらから見ても適切な対応をしてくれるようになりました。
その昔「民事不介入」と言って、家庭問題には一切かかわってくれなかった頃の警察とは全く別の対応となっています。
さらに夫婦カウンセリングの場面でも、妻が夫を激しく責めてなじって侮蔑してという場面が増えました。
さすがにそれは私が静止して「お互い極論になってしまっていますから、もう少し穏やかに!」としますが、家ではもっと激しい喧嘩が繰り広げられている様子です。
夫に殴られたら殴り返すというあっぱれな妻も現れました。
そしてとうとうこの1,2年で、「反撃しすぎる妻」が増えてきました。
4 反撃しすぎる妻たち
そうです。対等をはるかに超えて、夫を撃退する勢いの妻たちです。
正論ではあるけれど、それを強く激しく長時間にわたって主張する妻、一度爆発すると止まらない妻、多額の財産分与と養育費を請求して、結果的には家庭裁判所からも否定される妻等々です。
場合によっては、協議離婚した後に、妻が引き取った子どもの元夫との面会交流の約束を、いろいろな理由をつけて一度も果たさないということもあります。
これまで、ずっと我慢してきた妻たちが、やっと声を上げることができるようになり、時にその声が大きくなりすぎてしまうと考えると、とてもよくわかるので、それを責める気には全くなれないのですが。。。
それでも、夫によっては「女性の権利の濫用だ!」と(ひそかに)訴える人もおり、確かに過剰過ぎてかえってことがうまく運ばない、と思わざるを得ないケースも見られるようになって考えさせられる日々となりました。
そんな中で、信田さよ子先生がこのような記述をされているのを発見しました。
(私は)何冊かの著作において、「被害者権力」という言葉を使ってきた。被害者と自己定義した人たちが、苛烈に繰り広げる加害者への批判・攻撃に対する批判の言葉として、つまり被害者であることを支配のツールとして用いることへの批判としてである。(信田、2026)
https://www.webchikuma.com/n/n5beff3cfd9f3
まさに、そうかもしれない。
信田先生は、被害者が自分は被害者だと認めることそのものも苦しく、忌避したくなるものであり、それが権力志向にもつながるものだという深い理解も示しておられます。
まさにその通りで、それまで被害者として自分を認識できなかった妻たちが、昨今の社会的な動きに勇気を得て、「自分は被害者だったんだ」と認めた瞬間、これまで抑えてきてものが一気に爆発して、炎上して、極端な行動になってしまうのはとてもよくわかることです。
そして、このような反撃しすぎてしまう心を何とか現実的な対話として着地させるのが、私たちカウンセラーの使命かもしれないと思うようになりました。
どう着地してもらうか?
それまで穏やかで気弱な様子ではあるけれど、本当は「上から目線」だった夫に、しっかりと「対等な」目線で対話していくことを促すこともあります。また、妻の(急な)攻撃を恐れて、必要なことまで曖昧にしてしまっていて、かえって妻の怒りをかっている場合には、「どうしても無理なことはしっかり理由を説明して断る」などをご指導したりetc.
やはり夫がどう対応できるかに鍵があるというのは、変わらない感じがしています。
2026年
1月
27日
火
新年早々、すごい本を読んでしまった。
まだ、今年になって読んだ本は2冊目なのに、もう「これは今年のベストワンだ!」と決めた。
この本は、複雑性PTSDのクライエントさんから紹介していただき、そのままお借りして読んだ。
本書の著者は精神分析セラピーを3年以上にわたって受けた、複雑性PTSDの40代後半の女性。フィクションを含んだものとなっているが、基本的には実話だと言っていいだろう。
セラピストは30代男性。かなり正統的な精神分析家らしい。著者はこのセラピストと週2~3回、寝椅子を使ったセラピーを受け続けている(4年目となる?現在も継続中とのこと)。
これまで精神分析もユング派のセラピーもセラピスト側からの報告や論文、手記はかなり読んできたが、クライエント側からのここまでリアルな手記は初めて読んだ。
これは、近年注目されがちなトラウマセラピーの本ではない。
旧来の、いわば技法なしの、セラピストがその生身を提供して、長い長い時間と費用をかけて、取り組んでいくタイプの心理療法だ。
精神分析ならではの、初期には全く手ごたえを感じられず、ひたすら苦しくなるばかりのセラピー。そこから来る希死念慮、そして実際の自殺企図から措置入院。
しかし、これは精神分析のせいではなく複雑性PTSDのセラピーであれば、避けがたい経過でもある。
しかも、それがセラピストとの関係性の中で生じてくるのは、精神分析の特徴ともいえる。
そして以前から不特定男性とのセックスの行動履歴があったクライエントは、次第にセラピストと「性交」したいと強く願うようになり、それをセラピストに繰り返し伝える。不特定男性とは「セックス」を繰り返してきたが、セラピストとは「セックス」ではなく「性交」を望んだのだ。
この要望に対してセラピストがどのように対応したかは、ここには書かない。
それはネタバレでもあるし、本書で描かれた経過なしに結末だけ書くのは本書への冒涜に近いとも思うからだ。
そして、クライエントはしだいにそれまで自分自身に対してさえも隠していた本質的な傷つきに到達していく。
まずは流産にまつわる傷つき、そして次に9歳のころの性被害。
そしてそれらを通じて、クライエントは「支配ー被支配」というこれまでの唯一の関係性から「性交」という別の関係性に開かれて行く。
それは本当の意味での「交流」であり、「支配―被支配」という関係ではない。
この「性交」という言葉に象徴されるような、セラピストとクライエントとの心のふれあいと交流(と言葉で言うとあまりにも薄っぺらいものになってしまうが)によって、クライエントは、「愛されたい自分」に気付き、寂しさを感じるようになり、そして「自分で自分を分かってあげる」ようになる。
こうしてやっと、長い長いセラピーの成果が少しずつ見え始める。。。
評者自身の実施しているセラピーはここまで濃厚なものではない。
そして、統合的にいろいろな技法も取り入れるので、様相はだいぶ違う。
けれども、本質的に流れているものは似ていると言っていいだろう。
短期的にすぐにお役に立てるセラピーも、このような本格的な(このようにしか進まない)長期的なセラピーも、ニーズに合わせてより上手にできるようになりたいという願望は捨てがたい。
本書の中のセラピストはどのように思いながらこのセラピーを進めて行ったかはわからない。
けれども、評者の私は、「もう少しスムーズに、もう少し苦しみを少なく、もう少し早く何とかできないか」とついつい思ってしまう。
でも、そうならないケースがあるのも事実で、しかも「急いだら」元も子もなくなるケースもある。
そんな人間の限界と奥深さを改めて身にしみて感じさせられる本だった。
2026年
1月
01日
木
現代日本の40代の心理士たちはなんて優秀なんだろうか?
私のオフィスの40代スタッフたちもそうだけれど、すでに出版物等でも名を馳せている40代心理士たちの優秀さには、限りない希望を感じる。
それはおそらく大英帝国が没落した後にビートルズやレッドツェッペリン、クイーンなどを輩出したイギリスの状況と、バブル崩壊後30年にわたる停滞を経験している日本が、似た状況だということなのかもしれない。(日本のアニメの素晴らしさにはすでにそれを感じていた)
本書の著者もまごうことなく現代日本の突出した心理学者の一人だ。
はじめは、ちょっとふざけた軽い内容の本かなと思った。
でも、それはとんでもない偏見だった。
ちょっと言い訳させてほしい。
「○○の教科書」っていうと、やっぱりちょっとキワモノ的だし、サブタイトルは上編が「ふたりのキッチン」、下編が「ブロッコリーの花言葉」となっている。
表紙は二人の性別不明の若者が八の字眉毛で、小指でつながれた毛糸(しかも黒い毛糸)に困った様子で、足元はおぼつかない感じのイラストだ。
でも、ここからはまじめに紹介しよう。
今、日本でカップルセラピーの需要はうなぎのぼりだと実感している。
コロナ禍の時期には、いわゆる「コロナ離婚」の問題として、そしてコロナ以降は主に「妻たちの不満の爆発」と「それに対応できない夫」としてのカップルセラピーの需要の高まりを強く感じている。
考えてみれば、カップルの関係を修復するサービスって、心理職にしかできないと思う。
福祉職が支援するのは、もうすでにかなり破綻したカップルのどちらか被害にあっている側や、そのカップルの子どもに対してだ。
弁護士や裁判所が支援するのは、これまたすでにかなり破綻した関係のカップルの事後処理的な場面だったりする。
心理職だけが「今後もっとひどくならないために、前向きにカップルの関係を修復する」「よりよい関係を構築していく」というサービスが可能なのだ。
しかも、カップルのいわば外側、財産や居住形態、虐待やDVを防ぐためのシステムというよりも、カップルの関係そのものに踏み込んで修復するという醍醐味とやりがいのある仕事だと感じている。
さらに、カップルの関係を修復できたら、少子化の問題や虐待の連鎖や貧困、将来のメンタル問題の発生などをも防げるという意味で、個人カウンセリングの数倍の社会貢献にもつながると感じている。
また、AIに心理相談する人が急増している現代において、人間の心理士が今後も当分優位を保てるのは、家族療法とグループセラピーだという指摘もある(Frances,2025)。
(ちなみにこの記事には「人間のカウンセリングの優位性を保つためには、新しい複雑で重篤な病態への対応と、そのための統合的心理療法である」とも指摘されている)
こういった状況の中で、この「カップルセラピーの教科書」の発刊はとてもタイムリーなものと言えるし、これからの日本の臨床心理学の可能性を広げるものだと思う。
そして、本書の特に上編に貫かれている実証主義を重視する姿勢に触れるにつけ、これまで細々とカップルセラピーの実践をしてきた私にとっては「私を含め日本のカップルセラピストたちは、なぜ、効果検証をしようとしてこなかったのか」という自責の念にも駆られる。とにかく全体として骨太の教科書だということが痛感された。
さらに、実証性を重んじたセラピーの教科書だけあって、とてもとても統合的な本になっている。その意味では「心理療法統合ハンドブック」(杉原・福島編著、2022)のカップルセラピー編になっていると言ってもいいだろう。
以下、章をなぞりながら、読者としての私の個人的な感想という形で書かせていただく。
本書では第Ⅰ部の「カップルセラピーの基礎」において、現代のカップルが抱える基本的な問題やそれに注目することの意義や歴史、世界観を伝えてくれる。
その中では、個人療法の歴史から家族療法の歴史までが概観されて、「なぜカップルセラピーなのか」という本書の中心的テーマに導いてくれる。
第Ⅱ部においては、ゴットマンの一連の研究を包括的かつ詳細に紹介してくれている。ゴットマンの研究については、かねてから断片的に知ってはいたものの、日本語でここまで包括的に紹介されるのは初めてのことなので、これだけでも十分な価値のあるものとなっている。
とくに第6章においては、ゴットマンの「夫婦の会話を3分観察するだけで、その後二人が別れるかどうかが96%の精度で予測できる」という有名なテーゼをめぐって丁寧な解説がなされる。
実際にはゴットマンは夫婦に15分間会話してもらい、その中で(a)その日の出来事、(b)二人の間で意見が一致しない葛藤的な課題、(c)二人の間で意見が一致している楽しい出来事について順に話し合ってもらうというものだったらしい。
そして続く第7章において、ゴットマンの研究から「別れの四重奏」という著者独自の翻訳ネーミングによる、離婚するカップルの特徴が具体的に紹介される。
それは「批判、自己弁護、軽蔑、石像化」の4要素である。
この4要素があるカップルは遅かれ早かれ離婚するというのが、ゴットマンの研究のエッセンスだということである。
そして、反対に幸福な夫婦を予測する指標としては、「傾聴がある」ことや「怒りがない」ことではなく、ポジティブ感情の比率がネガティブ感情より多く、ネガティブ感情のエスカレーションがない事だという。
これらは個人的経験からも臨床経験からも、おおいにうなづけることだ。
第Ⅲ部では代表的なカップルセラピーを、その効果の実証性を基に紹介している。
そこには当然ながらゴットマン夫妻の介入プログラム、伝統的行動的カップルセラピー、ダン・ワイルのセラピーなどが紹介されている。
そして第Ⅳ部ではいよいよ感情焦点化カップルセラピーと統合的行動的カップルセラピーという、著者が実践においては最も参考にしていると思われるセラピーが詳しく紹介されている。
感情焦点化カップルセラピーでは、感情とアタッチメントが重視される一方で、統合的行動的カップルセラピーでは、「カップルが‟お互いとの違い”や‟それぞれが抱える繊細さ”を理解し、そうした違いをより批判的でない形で捉え、お互いが持つ特性に対し、ありのままに受け入れられるようになること(アクセプタンス)」を目標として掲げているという。
これは私(評者)の目指すところととても近いと感じた。
日本の夫婦はそもそもセックスレスである場合が多く、感情焦点化カップルセラピーが目指すような「熱い関係」は、そもそも望めないのではないかと感じる事が多いからだ。
とくにカップルのどちらかに発達の偏りがある場合は、感情焦点化カップルセラピーはとても難しいと感じている。
第Ⅴ部においては、日本のカップルへの適用に向けて「カップルセラピーの共通要因」「文化・社会」「ジェンダー」という3つのテーマを中心に解説されている。まさに統合的な視点からさらに対象とする人たちの文化や好みにも合わせようという「エビデンス・ベースト・プラクティス」の最先端の姿勢が、ここにも見て取れる。
ここでは、日本の「相補協調的自己感」と、「アタッチメント理論と「甘え」理論」についてかなり丁寧に論じられている。そして、後の章でさらに重要となる「応答希求」とそれに対する対手からの「応答」というセットについて、ヨーロッパ系アメリカ人とアジア人の違いをいくつかの研究から明らかにしている。
つまり日本のカップルは欧米のカップルよりもより「応答希求」を表明しない傾向があるために、それをパートナーが気づいて(察して)応答しないと傷つきが生じ、孤独や気持ちのすれ違いが起こるというのである。
そのために日本でのカップルセラピーは「すれ違いをきっかけとして、親密な相互作用を起こすつまり「すれ違いを出会いに変える」という相互作用を促す必要があるという筆者独自のカップルセラピー(CCT)の方法につながっていく。
しかし、著者は急がない。
ここで、日本のカップル関係とジェンダーについて詳しく考察する(第19章)。それは日本最古の夫婦とされるイザナギとイザナミの話(古事記)にまでさかのぼり、あの有名な黄泉の国にまつわる神話に触れる。カップルがはらむ政治性と家父長制の伝統、さらには現代日本の子供を中心とする家族関係、このような状況の中での「男性性の傷つきやすさ」や「セラピーを受けることに関する恥」等にも触れられている。
ただ、評者から見ると、日本女性の強さに関する記述が欠けているとも思われる。それは卑弥呼から始まって、シャーマンやシャーマン的指導者は日本列島においては例外的に女性が多いこと。北条政子から「船場吉兆のささやき女将」に至る「女主人」の系譜などから、日本女性の「陰の実力者」としての能力である。
いずれにしても、行動療法出身の著者の著書にこれほどまで詳しい文化史的な記述があるとは、全く予想しなかった。
そして、いよいよフィナーレであり、著者独自の「文脈的カップルセラピー」について紹介される第Ⅵ部にはいる。
この文脈的カップルセラピー(CCT)は、2セッションの予防的セラピーであり、「最小のセッション数で最大の効果を目指す」というコンセプトで開発されたものである。
著者の手によってすでにRCT(ランダム化比較化試験)が行われ、その効果も実証されている。
発想としてはブリーフセラピーのプラグマティズムを取り入れ、正統的であるよりも実用的であることを目指し、同化的統合という心理療法統合を志向していることもよくわかる。
それは行動主義よりも「ある目的から見て効果的であることこそが真実」という文脈主義の立場でもあるという。
実際の介入は以下の手順を取る。
(1)焦点化・・・気持ちのすれ違いVS出会いの会話への焦点化
前述の応答希求性とそれへの応答性の問題に焦点化するということである。
(2)積極的介入・・・エナクトメント
「今、ここで」すれ違いを出会いに変えるやり方と、そこから来るポジティブ感情を体験する機会を作る
(3)柔軟な実践
ここにきて、本書下巻の表紙にもサブタイトルにもあるブロッコリーの伏線が回収される。このブロッコリーの喩えは、このCCTにとてもとてもピッタリで、普段健康のためにできるだけブロッコリーを食べるようにしている評者にとっても、とても分かりやすい謎かけと比喩になっている。
ここでは、ネタバレを防ぐために、これ以上は説明しないでおこう
さて、いよいよ最終章は「実存的な対話を求めて」である。
最終章だけあって、実はこの章が本書の中で最も「深み」のある章となっている。
この章ではマルティン・ブーバーの実存主義哲学と禅の思想を基礎として、「魂」や「価値」について論じ、さらにはアタッチメント理論を「聖杯」(つまり絶対的中核)とする立場に疑問を投げかけることもしている。そしては進化科学への言及も含めて、私たちの生命が持つ意味や目的という方向性についても触れている。
これらはすべて「人間はなぜカップルとなることを求め、そしてカップルはどこを目指しているのか」という問いに対する、著者のもがきにも似た思索である。
「生活のため」とか「子孫を残すため」という明確な目的を失った現代のカップルにとって、このような思索は不可欠である。
そこで重要視されるのは「つながり」と「親密さ」である。
ここでとうとう「“親密さ(intimacy)とは禅における"悟り"を的確に表現した言葉だと言えるだろう」という一見とんでもないテーゼが登場する。
本来、仏教における「悟り」とは、「無常」「無我」「空」といったこの世の真理を体得することであるというのが一般的な理解である。
けれども著者は「パートナー二人にとっては、お互いとの関係性そのものが、そして、お互いにかかわり合う瞬間瞬間のプロセスそのものが、”神”であり”悟り”でありうる」としている。
一見とんでもないテーゼと書いたが、著者はしっかりと関連文献を読み込み、さらにこの悟りが英訳においてintimacyと表現されることがあるのを突き止めてからの考察でもある。
ただし、評者からするとここで使われているintimacyは英語のoneness(一体性)、やラテン語のUnusuMundus(ウヌス・ムンドゥス:一なる世界)に近いものではないだろうかと思われる。
けれども、著者がここでintimacyを悟りととらえ、それがカップルの間の親密性でもあるととらえたい気持ちはとてもよくわかる気がする。
それくらい難しく尊いものであり、実践の中で常に確かめ続けて行くしかないないものであるのは、間違いないから。
そして、この論はさらに中身態へと突き進んでいく。
この中動態理論の引用によって、「”親密さ(悟り)”とは、自己と世界という一つの内部において、”する/される”ではない、おのずと生まれるプロセスなのだと改めて理解することができる」とされる。
つまり、評者たちの世代に親しみのあるところで言うと河合隼雄の”自然(じねん)モデル”
に近いものであることがわかる。
論はさらに進んで、霊性(Spirit)つまりスピリチュアリティとメタ認知、そしてコンパッション(慈悲)におよび、最後に振り出しに戻って、以下のような控えめな結論に達する。
「カップルセラピー(CCT)では、”親密な対話の促進”、これを価値として選択する」と。
【感想】
最後に、少しまとまった形で本書全体への感想を述べたい。
本書の主張はすべて賛成である。実証研究の部分はもちろん、最終章第22章の「実存的な対話を求めて」についても、その結論も大賛成である。
非常に実践的科学的な本でありながら、最終章にここまで対話哲学や禅、スピリチュアリティに踏み込んだものとなったのは、著者がアクセプタンス・アンド・コミットメントセラピーなどの、仏教的な思想と近いセラピーに造詣が深いからこそだと思われる。
ただし、実践上の問題としてCCTの「2セッションのみの予防的介入」には、多少の疑問を抱かざるを得ない。
評者の臨床経験としても、たしかに問題が軽いカップルは、2回の介入で十分に効果があり、その効果は、比較的永続的である。たとえばすでに個人セラピーを受けているクライエントが、セラピーの経過中に結婚して、配偶者との関係性に少し悩んで1,2回のカップルセラピーを実施した場合などに経験したことが、数例ある。
けれども、カップルセラピーとして初回からお二人で来談される場合は、すでに問題はかなりこじれて深刻なものとなっている。そして、少なくとも5~10回のセッションが必要となる。
評者のオフィスに来談されるカップルは、精神科クリニックから勧められてとか、子ども家庭支援センターからの紹介でなど、すでに警察も介入しているケースも少なくない。
つまりCCTは、実証性に優れているけれど、実際的であるかどうかが最大の疑問だ。別の言い方をすれば、市場のニーズがあるかどうかという点が疑わしい。もちろん、今後は回数を多くしたCCTを開発予定なのかもしれないが。。。
もう一つの疑問は、「すでにある日本のカップルセラピーの実情と伝統にあまり触れられていない」と思われる点である。平木典子、野末武義らの名前がほとんど登場しないのは、少し残念である。ここには著者なりの意図があるのかもしれないが。。。
本書全体として非常に読みごたえがあったが、とくに最終章の対話哲学的、宗教哲学的な考察は深さもあり、一番の読み応えのある章だった。
上下巻両方の最後にあるエピローグからも推察されるように、カップルセラピーへのこのものすごいとも言える情熱は、著者自身の体験とも深くつながっているようである。そして、「親密性」を「悟り」や「霊性」の意味にまで高めて重要視する姿勢は、同性代の東畑開人の「つながり」理論との共通性を強く感じる。
もちろん世代の違う私も、どちらにも多いに共感するのだが、ここまでの情熱は持てない。それは私が「しらけ世代」に属するせいかもしれないし、思春期を高度成長期に過ごし、オイルショックを経験しながらも、バブル期に青年期を迎えた(私個人は貧乏大学院生だったので、全く関係なかったけれど)世代だからかもしれない。
著者たちの世代はそれだけ寂しさと虚無感を抱えた、しんどい世代なのかもしれない。
その寂しさと虚無感が、こういう天才たちを育んでいるのだとしたら、これはこれで悪くないのかもしれない。
この「失われた30年」で、日本が得たものはじつは大きいのかもしれない。
文献
Allen Frances(2025) Warning: AI chatbots will soon dominate psychotherapy
Published online by Cambridge University Press: 20 August 2025
2026年
5月
05日
火
1. はじめに
心理療法における「癒し(Healing)」は、単なる症状の消失や社会適応の回復という医療モデル的・還元主義的な枠組みに留まるものではない。深層心理学を中心とする心理療法において、治癒とはクライエントの存在のあり方が根本的に再編成され、世界と自己との関係性に新たな意味が見出されるプロセスを指す。
しかし、ポスト・モダン哲学の進展は、こうした「一貫した自己」や「単一の意味」の回復という治癒像そのものに疑義を呈してきた。
J.F.リオタール(1979/1986)が指摘した「大きな物語の終焉」は、心理療法における治癒の定義を、普遍的な自己実現から、断片的でローカルな意味の生成へと変容させている。
本稿では、この癒しのプロセスを理解するための二つの強力な理論的枠組みとして、「物語(Narrative)」と「コスモロジー(Cosmology)」という概念を取り上げる。
日本におけるユング心理学の導入者であり、独自の臨床思想を構築した河合隼雄は、心理療法を「クライエントが自らの物語を創造するプロセス」として捉え、「物語的な癒し」の重要性を説いた(河合隼雄, 1997)
一方で、その後継者であり、現代の変容する病態に対して理論的刷新を図ってきた河合俊雄は、「物語」を編む近代自我そのものの限界を指摘し、前近代的かつ客観的な世界秩序としての「コスモロジーによる癒し」を提唱している(河合俊雄, 2004)。
本稿では、臨床心理学・深層心理学の観点から、これら二つのパラダイムの理論的背景、治癒のメカニズム、および現代臨床における両者の相補的意義について、両氏の論考を参照しながら詳述する。
2. 心理療法における「物語的な癒し」:河合隼雄の視座を中心に
「物語」の臨床的定義と人間の存在論的基盤
河合隼雄(1997)は、『心理療法と物語の働き』において、人間を「物語を生きる存在」として位置づけた。ここでの「物語」とは、単なるフィクションや過去の出来事の羅列ではなく、断片的な体験や無意識からの混沌としたイメージに因果律と意味を与え、ひとつの連続した「私」という主体を成立させるための存在論的な基盤である。
近代科学は事象を客観的かつ要素還元的に記述しようとするが、人間の生きられる現実は主観的な意味のネットワーク(すなわち物語)によって構成されている。河合隼雄は、個人の内的世界において、意識と無意識の間に橋を架け、人生の無意味さや不条理に耐えうるだけの意味論的枠組みを提供するのは「物語」の機能であると論じた。
病理の発生と「物語」の破綻
河合隼雄の枠組みにおいて、神経症や精神疾患といった心理的「病」は、「これまで生きてきた古い物語が、内的な成長や外的な環境変化に耐えきれず、有効性を失い破綻した状態」として理解される。自我が固守する古い物語と、無意識から湧き上がる新たな生命のエネルギー(影やアニマ/アニムスの欲求)との間に深刻な乖離が生じたとき、その葛藤は「症状」として立ち現れる。
ここで重要なポスト・モダンの視点は、M.フーコー(1976/1986)が論じたように、こうした「古い物語」自体が社会的な規律訓練や権力言説によって内面化された「支配的な物語」である可能性である。物語の破綻は、近代的な主体という抑圧的な枠組みからの解放の側面を持ち合わせている。
症状は、古い物語の破綻を告げる警告であると同時に、新たな物語の生成を要求する無意識からのteleological(目的論的)なメッセージでもある。河合隼雄は、この症状の持つ意味を解読し、クライエント自身の内側から新しい物語が立ち上がるのを待つことの重要性を説いた。
共創プロセスとしての心理療法と「癒し」
物語的な癒しとは、セラピストという他者の存在(器)を媒介として、クライエントが自らの崩壊した物語を紡ぎ直し、より全体性を包含した「新たな神話(個人的神話)」を生成することである。
この過程において、セラピストはクライエントの物語を一方的に解釈したり、外側から正しい物語を与えたりする「権威者」であってはならない。これは、R.バルト(1967/1988)が提唱した「作者の死」の臨床的応用とも言える。
つまり、セラピストが「意味の源泉(作者)」であることを放棄することで、クライエントという「読者」による自由な意味の生成を可能にするのである。河合隼雄(1992)は、日本神話の「中空構造」に言及しつつ、セラピストは自らの心を「無(空)」にしてクライエントに寄り添い、共に物語を生きる「共創者」としての態度(近年ネガティヴ・ケイパビリティと言われるようになったもの)を保持すべきであると主張した。
3. 「コスモロジーによる癒し」:河合俊雄の視座を中心に
「物語」パラダイムの限界と病態水準の変容
河合隼雄の物語論は、神経症水準のクライエントに対しては極めて有効に機能した。しかし、現代社会において臨床の主戦場は、境界性パーソナリティ障害、解離性障害、発達障害、あるいは重度のひきこもりといった、より基底的な病態へとシフトしている。
河合俊雄(2004)は、これらの現代的な病態に対して「物語による癒し」が機能不全に陥っていることを鋭く指摘した。ポスト・モダンにおける「主体の解体」が進展した状況では、G.ドゥルーズ(1968/1992)が説く「器官なき身体」のように、統合された自己という前提そのものが無効化されている。
物語を紡ぐためには、そもそも「私」という連続した主体(近代自我)が確立されている必要があるが、解離や発達の偏りを持つ現代のクライエントの多くは、物語の「語り手」となるべき自我そのものが脆弱であるか、未形成である。彼らに「自らの物語を生きる」ことを要求するのは、存在しない自我への過剰な負担となり、かえって自己組織化の崩壊を招く危険性がある。
コスモロジー(宇宙観・世界秩序)の再導入
この「物語の語り手(主体)」の不在という臨床的危機に対し、河合俊雄(2006)が提示した治癒のパラダイムが「コスモロジー(Cosmology)」である。コスモロジーとは、個人の内面や主観を超えた、外部に存在する客観的な意味の体系、あるいは前近代的な世界秩序(宇宙観)を指す。
近代心理学は「意味や心は、個人の内面にある」という前提に立ってきたが、河合俊雄はW. ギーゲリッヒの「客観的プシュケ(Objective Psyche)」の概念も踏まえつつ、心の本質は個人の内部に還元されるものではなく、世界という広がりの中に遍在していると捉え直した。あるいはさらに言えば我々の個々の存在は、魂という世界の中に存在しているとした。
これは、ポスト構造主義が指摘した「主体とは構造の派生物である」という洞察と軌を一にするものである。
外部の秩序への「配置」としての癒し
コスモロジーによる癒しとは、クライエントが「自らの力で内面から物語を紡ぎ出す」ことではなく、治療の場に立ち現れる「外部の秩序(コスモロジー)の中に、クライエント自身が『布置』される」ことによって生じる。
セラピストに求められるのは、クライエントの内面に共感することではなく、箱庭、描画、あるいは面接室における事物や身体的な布置(コンステレーション)の背後に働く「自律的な事象の法則性(コスモロジー)」を発見し、それを客観的に記述・承認することである。
具体的には、クライエントの内部(それは夢や箱庭や描画を通じて知ることになるが)から、何らかの秩序が立ち上がるのを期待しつつ待ち、それが立ち現れたなら、逃すことなく、認識する(言語化するかどうかはケースバイケース)ということになる。
あるいはセラピストがいわば世界(の代表)となり、クライエント個人に間接的に秩序をもたらすという感じである(このような主語と述語を持った現代的な文章では表現できないのだが。。。)。
ドゥルーズ&ガタリ(1980/1994)の用語を用いれば、これはツリー型(因果律的な物語)の癒しから、リゾーム型(並列的・非階層的な接続)の癒しへの転換と言い換えることができるかもしれない。
河合俊雄(2016)によれば、バラバラに解離していた事象が、ある「客観的な秩序(星座)」として結びついたとき、自我の統合を待たずして、事象そのものが自律的に癒しをもたらす。個人が意味を作るのではなく、世界(コスモス)の側が個人に居場所と秩序を与えるのである。
4. 臨床的統合と展望:物語とコスモロジーの相補性
近代自我と前近代の交錯
河合隼雄の「物語的な癒し」と河合俊雄の「コスモロジーによる癒し」は、一見すると対立するパラダイムのように見える。前者は近代的な「個」の確立を目指すベクトルであり、後者は近代自我の限界を見据え、個の外部にある「環境・世界との不可分性」へと向かうベクトルである。
しかし、臨床の実際においては、これら二つのパラダイムは相補的・重層的に機能する。現代のクライエントは、近代的な自我を確立しなければならないという社会からの圧力に苦しむ一方で、その重圧に耐えきれず前近代的な未分化の状態へと退行・解離しているからである。
パラダイムの臨床的使い分けと移行
実際の心理療法においては、クライエントの病態水準や面接のフェーズに応じて、セラピストがこれら二つのパラダイムを意図的に往還することが求められる。
重篤な解離を呈するクライエントに対しては、初期段階において「コスモロジーによる癒し」が主導権を握る。感覚統合的なアプローチを通じて、言語化できない身体感覚や事象を「あるがままの秩序」として見出していく。その後、コスモロジーの安定したコンテナの中で事象が繋がり始めた段階で、初めて「私」という主語が立ち上がり、河合隼雄的な「物語的な癒し」への移行が可能となる。
逆に、強迫的な一貫性の物語に囚われたクライエントに対しては、C.レヴィ=ストロース(1962/1976)が説いた「ブリコラージュ(手近な材料の寄せ集め)」のような、断片的で非合理なコスモロジーを導入することで、硬直した物語を脱構築することが治療的意義を持つとも考えられる。
5.臨床事例を通じたパラダイムの往還と統合
架空の臨床事例:A氏(20代前半・大学生)の夢分析プロセス
ここで、これまでの論考をより現実に着地させるために臨床事例を呈示してみたい。
近代自我の解離と前近代的な事象の混淆を呈したA氏の事例(守秘義務に配慮し複数のケースを合成した架空事例)を通じて、両パラダイムがいかに臨床現場で交差するかを記述する。
【主訴と見立て】
A氏は大学進学を機に「自分が自分でない感覚(離人感)」と「言葉がまとまらない」という症状を呈し、休学・ひきこもり状態となっていた。初回面接においてA氏は自身の生い立ちや苦悩を「物語る」ことができず、断片的な身体感覚を呟くのみであった。これは、近代的な「語る主体」が機能不全に陥っている状態だと考えた。
【第1期:語りの不全とリゾーム的空間(コスモロジー的介入)】
面接が数回進んだ頃、A氏は「ひたすら幾何学的な図形が明滅し、金属音が響くだけの空間」という、自分自身(夢自我)が全く登場しない無機質な夢を報告した。
セラピストはここで「その図形は何を意味するのか」「どう感じたか」と問う(抑圧された内面の物語として解釈する)ことを控えた。むしろ、この夢を個人的な葛藤の産物ではなく、C.G.ユングの客観的プシュケ、あるいはドゥルーズ&ガタリが言う「リゾーム(中心や主体のない接続)」的な事象のありのままの現れとして扱った。セラピストは意味の還元(ツリー型解釈)を保留し、その無機質な夢の空間(コスモロジー)をただ共に眺める「証人」に徹した。
【第2期:秩序の生成とブリコラージュ(パラダイムの移行)】
数ヶ月間の面接を経る中で、A氏の夢に変化が生じた。
無機質な空間の中に「境界線」のような川が現れ、明滅していた図形が「冷たい石碑」として特定の場所に「布置(コンステレーション)」されたのである。ある日、A氏はこの夢を語り終えた後、ふと「この石碑の冷たさは、ずっと凍りついていた私の胃の底の感覚と同じだ」と自発的なメタファーを用いた。
ここで、客観的な事象の秩序(コスモロジー)の中から、夢のイメージと身体感覚という手近な素材を結びつけ、自らの体験に意味を与える「ブリコラージュ(野生の思考)」が発生した。
【第3期:「私」の立ち上がり(物語的介入)】
さらに後の夢では、ついにA氏自身(夢自我)が夢の中に登場し、その石碑に触れるという行動をとった。
これを契機に、セラピストは徐々に「物語的パラダイム」へと移行した。
A氏の夢に現れた「私」という主語を足場として、「石碑に触れたとき、あなたはどこへ向かおうとしていたのでしょうか?」と、事象に時間軸と因果律(物語)を付与する問いかけを行った。
A氏は徐々に、休学に至るまでのプレッシャーや親との葛藤を、自分自身の言葉で「一つの個人的神話」として紡ぎ始めた。
事例の理論的考察
このA氏の事例は、前述したポスト・モダンの諸概念を臨床的現実に着地させるものである。
①リゾームとコスモロジーの調停
超越論的・前近代的な「コスモロジー」と、非階層的な「リゾーム」は対立するように見える。しかし臨床空間において、セラピストが「解釈しないこと」によって維持する「夢という客観的現実(局所的なコスモロジー)」があるからこそ、クライエントはその内部で安全に自己を解体し、リゾーム的な断片として存在することができる。
すなわち、「コスモロジー的コンテナ(器)の内部においてのみ、リゾーム的な癒しは成立する」という重層構造が見出される。
②パラダイム移行のトリガー
物語とコスモロジーのパラダイム・シフトは、セラピストが恣意的に操作するものではない。
事例が示すように、無意識の自律的な秩序(夢の布置)に身を委ねる中で、クライエント自身の内側から「事象をブリコラージュし、『私』という主語を取り戻す瞬間」が立ち現れる。
セラピストの役割は、この微細な主体の萌芽を見逃さず、客観的観察者(コスモロジーの証人)から、共創的な対話者(物語の伴走者)へと自らの立ち位置を滑らかに移行させることである。
6. おわりに
心理療法における治癒のメカニズムは、時代精神や病態の変容とともに進化してきた。
河合隼雄が提示した「物語的な癒し」は、近代社会において内面の葛藤に苦しむ人々に対し、自らの人生の意味を再構築するための強力な方法論を提供した。
一方、河合俊雄が提唱する「コスモロジーによる癒し」は、近代自我が崩壊した現代の病理に対して、個人の内面を超えた客観的プシュケや世界秩序との再接続という新たな救済のパラダイムを切り拓いた。
ポスト・モダンという不確かな時代において、癒しとは「一つの正解としての物語」に到達することではない。むしろ、物語とコスモロジーの間を絶えず揺れ動きながら、固定的な自己イメージを脱構築し続けるプロセスそのものが、現代的な「癒し」の正体であると言えるだろう。
現代の心理職には、この両翼を併せ持つことによってのみ、複雑化する人間の苦悩に真に応答することが可能となると私は考える。
引用文献
河合隼雄 (1992). 『昔話と日本人の心』 岩波書店.
河合隼雄 (1997). 『心理療法と物語の働き』 岩波書店.
河合俊雄 (2004). 『概念の心理学・物語の心理学』 日本評論社.
河合俊雄 (2006). 『心理臨床の広がり』 岩波書店.
河合俊雄 (2013). 『ユング派心理療法』 ミネルヴァ書房.
河合俊雄 (2016). 『心理療法と交錯する世界』 創元社.
J.F. リオタール (1979/1986). 『ポスト・モダンの条件』 小林康夫訳, 評言社.
M. フーコー (1976/1986). 『性の歴史I 知への意志』 渡辺守章訳, 新潮社.
R. バルト (1967/1988). 『物語の構造分析』 花輪光訳, みすず書房.
G. ドゥルーズ (1968/1992). 『差異と反復』 財津理訳, 河出書房新社.
G. ドゥルーズ&F. ガタリ (1980/1994). 『千のプラトー』 宇野邦一ほか訳, 河出書房新社.
C. レヴィ=ストロース (1962/1976). 『野生の思考』 大橋保夫訳, みすず書房.
2026年
4月
29日
水
臨床心理学の領域において、近年「トラウマ」と「アタッチメント(愛着)」の関連性が極めて重要なテーマとして扱われています。
傷ついた心を癒やすための基盤として、他者との安全な結びつきが不可欠であるという認識は、現在の心理臨床における中核的なパラダイムとなっています。
しかし、「デタッチメント(距離を置くこと)」の重要性、そしてアタッチメントとは異なる次元で不可欠な「アイデンティティ(自己同一性)」の役割への視点は、臨床的にも非常に大切で、人間の精神的成熟の本質にかかわる問題だと思います。
本コラムでは、これら4つの概念がどのように交差し、私たちの心の回復と成長を支えているのかを現時点で可能な範囲で紐解いていきましょう。
1. アタッチメントの光と、トラウマによるその断絶
まずは前提として、アタッチメントとトラウマの関係を確認しておきましょう。
John Bowlby(1969)によって提唱されたアタッチメント理論は、人間(特に乳幼児)が特定の養育者との間に結ぶ情緒的な絆を指します。
この絆は、外界を探索するための「安全基地(Secure Base)」となり、傷ついた時に逃げ込む「安全な避難所(Safe Haven)」として機能します。
トラウマ(特に虐待などの対人関係トラウマや複雑性PTSD)の残酷さは、この「安全基地」そのものを破壊してしまう点にあります。
精神科医のJudith Herman(1992)は、その歴史的著書『トラウマと回復』の中で、トラウマは被害者から他者への基本的な信頼感を奪い、世界との繋がりを断ち切ってしまうと指摘しました。
だからこそ、トラウマケアの第一歩は、治療者や安全な環境との間で「もう一度、安全なアタッチメント(繋がり)を結び直すこと」に置かれます。
しかし、臨床の現場では「繋がること」だけでは不十分な場面に必ず直面します。ここで、「デタッチメント」と「アイデンティティ」の出番がやってくるのです。
2. デタッチメントの再評価:病理的な「切り離し」から、健全な「適度な距離」へ
伝統的な心理学や精神医学において、「デタッチメント(Detachment)」という言葉はネガティブな響きを持つことが少なくありませんでした。
Bowlby(1973)は、母子分離の悲哀の最終段階として、子どもが養育者を諦め無関心になる状態を「デタッチメント」と呼びました。
また、トラウマの文脈では、耐え難い苦痛から心を守るために感情や身体感覚を切り離す「解離(Dissociation)」や「感情の麻痺」としての防御的なデタッチメントが問題視されます。
しかし、現代の臨床心理学、とりわけ家族療法やマインドフルネスを基盤とする心理療法においては、デタッチメントは「健全な境界線(バウンダリー)の維持」と同義として扱われます。
例えば、家族システム理論の第一人者であるMurray Bowen(1978)は、心の健康の指標として「自己の分化(Differentiation of Self)」を提唱しました。これは、他者の強い感情や不安に巻き込まれず(融合せず)、自分の思考と感情を切り離す(デタッチする)能力を指します。
相手の痛みに過剰に同調して自分を見失う「共依存(Enmeshment / 過剰な巻き込まれ)」に陥るのではなく、相手は相手、自分は自分として「適度な距離」を保つこと。これは決して冷酷な態度ではなく、相手を一個の独立した人間として尊重し、かつ自分自身を守るための「思いやりのあるデタッチメント(Compassionate Detachment)」なのです。
アタッチメントが「くっつく力」だとすれば、健全なデタッチメントは「離れる力・線を引く力」です。トラウマからの回復においては、他者と安全に繋がる能力と同等に、他者に侵入されず自分だけの安全な空間を確保するための「適度な距離をとる能力」が不可欠となります。
けれどもここで大切なのは、カウンセラー・セラピストが、従来の「中立」的で「自己開示しない」ということではありません。
クライエントの苦しみにできるだけ共感し、これまで生き抜いてきたことを肯定し、「今、ここで」感じたことを自己開示しながらも、時間になったらセッションを終了し、セッション外のメールなどのやり取りは必要最低限にすることで、まさに「思いやりのあるデタッチメント」が確立するのです。
3. アイデンティティ:繋がりと分離の果てに立ち上がる「私」
そしてアタッチメントとは違う意味で大切なのが「アイデンティティ(Identity)」です。
Erikson,E.H.(1959)が提唱したアイデンティティ(自己同一性)は、「自分が何者であり、過去から未来へどう繋がっているのか」という自己の連続性と統合性の感覚を指します。
アタッチメントが「他者との関係性(We)」に焦点を与えるのに対し、アイデンティティは「個としての確立(I)」に焦点を当てます。
トラウマの専門家であるvan der Kolk,B.(2014)は、トラウマが脳や身体に及ぼす影響を論じた上で、トラウマ体験は単に記憶の問題ではなく「自分自身を生きている感覚(主体性)」を奪い取るものだと論じました。
激しいトラウマを受けた人は、「私は愛される価値がない」「私の中身は壊れてしまった」という形で、自己の物語(アイデンティティ)を根底から粉砕されてしまいます。
セラピーにおいてアタッチメント(安全な繋がり)を再構築することは、あくまで「土台作り」に過ぎません。
最終的なゴールは、患者が誰かの付属物やトラウマの犠牲者として生きるのではなく、「自分の人生の主人公は自分である」という確固たるアイデンティティを取り戻すことです。
発達心理学者のMargaret Mahlerら(1975)の「分離個体化理論(Separation-Individuation Theory)」は、この関係性を見事に説明しています。
乳幼児は母親とぴったりくっついた共生期(アタッチメント)を経て、少しずつ母親から離れ(デタッチメント)、自分の世界を探索することで、最終的に「独立した一個の人間(アイデンティティ)」として個体化していきます。
つまり、安全な繋がりをベースにして、そこから適度な距離をとって離れることができて初めて、人は「私」というアイデンティティを確立できるのです。
4. 三位一体のダイナミクス:回復の航海図として
ここまで見てきたように、トラウマからの回復と心の成熟において、これら3つの概念は対立するものではなく、ダイナミックに相互作用する三位一体のシステムです。
対人神経生物学のDaniel Siegel(2012)は、心の健康を「統合(Integration)」という言葉で定義し、それは「分化(個々が独立していること=デタッチメントとアイデンティティ)」と「連結(互いに結びついていること=アタッチメント)」が両立した状態であると論じています。
この三位一体の統合をAIに図にしてもらったのが以下です。
おわりに
トラウマという深い傷を負った際、私たちは他者との繋がりを強烈に求めると同時に、再び傷つくことを恐れて過剰に距離をとろうとする葛藤に苦しみます。その回復の道のりは、ただ「誰かと温かく密着すること」を目指すものではありません。
現代のセラピーでは、アタッチメントを強調する傾向がありますが、実際のセラピーでは、アタッチメントだけでなく、上記の三位一体の統合が、必ず必要となります。
セラピーにおいてもそれ以外の方法でも、回復の過程は、他者と温かく繋がり(アタッチメント)、しかし同時に相手に飲み込まれずに適度な境界線を守り(デタッチメント)、最終的に「私は私である」という揺るぎない感覚(アイデンティティ)を取り戻す、長く(時に苦しくけれども)豊かな旅です。
この「デタッチメント(適度な距離)とアイデンティティの重要性」は、まさに現代の臨床心理学が目指す、人間のしなやかな強さ(レジリエンス)の本質にかかわるものです。
この視点を持つことは、心理臨床の現場のみならず、私たちが複雑な現代社会で健全な人間関係を築いていく上でも、極めて強力な羅針盤となるのではないでしょうか?
【引用・参考文献】
2026年
4月
09日
木
カップルカウンセリングをしていて、この10年で感じられる大きな変化があります。
それは、タイトルにも書きました「妻たちの大反撃」です。
この10年を便宜的にコロナ前とコロナ中、そしてコロナ後と分けて考えてみます。
1「コロナ前」~被害に耐え続けてきた妻たち
これはコロナ前とは言うものの実は10年よりももっと前から続いていました。
この時期の夫婦カウンセリングは、家事をしない夫、暴言を吐くもしくは暴力を振るう夫、浮気する夫などの問題が多数を占めていました。
もちろん、それ以外の問題のご夫婦もありましたが、大きな傾向としてはそうでした。
そこには、DVはもちろん、発達障害傾向がある夫に振り回されてすっかり疲弊し、混乱しているいわゆる「カサンドラ症候群」の妻も多かったです。
このような妻たちは、その被害を控えめに訴えるか、夫の前ではあまり声高に言えず、別の個別セッションで被害を訴えるという場合が多かったです。
個別面接で「奥さん、それはDVなので、しっかり一時避難したり、長期的に別居を考えたりもしませんか?」と問いかけても、あまりはっきりした返答が返ってこない場合も多かったです。
このようなご夫婦には、私が作った「3つのお願い表」や、内閣府男女共同参画局の「○○家作戦会議」をお渡しして、2人の思いの違いや不満・希望を明確化していただくという介入もしてきました。
2「コロナ中」~対等に戦い始めた妻たち
ところが2020年、コロナが蔓延して、カウンセリングも一斉にオンラインとなったあの年から、一般に言う「コロナ離婚」問題のご夫婦が急増しました。
これはご存じのように、コロナ自粛で在宅ワークが増えたご夫婦が、24時間いっしょに居ることがきっかけとなっていました。自粛生活のスタイルの食い違いからストレスフルになり、夫婦喧嘩が増えて来談するものの元々の食い違いの多い夫婦だった場合がほとんどでした。(ブログ「心のソーシャルディスタンス」参照)
とくにあの時期は成城カウンセリングオフィスの近隣からの申し込みが多かったため、徒歩か車でオフィスに来ていただいて、お互いマスクして窓を開けて対面でカウンセリングをやっていました。
この時のもめ方は「夫婦対等」になっていた印象があります。
むしろ、家での夫の振る舞い、そしてコロナ禍にもかかわらず友人と飲みに行ったり、時にはキャバクラに行ったりしたことが発覚して責められるという、夫が分が悪いという感じの話し合いが多かった印象です。
3「コロナ後」~妻たちの大反撃
ところがコロナが収まった2023年頃から、妻たちの大反撃が始まりました。
もちろん、先述のご夫婦たちとは別のご夫婦たちなので、それまで我慢していた妻たちが反撃に出たとは言い切れないのですが、大きな潮流として感じざるを得ません。
それ以前から全くなかったわけではなかった「夫婦喧嘩で警察を呼ぶ」「近隣が通報して警察が来る」というケースが急に増えました。
それも、夫のDVに苦しんだ妻が身の危険を感じて通報するというよりも、お互いの喧嘩がエスカレートして、時には夫や近隣が通報して警察が来るというのも含まれていました。
この頃になると警察も慣れてきて、しっかりと双方から事情を聴取して、場合によってはその日だけは別々に過ごすことを指導したり、収まった様子を見て、説諭にとどめたりなどとこちらから見ても適切な対応をしてくれるようになりました。
その昔「民事不介入」と言って、家庭問題には一切かかわってくれなかった頃の警察とは全く別の対応となっています。
さらに夫婦カウンセリングの場面でも、妻が夫を激しく責めてなじって侮蔑してという場面が増えました。
さすがにそれは私が静止して「お互い極論になってしまっていますから、もう少し穏やかに!」としますが、家ではもっと激しい喧嘩が繰り広げられている様子です。
夫に殴られたら殴り返すというあっぱれな妻も現れました。
そしてとうとうこの1,2年で、「反撃しすぎる妻」が増えてきました。
4 反撃しすぎる妻たち
そうです。対等をはるかに超えて、夫を撃退する勢いの妻たちです。
正論ではあるけれど、それを強く激しく長時間にわたって主張する妻、一度爆発すると止まらない妻、多額の財産分与と養育費を請求して、結果的には家庭裁判所からも否定される妻等々です。
場合によっては、協議離婚した後に、妻が引き取った子どもの元夫との面会交流の約束を、いろいろな理由をつけて一度も果たさないということもあります。
これまで、ずっと我慢してきた妻たちが、やっと声を上げることができるようになり、時にその声が大きくなりすぎてしまうと考えると、とてもよくわかるので、それを責める気には全くなれないのですが。。。
それでも、夫によっては「女性の権利の濫用だ!」と(ひそかに)訴える人もおり、確かに過剰過ぎてかえってことがうまく運ばない、と思わざるを得ないケースも見られるようになって考えさせられる日々となりました。
そんな中で、信田さよ子先生がこのような記述をされているのを発見しました。
(私は)何冊かの著作において、「被害者権力」という言葉を使ってきた。被害者と自己定義した人たちが、苛烈に繰り広げる加害者への批判・攻撃に対する批判の言葉として、つまり被害者であることを支配のツールとして用いることへの批判としてである。(信田、2026)
https://www.webchikuma.com/n/n5beff3cfd9f3
まさに、そうかもしれない。
信田先生は、被害者が自分は被害者だと認めることそのものも苦しく、忌避したくなるものであり、それが権力志向にもつながるものだという深い理解も示しておられます。
まさにその通りで、それまで被害者として自分を認識できなかった妻たちが、昨今の社会的な動きに勇気を得て、「自分は被害者だったんだ」と認めた瞬間、これまで抑えてきてものが一気に爆発して、炎上して、極端な行動になってしまうのはとてもよくわかることです。
そして、このような反撃しすぎてしまう心を何とか現実的な対話として着地させるのが、私たちカウンセラーの使命かもしれないと思うようになりました。
どう着地してもらうか?
それまで穏やかで気弱な様子ではあるけれど、本当は「上から目線」だった夫に、しっかりと「対等な」目線で対話していくことを促すこともあります。また、妻の(急な)攻撃を恐れて、必要なことまで曖昧にしてしまっていて、かえって妻の怒りをかっている場合には、「どうしても無理なことはしっかり理由を説明して断る」などをご指導したりetc.
やはり夫がどう対応できるかに鍵があるというのは、変わらない感じがしています。
2026年
1月
27日
火
新年早々、すごい本を読んでしまった。
まだ、今年になって読んだ本は2冊目なのに、もう「これは今年のベストワンだ!」と決めた。
この本は、複雑性PTSDのクライエントさんから紹介していただき、そのままお借りして読んだ。
本書の著者は精神分析セラピーを3年以上にわたって受けた、複雑性PTSDの40代後半の女性。フィクションを含んだものとなっているが、基本的には実話だと言っていいだろう。
セラピストは30代男性。かなり正統的な精神分析家らしい。著者はこのセラピストと週2~3回、寝椅子を使ったセラピーを受け続けている(4年目となる?現在も継続中とのこと)。
これまで精神分析もユング派のセラピーもセラピスト側からの報告や論文、手記はかなり読んできたが、クライエント側からのここまでリアルな手記は初めて読んだ。
これは、近年注目されがちなトラウマセラピーの本ではない。
旧来の、いわば技法なしの、セラピストがその生身を提供して、長い長い時間と費用をかけて、取り組んでいくタイプの心理療法だ。
精神分析ならではの、初期には全く手ごたえを感じられず、ひたすら苦しくなるばかりのセラピー。そこから来る希死念慮、そして実際の自殺企図から措置入院。
しかし、これは精神分析のせいではなく複雑性PTSDのセラピーであれば、避けがたい経過でもある。
しかも、それがセラピストとの関係性の中で生じてくるのは、精神分析の特徴ともいえる。
そして以前から不特定男性とのセックスの行動履歴があったクライエントは、次第にセラピストと「性交」したいと強く願うようになり、それをセラピストに繰り返し伝える。不特定男性とは「セックス」を繰り返してきたが、セラピストとは「セックス」ではなく「性交」を望んだのだ。
この要望に対してセラピストがどのように対応したかは、ここには書かない。
それはネタバレでもあるし、本書で描かれた経過なしに結末だけ書くのは本書への冒涜に近いとも思うからだ。
そして、クライエントはしだいにそれまで自分自身に対してさえも隠していた本質的な傷つきに到達していく。
まずは流産にまつわる傷つき、そして次に9歳のころの性被害。
そしてそれらを通じて、クライエントは「支配ー被支配」というこれまでの唯一の関係性から「性交」という別の関係性に開かれて行く。
それは本当の意味での「交流」であり、「支配―被支配」という関係ではない。
この「性交」という言葉に象徴されるような、セラピストとクライエントとの心のふれあいと交流(と言葉で言うとあまりにも薄っぺらいものになってしまうが)によって、クライエントは、「愛されたい自分」に気付き、寂しさを感じるようになり、そして「自分で自分を分かってあげる」ようになる。
こうしてやっと、長い長いセラピーの成果が少しずつ見え始める。。。
評者自身の実施しているセラピーはここまで濃厚なものではない。
そして、統合的にいろいろな技法も取り入れるので、様相はだいぶ違う。
けれども、本質的に流れているものは似ていると言っていいだろう。
短期的にすぐにお役に立てるセラピーも、このような本格的な(このようにしか進まない)長期的なセラピーも、ニーズに合わせてより上手にできるようになりたいという願望は捨てがたい。
本書の中のセラピストはどのように思いながらこのセラピーを進めて行ったかはわからない。
けれども、評者の私は、「もう少しスムーズに、もう少し苦しみを少なく、もう少し早く何とかできないか」とついつい思ってしまう。
でも、そうならないケースがあるのも事実で、しかも「急いだら」元も子もなくなるケースもある。
そんな人間の限界と奥深さを改めて身にしみて感じさせられる本だった。
2026年
1月
01日
木
現代日本の40代の心理士たちはなんて優秀なんだろうか?
私のオフィスの40代スタッフたちもそうだけれど、すでに出版物等でも名を馳せている40代心理士たちの優秀さには、限りない希望を感じる。
それはおそらく大英帝国が没落した後にビートルズやレッドツェッペリン、クイーンなどを輩出したイギリスの状況と、バブル崩壊後30年にわたる停滞を経験している日本が、似た状況だということなのかもしれない。(日本のアニメの素晴らしさにはすでにそれを感じていた)
本書の著者もまごうことなく現代日本の突出した心理学者の一人だ。
はじめは、ちょっとふざけた軽い内容の本かなと思った。
でも、それはとんでもない偏見だった。
ちょっと言い訳させてほしい。
「○○の教科書」っていうと、やっぱりちょっとキワモノ的だし、サブタイトルは上編が「ふたりのキッチン」、下編が「ブロッコリーの花言葉」となっている。
表紙は二人の性別不明の若者が八の字眉毛で、小指でつながれた毛糸(しかも黒い毛糸)に困った様子で、足元はおぼつかない感じのイラストだ。
でも、ここからはまじめに紹介しよう。
今、日本でカップルセラピーの需要はうなぎのぼりだと実感している。
コロナ禍の時期には、いわゆる「コロナ離婚」の問題として、そしてコロナ以降は主に「妻たちの不満の爆発」と「それに対応できない夫」としてのカップルセラピーの需要の高まりを強く感じている。
考えてみれば、カップルの関係を修復するサービスって、心理職にしかできないと思う。
福祉職が支援するのは、もうすでにかなり破綻したカップルのどちらか被害にあっている側や、そのカップルの子どもに対してだ。
弁護士や裁判所が支援するのは、これまたすでにかなり破綻した関係のカップルの事後処理的な場面だったりする。
心理職だけが「今後もっとひどくならないために、前向きにカップルの関係を修復する」「よりよい関係を構築していく」というサービスが可能なのだ。
しかも、カップルのいわば外側、財産や居住形態、虐待やDVを防ぐためのシステムというよりも、カップルの関係そのものに踏み込んで修復するという醍醐味とやりがいのある仕事だと感じている。
さらに、カップルの関係を修復できたら、少子化の問題や虐待の連鎖や貧困、将来のメンタル問題の発生などをも防げるという意味で、個人カウンセリングの数倍の社会貢献にもつながると感じている。
また、AIに心理相談する人が急増している現代において、人間の心理士が今後も当分優位を保てるのは、家族療法とグループセラピーだという指摘もある(Frances,2025)。
(ちなみにこの記事には「人間のカウンセリングの優位性を保つためには、新しい複雑で重篤な病態への対応と、そのための統合的心理療法である」とも指摘されている)
こういった状況の中で、この「カップルセラピーの教科書」の発刊はとてもタイムリーなものと言えるし、これからの日本の臨床心理学の可能性を広げるものだと思う。
そして、本書の特に上編に貫かれている実証主義を重視する姿勢に触れるにつけ、これまで細々とカップルセラピーの実践をしてきた私にとっては「私を含め日本のカップルセラピストたちは、なぜ、効果検証をしようとしてこなかったのか」という自責の念にも駆られる。とにかく全体として骨太の教科書だということが痛感された。
さらに、実証性を重んじたセラピーの教科書だけあって、とてもとても統合的な本になっている。その意味では「心理療法統合ハンドブック」(杉原・福島編著、2022)のカップルセラピー編になっていると言ってもいいだろう。
以下、章をなぞりながら、読者としての私の個人的な感想という形で書かせていただく。
本書では第Ⅰ部の「カップルセラピーの基礎」において、現代のカップルが抱える基本的な問題やそれに注目することの意義や歴史、世界観を伝えてくれる。
その中では、個人療法の歴史から家族療法の歴史までが概観されて、「なぜカップルセラピーなのか」という本書の中心的テーマに導いてくれる。
第Ⅱ部においては、ゴットマンの一連の研究を包括的かつ詳細に紹介してくれている。ゴットマンの研究については、かねてから断片的に知ってはいたものの、日本語でここまで包括的に紹介されるのは初めてのことなので、これだけでも十分な価値のあるものとなっている。
とくに第6章においては、ゴットマンの「夫婦の会話を3分観察するだけで、その後二人が別れるかどうかが96%の精度で予測できる」という有名なテーゼをめぐって丁寧な解説がなされる。
実際にはゴットマンは夫婦に15分間会話してもらい、その中で(a)その日の出来事、(b)二人の間で意見が一致しない葛藤的な課題、(c)二人の間で意見が一致している楽しい出来事について順に話し合ってもらうというものだったらしい。
そして続く第7章において、ゴットマンの研究から「別れの四重奏」という著者独自の翻訳ネーミングによる、離婚するカップルの特徴が具体的に紹介される。
それは「批判、自己弁護、軽蔑、石像化」の4要素である。
この4要素があるカップルは遅かれ早かれ離婚するというのが、ゴットマンの研究のエッセンスだということである。
そして、反対に幸福な夫婦を予測する指標としては、「傾聴がある」ことや「怒りがない」ことではなく、ポジティブ感情の比率がネガティブ感情より多く、ネガティブ感情のエスカレーションがない事だという。
これらは個人的経験からも臨床経験からも、おおいにうなづけることだ。
第Ⅲ部では代表的なカップルセラピーを、その効果の実証性を基に紹介している。
そこには当然ながらゴットマン夫妻の介入プログラム、伝統的行動的カップルセラピー、ダン・ワイルのセラピーなどが紹介されている。
そして第Ⅳ部ではいよいよ感情焦点化カップルセラピーと統合的行動的カップルセラピーという、著者が実践においては最も参考にしていると思われるセラピーが詳しく紹介されている。
感情焦点化カップルセラピーでは、感情とアタッチメントが重視される一方で、統合的行動的カップルセラピーでは、「カップルが‟お互いとの違い”や‟それぞれが抱える繊細さ”を理解し、そうした違いをより批判的でない形で捉え、お互いが持つ特性に対し、ありのままに受け入れられるようになること(アクセプタンス)」を目標として掲げているという。
これは私(評者)の目指すところととても近いと感じた。
日本の夫婦はそもそもセックスレスである場合が多く、感情焦点化カップルセラピーが目指すような「熱い関係」は、そもそも望めないのではないかと感じる事が多いからだ。
とくにカップルのどちらかに発達の偏りがある場合は、感情焦点化カップルセラピーはとても難しいと感じている。
第Ⅴ部においては、日本のカップルへの適用に向けて「カップルセラピーの共通要因」「文化・社会」「ジェンダー」という3つのテーマを中心に解説されている。まさに統合的な視点からさらに対象とする人たちの文化や好みにも合わせようという「エビデンス・ベースト・プラクティス」の最先端の姿勢が、ここにも見て取れる。
ここでは、日本の「相補協調的自己感」と、「アタッチメント理論と「甘え」理論」についてかなり丁寧に論じられている。そして、後の章でさらに重要となる「応答希求」とそれに対する対手からの「応答」というセットについて、ヨーロッパ系アメリカ人とアジア人の違いをいくつかの研究から明らかにしている。
つまり日本のカップルは欧米のカップルよりもより「応答希求」を表明しない傾向があるために、それをパートナーが気づいて(察して)応答しないと傷つきが生じ、孤独や気持ちのすれ違いが起こるというのである。
そのために日本でのカップルセラピーは「すれ違いをきっかけとして、親密な相互作用を起こすつまり「すれ違いを出会いに変える」という相互作用を促す必要があるという筆者独自のカップルセラピー(CCT)の方法につながっていく。
しかし、著者は急がない。
ここで、日本のカップル関係とジェンダーについて詳しく考察する(第19章)。それは日本最古の夫婦とされるイザナギとイザナミの話(古事記)にまでさかのぼり、あの有名な黄泉の国にまつわる神話に触れる。カップルがはらむ政治性と家父長制の伝統、さらには現代日本の子供を中心とする家族関係、このような状況の中での「男性性の傷つきやすさ」や「セラピーを受けることに関する恥」等にも触れられている。
ただ、評者から見ると、日本女性の強さに関する記述が欠けているとも思われる。それは卑弥呼から始まって、シャーマンやシャーマン的指導者は日本列島においては例外的に女性が多いこと。北条政子から「船場吉兆のささやき女将」に至る「女主人」の系譜などから、日本女性の「陰の実力者」としての能力である。
いずれにしても、行動療法出身の著者の著書にこれほどまで詳しい文化史的な記述があるとは、全く予想しなかった。
そして、いよいよフィナーレであり、著者独自の「文脈的カップルセラピー」について紹介される第Ⅵ部にはいる。
この文脈的カップルセラピー(CCT)は、2セッションの予防的セラピーであり、「最小のセッション数で最大の効果を目指す」というコンセプトで開発されたものである。
著者の手によってすでにRCT(ランダム化比較化試験)が行われ、その効果も実証されている。
発想としてはブリーフセラピーのプラグマティズムを取り入れ、正統的であるよりも実用的であることを目指し、同化的統合という心理療法統合を志向していることもよくわかる。
それは行動主義よりも「ある目的から見て効果的であることこそが真実」という文脈主義の立場でもあるという。
実際の介入は以下の手順を取る。
(1)焦点化・・・気持ちのすれ違いVS出会いの会話への焦点化
前述の応答希求性とそれへの応答性の問題に焦点化するということである。
(2)積極的介入・・・エナクトメント
「今、ここで」すれ違いを出会いに変えるやり方と、そこから来るポジティブ感情を体験する機会を作る
(3)柔軟な実践
ここにきて、本書下巻の表紙にもサブタイトルにもあるブロッコリーの伏線が回収される。このブロッコリーの喩えは、このCCTにとてもとてもピッタリで、普段健康のためにできるだけブロッコリーを食べるようにしている評者にとっても、とても分かりやすい謎かけと比喩になっている。
ここでは、ネタバレを防ぐために、これ以上は説明しないでおこう
さて、いよいよ最終章は「実存的な対話を求めて」である。
最終章だけあって、実はこの章が本書の中で最も「深み」のある章となっている。
この章ではマルティン・ブーバーの実存主義哲学と禅の思想を基礎として、「魂」や「価値」について論じ、さらにはアタッチメント理論を「聖杯」(つまり絶対的中核)とする立場に疑問を投げかけることもしている。そしては進化科学への言及も含めて、私たちの生命が持つ意味や目的という方向性についても触れている。
これらはすべて「人間はなぜカップルとなることを求め、そしてカップルはどこを目指しているのか」という問いに対する、著者のもがきにも似た思索である。
「生活のため」とか「子孫を残すため」という明確な目的を失った現代のカップルにとって、このような思索は不可欠である。
そこで重要視されるのは「つながり」と「親密さ」である。
ここでとうとう「“親密さ(intimacy)とは禅における"悟り"を的確に表現した言葉だと言えるだろう」という一見とんでもないテーゼが登場する。
本来、仏教における「悟り」とは、「無常」「無我」「空」といったこの世の真理を体得することであるというのが一般的な理解である。
けれども著者は「パートナー二人にとっては、お互いとの関係性そのものが、そして、お互いにかかわり合う瞬間瞬間のプロセスそのものが、”神”であり”悟り”でありうる」としている。
一見とんでもないテーゼと書いたが、著者はしっかりと関連文献を読み込み、さらにこの悟りが英訳においてintimacyと表現されることがあるのを突き止めてからの考察でもある。
ただし、評者からするとここで使われているintimacyは英語のoneness(一体性)、やラテン語のUnusuMundus(ウヌス・ムンドゥス:一なる世界)に近いものではないだろうかと思われる。
けれども、著者がここでintimacyを悟りととらえ、それがカップルの間の親密性でもあるととらえたい気持ちはとてもよくわかる気がする。
それくらい難しく尊いものであり、実践の中で常に確かめ続けて行くしかないないものであるのは、間違いないから。
そして、この論はさらに中身態へと突き進んでいく。
この中動態理論の引用によって、「”親密さ(悟り)”とは、自己と世界という一つの内部において、”する/される”ではない、おのずと生まれるプロセスなのだと改めて理解することができる」とされる。
つまり、評者たちの世代に親しみのあるところで言うと河合隼雄の”自然(じねん)モデル”
に近いものであることがわかる。
論はさらに進んで、霊性(Spirit)つまりスピリチュアリティとメタ認知、そしてコンパッション(慈悲)におよび、最後に振り出しに戻って、以下のような控えめな結論に達する。
「カップルセラピー(CCT)では、”親密な対話の促進”、これを価値として選択する」と。
【感想】
最後に、少しまとまった形で本書全体への感想を述べたい。
本書の主張はすべて賛成である。実証研究の部分はもちろん、最終章第22章の「実存的な対話を求めて」についても、その結論も大賛成である。
非常に実践的科学的な本でありながら、最終章にここまで対話哲学や禅、スピリチュアリティに踏み込んだものとなったのは、著者がアクセプタンス・アンド・コミットメントセラピーなどの、仏教的な思想と近いセラピーに造詣が深いからこそだと思われる。
ただし、実践上の問題としてCCTの「2セッションのみの予防的介入」には、多少の疑問を抱かざるを得ない。
評者の臨床経験としても、たしかに問題が軽いカップルは、2回の介入で十分に効果があり、その効果は、比較的永続的である。たとえばすでに個人セラピーを受けているクライエントが、セラピーの経過中に結婚して、配偶者との関係性に少し悩んで1,2回のカップルセラピーを実施した場合などに経験したことが、数例ある。
けれども、カップルセラピーとして初回からお二人で来談される場合は、すでに問題はかなりこじれて深刻なものとなっている。そして、少なくとも5~10回のセッションが必要となる。
評者のオフィスに来談されるカップルは、精神科クリニックから勧められてとか、子ども家庭支援センターからの紹介でなど、すでに警察も介入しているケースも少なくない。
つまりCCTは、実証性に優れているけれど、実際的であるかどうかが最大の疑問だ。別の言い方をすれば、市場のニーズがあるかどうかという点が疑わしい。もちろん、今後は回数を多くしたCCTを開発予定なのかもしれないが。。。
もう一つの疑問は、「すでにある日本のカップルセラピーの実情と伝統にあまり触れられていない」と思われる点である。平木典子、野末武義らの名前がほとんど登場しないのは、少し残念である。ここには著者なりの意図があるのかもしれないが。。。
本書全体として非常に読みごたえがあったが、とくに最終章の対話哲学的、宗教哲学的な考察は深さもあり、一番の読み応えのある章だった。
上下巻両方の最後にあるエピローグからも推察されるように、カップルセラピーへのこのものすごいとも言える情熱は、著者自身の体験とも深くつながっているようである。そして、「親密性」を「悟り」や「霊性」の意味にまで高めて重要視する姿勢は、同性代の東畑開人の「つながり」理論との共通性を強く感じる。
もちろん世代の違う私も、どちらにも多いに共感するのだが、ここまでの情熱は持てない。それは私が「しらけ世代」に属するせいかもしれないし、思春期を高度成長期に過ごし、オイルショックを経験しながらも、バブル期に青年期を迎えた(私個人は貧乏大学院生だったので、全く関係なかったけれど)世代だからかもしれない。
著者たちの世代はそれだけ寂しさと虚無感を抱えた、しんどい世代なのかもしれない。
その寂しさと虚無感が、こういう天才たちを育んでいるのだとしたら、これはこれで悪くないのかもしれない。
この「失われた30年」で、日本が得たものはじつは大きいのかもしれない。
文献
Allen Frances(2025) Warning: AI chatbots will soon dominate psychotherapy
Published online by Cambridge University Press: 20 August 2025