AEDPの創始者ダイアナ・フォーシャと  (2010年イタリア・フィレンツェにて)

  EFT(感情焦点化療法)の創始者レスリー・グリーンバーグ先生と


Blog

2018年

2月

12日

私の薦める一冊

 

「青年期精神療法」第13巻第1 p133-135.2017 掲載を修正の上、再掲。

 

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016

 

 

 

                                                スタッフ:森山

 

 

 

1.       はじめに

 

私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった

 

しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ

 

らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。

 

 

 

2.       本書について

 

 本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。

 

 

 

3.       レズ風俗、そして寂しさと自己表現

 

数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。

 

 往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。

 

 自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。

 

 今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。

 

 

 

4.       ボロボロになることで免除され、もらえる居場所

 

 著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。

 

彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。

 

 同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。

 

 

 

5.       自分から大切にされる

 

 ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。

 

 これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。

 

 このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。

 

 一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)

 

 

 

2018年

1月

03日

やられたら半返し!ー間接互恵性から考える長期的な信頼を得る方法ー

けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

 

さて、本ブログの8月の記事「I love you は突然に?」にちょこっとだけ書いたら、思いの外「もっと詳しく書いて」というご要望の多かった「やられたら半返し!」について、やっと書く時間ができました。じっくり読む時間のない人のために結論から先に書きます。

 

<結論>

「長期にわたる対人関係では、『やられたら半返し(つまり仕返しや反撃は、半分程度の量や強さにする)』というやり方が、お互いにとって最もいい結果を生む」

つまり、何も反撃しないのでもなく、かといってひところ流行った「倍返しだ!」でもなく、「半返し」が理想的な対応だという考え方です。

 

これは、基本的には、私(福島)の長期的な体験や継続的な観察から来ていますが、多くのクライエントさんたちや同僚、昔からの友人の行動パターンを見ていて導き出した一つの教訓です。

 

<具体例>

たとえば、会議や飲み会の席で、同僚Aさんからこちらに対して濡れ衣的な責任転嫁のような発言を受けたとします。その場で黙ってしまったらそれを認めたことになりかねません。かといって「そんなこと言って、Aさんこそ○○でしょ?」と倍返し的に反撃すると、その場は何とか収まってもこれを繰り返していると、長年の積み重ねでだんだんとこちらの評価も下がってきます。

 

このような場面で「いえいえ、それは違います」と穏やかに否定して、反撃まではしないというのが、ここでいう「半返し」のイメージです。あるいは、せいぜい「いいえ、それは全く違います。事実は〇〇で、その結果こうなったのです」とはっきりと根拠をあげて反論するというものです。

 

このような態度を一貫して示していけば、長期的な関係において、少しずつ周囲の評価や相手からの信頼も得られて、理不尽な責任転嫁や八つ当たり、さらにはいじめにあうリスクがどんどんと減っていきます。

 

反対に逆ギレしたり、反論もせずにそのままにしていることが続くと、評価を落とすだけでなく、かえっていじめの対象となりやすいのが日本社会の特徴です。

 

別の例としては、カップルや家族を考えてみましょう。

問題のあるカップルや家族の関係で、共通してみられる傾向の一つに「片方、あるいは誰かの一人勝ち傾向」です。

つまり、カップルや家族の中で、勢いや気持ち、あるいはお金や暴力など、何らかの形で優位に立っている人が、いつも一方的に勝ち続けて、他の人は反論さえしないかあるいは愚痴という形の口だけの不満を漏らすのみという関係です。

これまでたくさんのカップルやご家族にお会いしてきましたが、この「一人勝ち」が性別や年齢に関係なく起こるのが、このような親密な関係のおもしろいところではあります。

 

このように「一人勝ち」され続けた相手や家族は、正面から半返しすることなく、何らかの形で逃げたり、たまにブチ切れるだけで、また元の木阿弥に戻ったりする場合がとても多いのです。そして、さらには不登校やひきこもり、大人であれば浮気や借金、体調不良というかたちで反撃するという形になりかねません。

これでは、だれも幸せになれません。

 

ちなみに日本では負のエネルギーは集団内部に向かいやすいので、一度集団内で「いじめ対象」認定を受けると、どんどんその人にいじめが集中するということが起こります。これを私は「逆エントロピー現象」(本来拡散するはずのエネルギーが逆に集中していってしまうこと)とか「(対人関係における)ブラックホール現象」と勝手に名づけています。

最近の日本ではさすがに下の立場の人たちが、上の立場の特定の人をいじめるというのは稀ですが、それでも「なめる」「なめられる」という関係は発生します。それは、教師と生徒との間でも言えることです。学級崩壊やゼミ崩壊には、やはりこの半返し不足やまじギレ過剰がみられます。

そんなこんなで、これらがすべて、半返しのうまくできていないひとをめぐって起こるというのが、私の観察の結果です。

 

<間接互恵性と(処罰感情における)道徳感情論>

上記のことは、社会心理学で言われる「間接互恵性」の攻撃性バージョンと言っていいかもしれません(あるいはすでにそのような理論があるのかもしれませんが)。間接互恵性とはつまり、ある個体が利他行動(他者に親切にするなどの行動)を行った結果、その個体の評価が高まり、他者に行った利他行動が回りまわって別の他者から返ってくる仕組みのことです。これは実験や自然観察法などいろいろな形で確かめられていることです(たとえば(Kato, et al.,2013))。

 

人類は自らの生存率を上げるため、このように言葉や他者からの観察による「評判」を媒介とした協力関係システムである「間接互恵性」を進化の過程で身に着けてきたと考えるのが最近の進化心理学です。

 

この間接互恵性は「利他行動」となっていますが、これを「(理不尽な)攻撃に対する大人な反撃」の仕方としての「良い評判」を得て、回りまわって利益を得るというものが「半返し」理論ともいえます。

 

また、この間接互恵性の理論と、人間の処罰感情とを英国の経済学者アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments,1759)』とつなげて論じて、世界史上あちこちで繰り返して「格差の拡大」が広がり過ぎると必ずこの道徳感情での「正義」が否定的な形で猛威を振るって、悲惨な事件や戦争が起こるとしているユニークな論考もあります(管賀,2017)

 

<私たちの中に鬱積している怒り>

では、なぜ、数年前の半沢直樹のドラマや小説の「やられたらやり返す、倍返しだ!」があれほど好評だったのでしょうか?

これは基本的には、私たちの心の中の「勧善懲悪」の気持ちが満たされる、(水戸黄門以来の?)久々のシンプルなストーリーだったからともいえるし、最近の日本が格差の広がりをもとにした「ネガティブな道徳感情」が強まっているからとも考えています。

 

たしかに、あの小説に登場するような悪人たちには、倍返しが必要ですし、実際に世の中には巨悪と呼ばれる人物や、パワハラの尽きない、地位のある人がいるのも確かです。そのような人たちには、やはり倍返しするしかないのかもしれません。

 

でも原作者の池井戸潤さんも、本当は半返しの方が望ましいということに気づいていたのではないでしょうか?

だからこそ、主人公の名前だけは「半」を付けておいたのではないでしょうか?

 

文献

1)Kato-Shimizu Mayuko*, Onishi Kenji*, Kanazawa Tadahiro, Hinobayashi Toshihiko (2013)
Preschool children’s behavioral tendency toward social indirect reciprocity.
PLOS ONE 8(8): e70915.[DOI] 10.1371/journal.pone.0070915

[URL]http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0070915

2)管賀 江留郎道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2017)

 

以上

 

 

2017年

10月

09日

カウンセラーのセルフケアと自己点検

 

(この記事は2017年1月の「臨床心理学」17-1掲載の小論に加筆修正したものです)

 

「カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?」

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

① 基本的な考え方—すべて臨床の中で−

 

まず、基本的な大前提として、栄養と睡眠と適度な運動のバランスを日々心がけているということを確認してから、本稿をお読みいただきたい。そして、さらに男女の区別なく「ある程度の家事を手がけている」ということも大切にしたい。栄養・睡眠・運動は、例えば寿司職人が深刻な手荒れや腰痛を抱えていてはいけないのと等価である。そしてさらに寿司職人のたとえで言えば、しっかりとした師匠についてきちんと修業をしながらでないと、誇りをもって寿司を握れるようにならないのと同様、カウンセラー(以下Co)も、きちんとトレーニングを受け続けたということを前提として、セルフケアと自己点検の議論が成立する。これらの中で「家事参加」は多少奇異に思われるかもしれない。しかし、日々の家事の一切をパートナーや親族に任せてしまっているCoは、その基本的な「日常性」をリスペクトしていないということになるからである。

 

上記のような基本的なセルフケアを実践していても、さらにCoはその臨床活動の中で自信喪失や無力感・孤立感などをはじめとする困難に突き当たることがしばしばある。けれどもCoは自身の心理的困難や機能不全は盲点になりやすいとされている(Barnett, J.E. & Sarnel, D. , 2000)。それゆえCoが困難への対処法を身に付けることは、理論的学習や介入技法の習得と同様に重要であると考えられる(Guy,1987)

 

けれども筆者は、Coの困難への対処法に代表される「セルフケア」と「自己点検」は、基本的には「全て臨床活動の中でされるべき」と考えている。ケアは面接の中でクライエント(以下Cl)との適切なふれあいや協働の中で起こるはずであるし、自己点検は臨床現場におけるCo自身の振る舞いを振り返る中で十分になされる。そして、スーパーヴィジョン(以下SV)や教育分析、さらに職場内での相互研鑽という専門職としての訓練が、訓練であると同時にケアと自己点検にもなるというのがカウンセラー業務の特殊性でもあり、魅力でもある。

 

何よりも「成長の喜びが最上のケアになる」という原則を確認したい。そしてそのためにも少なくとも資格取得後10年程度は、SVとケースカンファレンスは欠かせないし、その後に教育分析を受けることを前提として、本稿を書き進めたい。このような形で訓練とケアを同時に受け、それと並行してClが少しでも良い兆候を見せたり、前向きに取り組むようになった時にCoは無上の喜びを感じ、さらに自身の成長を感じられる瞬間が最上のセルフケアであり、自己点検である。

 

このようなセルフケアと自己点検を怠らなければ、Clとの共依存やバーンアウトに陥ったりせずに、日々健やかな臨床活動ができる。

 

 

 

② 具体的な場面+解決方法

 

 横田・岩壁(2015)は、2010年に日本の臨床心理士を対象におこなった郵送調査の結果より、心理臨床家の臨床における困難は私生活における困難とはあまり関連がなく、業務における個人的な葛藤や孤立感が大きく関連していることを明らかにしている。そしてさらにその対処法として、困難を感じても対人的資源を用いていない場合が多いことが示唆されたとし、業務上の葛藤や孤立感を体験しているものへの支援方法を考えていくことが必要であると結論付けている。

 

セルフケアが必要な場面−「突然責められる」「泣きっ面に蜂現象」

 

 すでに30歳前後の頃から、夜遅くまでのカウンセリングにさほど疲れをおぼえない私を、同僚たちは「特異体質」とか「Clのエネルギーを吸い取っているのでは」などとささやいていた。そして、30代半ばに訪れたプライベートな危機的状況でも、職場では平気な顔をしてカウンセリングに励み、状況が一段落してから同僚に報告したところ「全然わからなかった」と驚かれたこともある。

 

 これらはすべて「Clと深いところでゆっくりと触れ合いながら、一緒に取り組む」という臨床的な欲求から生じた「臨床活動そのものの中でのセルフケア」だったと思う。

 

 けれども事はそう簡単ではなかった。40歳を過ぎた頃から、より困難な事例を担当するようになって、Clから責められるような場面もちらほらと出て来た。「ぶっ殺してやる!」と言い放った男性Cl。こちらに落ち度があったとは考えにくいのに急に私を責め始めた女性Cl。さらに「弁護士と相談しています」というメッセージを残して中断していった女性のケース(この方は、その後再開の申し込みがあったが)。

 

 このような時には、日々の生活が一気に暗転し、しばらくは心のほとんどがその事で占められる。そして、誰にも言えない。さらにこういう時に限って、別の職場や家庭でも全く関係のない問題や深いところでは関連があるとしか思えないような問題が勃発する。私が「泣きっ面に蜂現象」と呼び親しんでいる状況である。こんな時には「もう少しでうつ病になるんじゃないか」とすら思った事もある。そして、その事自体も誰にも言えない。

 

 けれどもやはり,これらのストレスの解消方法 は「カウンセリングセッションのなかでそのストレスに触れる・扱うこと」だった。たとえば、上記のようなClの怒りに対しては、ひたすらそれ を浴び続けるだけだったり、心のなかで拒絶したり反論反撃するのではなく、きちんと言葉にしてClとともに向き合う必要がある。その具体的な手法に関して詳しくは、髙岡・糟谷・福島(2013)にて分析考察したが、Clの怒りや依存、その他の転移的感情に関しては、可能な範囲でしっかりと向き合い、話し合い、その後のカウンセリングの課題とすることで、お互いの納得感や成長やケ アにつながる。

 

それは1990年代から欧米で盛ん に研究されているtherapeutic alliance rapture(作業同盟の亀裂)に関する研究からも同様のことが言える(たとえばSafran & Muran, 1996)。これらの研究からも作業同盟や治療関係がギクシャ クした時に、うまく修復できると治療効果が上がることが実証されているが、この時、同時にCo も癒されていることは経験から言って疑いない。

 

このように臨床における困難の最善の解決方法は「ひたすら臨床をすること」だ。どうせ趣味やレジャーに自分を向けてみても、楽しめはしない。ひたすら臨床をし、そして考えて考える。それのみが解決で、成長につながる。

 

あるいはもうひとつは日常生活に献身する事だ。たとえば、トイレ掃除をしてトイレの神様に献身するのもいい。おいしいご飯を炊いてお米の神様(かまどの神様?)に感謝するのもいいかもしれない。この際、私に限って言えばあまり超越的な神様は助けにならない。せめて仏教の「全ては縁(関係性)で成り立っている」という「縁起観」や「始まりも終わりもなく刹那滅(生じては滅し滅しては生じる)する」という世界観の方が助けになる。

 

 

 

自己点検が必要な場面−Co自身の課題やトラウマ、躁状態、うつ状態

 

 Coももちろん人間なので、自身の課題やトラウマを抱えている。そして時に躁状態やうつ状態になることもある。これらに関しては、常日頃の自己点検が欠かせない。そして、その出発点となるのは、やはり臨床活動だ。複数のClがいつもと違った動きをしていたら、その原因はこちらにある可能性が高い。セッション内で自分でも少し変だと思われる発言をしていたら、やはり自分が普段と違うと考えた方がいい。そしてその次に大切なのがSVと教育分析である。①にも書いたように自身の成長を感じられる事が何よりのケアとなるという原理は、この領域特有のものであるし、ストレスに意味が見いだされれば、それはすでにストレスではなくなる。

 

 

 

③ 考えられる困難と課題

 

それでも辛かったら、SVか同僚か薬を

 

 けれども、上記のような対応は、やはり私の特異体質ゆえかもしれない。同年代つまり臨床経験30年前後の臨床心理士に聞いてみると、すでに体を壊した事のある人や、現在うつ状態の人もいる。よく聴くとやはり仕事のストレスを溜め込みすぎていたようだ。そして私のような特異体質以外に、ストレスを感じながらも持ちこたえている同年代に二つのタイプがある。一つは、同僚とのおしゃべりで発散しているタイプである。毎日、臨床の仕事が終わった後に、お菓子を食べながらひとしきりおしゃべりをしながら1時間ほど同僚と過ごしてから帰る事で、とても解放されていると言う。これは同僚に恵まれないとできないが、それさえ叶うならとても有効なやり方だと思う。

 

 もう一つのタイプは、睡眠薬や抗うつ薬を(時々)服用しているというタイプである。こちらは、Clに服薬をお勧めする事がある我々としてはとても理にかなった方法でもあるし、薬の効果と副作用についても実体験できるいい方法だ。私も国際学会のための出張の際や帰国後には、睡眠導入剤を服用しているが、副作用や反跳性不眠(リバウンド:服薬をやめた時に不眠になること)なども体験できて、その辛さも含めてとても学ぶ事が多い。

 

 

 

自分の不安と個人主義志向に合った職場を

 

 不安が高く同僚や上司たちと一緒に仕事を進めていきたいタイプと、個人主義志向が強く、できるだけ一人で仕事を進めていきたいと思っている人の両方のタイプがこの業界にはいて、そのそれぞれにふさわしい職場がある。前者は、やはりチームワークの求められる職場で、さらにそれがうまく機能しているところが理想であるし、後者の傾向が高い人はできるだけ少人数の、例えば個人もしくは共同開業がふさわしい。

 

 

 

自身の弱さを生かす勇気

 

 では、私たちを折れなくするために必要なのは勇気なのだろうか。そうかも知れない。けれども我々心理臨床家の勇気は、一般の勇気とは少し違うと思っている。それは「自分の弱さを使う勇気」「弱さを使って勝負する勇気」と言うと少し分かりやすくなるもしれない。それは私たちのコンプレックスや弱点を「敏感な感覚器」として使ったり、弱点を通じてClの痛みを理解したり、さらには弱さから逃げない姿勢をClに見せる事によって、Clと通じたりClのモデルになったりするのである。そして、そうすることを通じて、私たちの弱さは、その弱さのままで強みに変わる。

 

 

 

毒あるいはネガティブなエネルギー

 

 いや、臨床家の折れない心の元は「毒」かもしれない。私を含めて私の周りの心が折れない臨床家の共通点は「毒舌家」だという点につきる。しかも、それは決して「悪口や誹謗中傷」ではなくて「真実をついた毒舌」である。そして、反対にストレスを貯めてしまっている臨床家の共通点は、この毒が少し足りないという点かもしれない。この毒はClに直接向かうものでもないし、Clについて毒舌的な陰口を言う訳でもない。けれども、ある意味「毒」を吐くのがClのそもそもの営為だと考えると、そのClの毒を、Coの毒で中和するようなところがあるのかもしれない。私に限って言えば、Clに会わないお盆や正月は、自身の毒が中和されずに自分を駆け巡って、ややうつ状態になる。

 

 そういえば、ある有名な精神科医は「私の原動力は怒りです」とおっしゃっている。つまり子を虐げる親、そしてそれをうまくケアできていない現在の日本のシステムに対する怒りを原動力としているというのである。これもある種の強さにつながる「毒」と言っていいのかもしれない。

 

 

 

魂の鍛錬と上昇

 

 もう少し踏み込んだ議論をしよう。ユング派のヒルマン,J.は「魂という視座」という形で世界やものの見方の中に「魂」という視点を取り込む事の有用性を主張した。たしかに私たちの仕事であるカウンセリングや心理臨床は、この魂という視点を持つ事でのみ説明可能な瞬間や領域がある。それは単なる欲求や動機付けという言葉では説明しきれない、理性を超えた何らかの志向性に近い。そして、魂という視座を持った時に初めて、私たちがなぜ心理臨床家になったのか、心理臨床家を目指しているのかがおぼろげながらに分かってくるのではないだろうか。そしてそれらを理解したうえで「魂を洗練・鍛錬していく」必要がある。そういう視点に立つと、Clから投げかけられた無理難題も理不尽な責め言葉も、「魂の鍛錬」として有用と思えるのではないだろうか。

 

 

 

私たちは何を求め、何を奉仕しているのか

 

 緩和ケアや終末期臨床に携わっている同僚たちは、「このような尊い場面に立ち会わせていただく幸せ」を感じると言う。さらには被害者支援に取り組んでいる同僚は「Clがズタズタにされた尊厳を、少しずつ取り戻していく場面に立ち会う尊さ」を口にする。私たちはこのように、単なる「社会適応」や「効率性」ではなく、「尊厳」や「尊さ」を求め、それに向かって地道に取り組む「日常性」を信奉しているのではないだろうか。最終的にはこの辺りを明確にすることで、真のセルフケアは成立すると考えている。

 

 

 

文献

 

Barnett, J.E. & Sarnel, D. (June, 2000). No time for self-care? 42 Online. The online journal of Psychologists in Independent Practice, a division of the American Psychological Association. Available at http://www.division42.org/

 

Guy (1987).The Personal Life of the Psychotherapist. John Wiley & Sons: New York

 

Safran, J. D., & Muran, C. (1996). The resolution of tuptures in the therapeutic alliance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64, 447-458.

 

髙岡昂太、糟谷寛子、福島哲夫(2013) 怒りを表出したクライエントへの治療的対応に関するプロセス研究—課題分析を応用した合議制質的研究法による実践的対応モデルの生成—臨床心理学. 第13巻第3 号391-400.

 

横田悠木・岩壁茂(2015)心理臨床家の実践をめぐる困難に関する調査研究. 日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.322

 

2017年

8月

14日

公認心理師パブリックコメント

専門家、非専門家に限らず、広くご意見をお出し下さい。

公認心理師パブリックコメントが8月16日の締め切りとなっております。

 

国民の福祉に大きな影響がある施策となりますので、ぜひご意見をお出し下さい。

 

私は、以下のような内容を提出しました。

 

*********

国民が安心して質の高い心のケアなどの臨床心理サービスを受けられるように以下の点を要望します。

 

1.主治医の指示は真に必要な場合のみに:
主治医とカウンセラーが同一機関内に所属していない場合、クライエント(未成年の場合は保護者)の同意があった上で、指示をはじめて受けることが可能となること、緊急時で主治医の指示を受けることが難しい場合、1回のみの相談の場合、学生相談、スクールカウンセリングなどでは主治医の指示を得てからというのは現実的ではないので除外してほしい。
医学モデルと臨床心理学モデルは異なり、対等で独立したものであることがクライエントの福祉に寄与するものです。

 

2.経過措置の対象(現任者)を限定してほしい:
経過措置の対象が非常に幅広く解釈できるが、それでは結果的に心理臨床職とはいいがたい、非常に低いレベルの資格になっており、国民の福祉にかなうものではない。経過措置の対象を「心理臨床業務従事者」に限定してほしい。

 

3.実務経験3年以上に:
学部だけで大学院に進まない場合の実務経験を3年としてほしい。こころという重要な事柄を扱う上で最低限の年限を確保することが国としての責務です。

 

以上

*********

提出先は以下です。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495170114&Mode=0

2017年

8月

05日

I love youは突然に?ー甘えと攻撃は予告が必要!ー

このタイトル、なんか、J-POPの歌か小説のタイトルみたいですね。実際、小田和正さんの昔の歌に「ラブ・ストーリーは突然に」という名曲があります。このまんまのタイトルのネット小説はあるみたいですしね。

 

でも、今回の本題はサブタイトルにあります。

そう「依存と攻撃は予告してからでないと逆効果や悪循環を生む」というのが、今回の趣旨です。(甘えというのは、精神分析用語として特別の意味がありますので、今回タイトルのみに使用しました)

 

さらに言えば「依存と攻撃は、予告して了解を得てからしましょう!」という提案です。

 

前回の(2017年4月1日掲載)ブログに「あごうたオッケー!」のお勧めを書きました。

これは「ありがとう、ごめんなさい、うれしい、助かる、(頼み事や約束事は)オッケー!」の頭文字を取って、夫婦の円満の秘訣を伝えたものです。そしてはじめの2つは心を込めて言わないと逆効果だけれど、あとの3つはとりあえず言うだけでも効果抜群という話でした。

 

反響は色々とあったのですが、その中の何人かの方からあったのが、「理不尽なお願いをされても『オッケー!』って言わないといけないんですか?」「本当はありがたくないことも『ありがとう!』って感謝しないといけないんですか?」という質問でした。

 

これはもちろん違います。

「それはちょっと困ります」とか「それは、今は要りません」といういわゆるアサーション(柔らかな主張・自他尊重の自己表現)は、「あごうたオッケー!」と同じくらい、いやそれ以上に大切です。

ちなみに、最近の若い人たちがよく使う「大丈夫です」という断り言葉は、年配の僕にはその意味で使うことに抵抗があるし、「これ食べる?」という質問に「大丈夫です」と言われると、聞き返して確かめないといられないという意味で、居心地の悪い曖昧表現です。

 

さて、本題の依存と攻撃です。

親密な関係においては、突然の攻撃が良くないのは誰でも分かりますよね。反対に親密でないなら奇襲作戦や先制攻撃というのは、意味があるかもしれませんね。でも、親密でなくても、今後長いつきあいが続く相手には、避けるにこしたことはありませんが。

 

(余談ですが、大学教員も決して親密でなくても、下手をすると20年以上同僚関係が続きますので、奇襲や先制はいけません。僕は数年前に流行った「倍返し」ではなくて「やられたら半返し」をモットーにやってきて、人望とやりやすさを勝ち得ました)

 

親密な関係における依存と攻撃は、いきなりやると手痛い拒否やしっぺ返しを受けることがあります。それは瞬時の拒否や反撃というわかりやすいものから、その場はうまくいったように思えても、数日後に仕返しをもらうこともあります。

さらには、長期間にわたる支配や抵抗、心理的引きこもりという反撃にあうことさえあります。

そうすると、そのような反撃にあった方は、さらに仕返しに出るか大きな苦悩を味わうということになりがちです。これが悪循環の典型です。

 

カウンセリングでいろいろなご夫婦にお会いしていると、配偶者の浮気や身体的な訴え(心身症の場合も慢性疾患や時にはガンでさえ)も、もう片方の配偶者の依存や攻撃に対する反撃なのではないか、少なくともそのストレスで出ているのではないかとさえ思える場合が少なくありません。

 

もちろん、長期的な影響の最大のものが「子どもへの悪影響」であることは、このブログを読まれる方ならもうおわかりだと思います。

 

なので、ここで提案です。

 

「愛の告白は突然でもいいけれど、依存と攻撃は相手の了解を得てからやりましょう!」

具体的には「今、ちょっといい?」「あのーお願いがあるんだけど」と言って了解を取ってから甘える。

「ちょっと話があるんだけれど、今いいかな?」「大事なお話があります。時間をとれそうになったら言って下さい」などと予告して、相手にその覚悟ができてから攻撃する。

 

です。

 

もちろん攻撃は素直に正面から、建設的にというのが理想です。

 

依存に関する予告と了解取り付けは、医療やヒト対象の研究の用語を借りて「インフォームドコンセント(説明と同意による)甘え」と呼んでいます。

攻撃に関する予告と了解取り付けは、戦争用語を借りれば「宣戦布告つき正面攻撃」でしょうか。でも、正面攻撃というのは激しすぎるかもしれないので「予告つき限定攻撃」の方がいいかもしれません。

「もう1回やったら怒るからね」というのも、本当に実行されるならこの予告つき限定攻撃にあたります。

 

この際大切なのが、予告して断られたら、少し待つ。そしてその条件が整ったら必ず実行するということです。

予告したのに実行されなかったら「ナアナア」か「疎遠なまま」の関係になって、どちらかの都合のいい関係になります。

 

以上のようなことを心がけていただくことによって、幸せなカップル、家庭、親子が増えることが、私の祈りです。

 

(完)

カウンセリングの基本「今、ここで触れ合う」

 

※今回の記事は2015年の「臨床心理学特集号-カウンセリング・テクニック」(金剛出版)に掲載されたものの元原稿に加筆修正したものです。

 

-カウンセリングのベーシックテクニック6

 

[理解]触れあう=「今ここ」での関係

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

Ⅰ はじめに

 

カウンセリングでクライエント(以下Cl)とセラピスト(以下Th)が触れあうということについて、わかりやすく説明するのはとても難しい。色々なレベルの触れあいがあり、さらにどのように触れあうと、Clがどのように感じるのかが予測も効果もなかなか分かりにくいことが多いからだ。

 

ここで、カウンセリングにおける出会いと触れあいを、イヌ(Th)とネコ(Cl)の出会いにたとえてみたい。街角で初めて出会ったイヌとネコを想像してみよう。あるいはもっと正確なたとえにするとしたら「一見、優しそうな表情をしたイヌの所に、元気のなさそうなネコが来て、ちょっと様子をうかがう」とした方がいいかもしれない。ネコは見るからに弱っているかもしれないし、見たところ普通だけれども目だけがおびえていて、逃げ足は速いかもしれない。あるいは意外にも喧嘩っ早いトラブルネコで、簡単には触れあわせてもらえないかもしれない。反対に一度気を許すととんでもない甘えん坊の「かまってちゃん」ネコかもしれない。 

 

一方、イヌの方は例外なく初めは一見優しそうにしているだろう。でも、実はがっちりと飼い主や組織に管理されている、まさに「○○のイヌ」かもしれない。さらには飼い主や師の教えにものすごく忠実な「忠犬」で、全ての活動は「教えを守るため」あるいは「教えの正しさを証明するため」だけにされているかもしれない。そして、ひそかに(名誉や権力)に飢えているかもしれない。反対に飼い主や世の中に強い反感を持っているかもしれない。もっと多いのは「世の中のかわいそうなネコを救うことに全身全霊を尽くしている」という、いわゆるヒロイックなお助け犬かもしれない。

 

 このようなさまざまな個性を秘めたネコに対して、別の意味で様々な個性をもったイヌが、どのようにしたらしっかりと役に立てるのだろうか。一筋縄ではいかないけれど、それでも何らかの形で、触れあって、何らかの形で働きかけないといけないだろう。触れあうことに慎重になることは何よりも大切だけれど、慎重にやりすぎて、ネコが失望して路地裏や野山に去っていっては役に立てない。そのネコが捨てネコなのか迷いネコなのか、あるいはいじめられネコなのかによっても、必要とされる対応が全く違う。

 

 以上、かなり突飛なたとえだったかもしなれいが、カウンセリングにおけるClThの出会いと触れあいを考えるときに、主訴や相談内容とは別に、様々な要因が絡んでいることをまずは意識しておきたい。そして、このような様々な要因のうちのCl側のそれは、始めから明らかな場合も多いが、Th側のそれは、Th自身にもよくわかっていないまま巧妙に覆い隠されつつ、それでも数回会ううちに、2人の関係に多大な影響をもたらし始めるのである。

 

 

 

Ⅱ 「今ここで」触れあうとは-ロジャース・精神分析・ユング・認知行動療法-

 

カウンセリングにおいてThClが心理的に触れあうとは、どういうことだろうか。ロジャース,C.R.による、「治療過程が生じる条件」としてあげられている6条件のうちの第1条件が、まさにこの触れあいに関するものである。それは「二人の人が心理的な接触をもっていること」とされている。そして、第2条件以下は、例の主要3条件とそれがClに伝っていることなどが続く。

 

しかしその一方で、精神分析においては「Clの欲求を満たしてはいけない」として、Clの触れあい欲求や不安低減欲求をある程度でも満たすような治療法を「支持的療法」として、下に見る傾向がある。でありながら、やや古い研究ではあるが、精神分析的精神療法で顕著な改善を示したのは、全て支持的な精神療法だったとの報告もある(生田、1996)

 

ユング派においては、箱庭療法を分析心理学の技法として導入したカルフ,D.の「自由で保護された空間の中での、母子一体感にも似た」という言葉からも、十分に触れあいを重んじていることがうかがえる。ユング自身の著作に当たれば、とくに『分析心理学』や『転移の心理学』の中で、ClThの無意識的な触れあいである「神秘的関与」による両者の変容が、その危険性への十分な注意喚起とともに述べられている。

 

認知行動療法(CBT)においては、触れあうことはとくに述べられていないが、「ホットな認知を扱う」として、感情を伴った認知を喚起する場合がある。おそらくこのような認知を取り扱う際には何らかの触れあいが生じているに違いないと思われるが、あまり正面から「触れあい」として取り上げられることはない。

 

 筆者の基本的な姿勢は、統合的心理療法を探るというものである。このような技法も態度もClに合わせてカスタマイズするという考え方から、この項の結論を述べてしまえば『Clに応じて、最適な形で触れあうことをめざす』ということになる。それは単にクラエントの求めに応じるわけでも、Clに同調するわけでもない。あくまでも「その個々のClに最適な」触れあいをめざすのである。

 

 そんなことがいったい可能なのだろうか。不可能である。けれども、不可能と知りつつめざすことが、不可能だからめざさないよりもはるかに質の高いものになると考えている。では、何をよりどころに最適な形を推測するのかは、この項の後半で述べることにする。

 

 

 

Ⅲ 各学派での「触れあい」方

 

 来談者中心療法における「触れあい」は、Thの「うなずき」「相づち」から始まって、Thの共感と「無条件の肯定的関心」によって、すでにある程度成立する。さらにThの純粋性に由来する「Thの自己開示」によってなされることが多い。

 

また、精神分析技法における「今ここhere and now」では、主にClがこれまでの人生で繰り返してきたパターンをThとの間でも繰り返していることを、Thへの転移を指摘することも含めて、まさにその瞬間に指摘する技法である。その意味では直面化などの解釈技法の中心となるものであるので、詳しくはこの特集の「解釈」の項に譲りたい。この解釈技法であっても、自我心理学的な精神分析における「解釈の投与」から、サリバン,H. に代表される対人関係学派やウィニコットやビオンに代表される対象関係論、さらにはKohutの自己心理学派のかなりソフトな「言葉による触れあい」と言ってもよさそうな解釈の伝え方まで、かなり幅があると言える。

 

さらに近年確立されつつある、統合的な心理療法のいくつかの中でも、触れあいは様々な言葉で重視されている。感情焦点化療法(EFT: Greenberg)では、まさに感情に焦点化していくために、「空の椅子」や「二つの椅子」の技法を使いながら、ThがリードしつつClのこれまで封印されてきた感情にまで触れていく。この際にThが共感的に肯定すること(empathic affirmations)や共感的に探索すること(empathic exploration)が重要視されている。また、精神力動的なアプローチから発展した短期力動療法の一つである加速化体験療法(AEDP: Fosha, 2000)では,面接の場の安全性を確保するために,Clを積極的に肯定すること(affirmation)を重視しながら、トラウマティックな感情に対して「そこに私(Th)といっしょに留まって!」と伝えて、十分に触れていくことで変容を促進する。さらに弁証法的行動療法(DBT: Linehan,1993)では、Validation(承認)Cheerleading(はげまし)によってClの問題行動を「これまでの経緯からすれば妥当なもの」と認めつつ、新しい行動を応援するという形で触れあっていく。

 

おそらくシステムズアプローチやその他のブリーフセラピーにおけるリフレーミングやエンパワメント(どちらも本特集の別項を参照)も、結局は触れあいながら行っているという点では触れあい技法でもある。

 

 

 

Ⅳ verbalな触れあいとnon-verbalな触れあい

 

-「アイコンタクト」「うなずき」「相づち」「沈黙」「声のトーン」「笑い」-

 

 これまで論じた理論や概念を抜きにしても、ThClが会った瞬間から、すでに視線で触れあいが始まり、Clが話し始めれば「うなずき」「相づち」の形で触れあいが進んでいく。さらに沈黙にどう対応するか、声の大きさや話すスピードによっても、触れあっているかどうかの差は截然とする。そしてそれらがうまく進んでいった後に自然な「微笑み」や「笑い」にまで到達できれば、かなり触れあえているかもしれない。これらは全て基本的にはClのスタイルに合わせるべきである。アイコンタクトは「じっと見つめてくるClには、こちらもじっと見つめて」いく。反対に目を逸らしがちなClには、Thも見つめすぎないように」することが大切である。そして「ヒソヒソ話」には「ヒソヒソ話」で応じることで、静かだが劇的な触れあいが生じることもある。

 

もちろん、描画や箱庭による触れあいや、時によっては筆談も、例外的には動作療法のような身体的な触れあいもある。いずれにしてもnon-verbalな触れあいは、とてもインパクトも影響力も大きいのにThの側は、定型化して慣れっこになっていたり無神経になっていたりする場合がある。時々、自分の面接を録音・録画して、自己チェックや仲間同士のチェックを受けるとこのような歪みが修正できる可能性があるので、お勧めする。

 

 

 

Ⅴ 添った触れあいとズラした触れあい

 

 とくにnon-verbalな触れあいは、触れあっていればいいというものではないし、「Clにぴったり添った触れあいができていればいい」ということでもない。例えば、いつもとても明るく元気よく話すClにこちらも合わせて、明るく元気よく話し続けて「先生、能天気なんですね」と言われたことがある。反対に、Clに合わせて暗く沈黙がちに対応していて「そんな暗い顔しないでください」と言われてしまったこともある。どちらの例も、このように言われること自体は悪くないし、こう言い合える関係があるということは、関係作りに成功していると言える。しかし、このように言えずに不満を募らせていって、関係が修復不能にまでなる場合もある。

 

 声のトーン、話す速度、目線、沈黙、笑い等々のすべてに関して、Clのそれに合わせつつも「合わせ過ぎない」という「意図的なずらし」も必要なのである。速くて大きなしゃべり方には、それとかけ離れない程度のゆっくりめの中くらいの声で応じる。表面的な語りには、それよりもやや深めた内容で返すなどの意図的なズラシである。同様に、あまりにも沈んだ沈黙がちのClには、それよりもやや明るめの声で、少しThの方が言葉を多めにする場合も必要だと思う。笑いに関しては、ここで短く論じるのはとても難しいが、基本的にはClの笑いについていくべきであるが、「ごまかし」でない笑いが自然に起こるようなセッションは、これこそまさに触れあいの極意と言えるだろう。

 

 

 

Ⅵ 触れあうこと、それはパンドラの箱を開けるのに似たリスクを含む

 

 ここまで述べてきたが、「触れあい」がリスクをはらんだものだということを強調しておかなくてはいけない。自己開示も「今ここで」の解釈・直面化も、non-verbalなものも、すべて下手にやったらClを傷つけたり、セラピー関係を修復不能なまでに損なうことがありうる。

 

けれども、この「触れあうこと」なしには本当の変化が生じることが難しいケースが多いのも事実である。ある女性専門職のClは、30回近いセッションを経た後にThの対応のズレに対して、Thの促しに応じてかなり厳しいTh批判を繰り広げ、その後に初めてThへの信頼感がもて、自己愛人格傾向が弱まって行った。これも、通常ならば「何もしない」はずの所で、Thがあえて触れあっていったからこそ起こった怒りであり、厳しい批判であった。

 

 このように、触れあうことはそれまでClが固く閉ざしていた心の中の「パンドラの箱」を開けることにつながり、そこには激しい怒りや深い悲しみ、雪女のような触れるものすべてを凍てつかせる恨みが秘められているかもしれない。しかし、これを開けなければ変容が訪れないなら、慎重に意図的に開いていくしかないのである。

 

 

 

Ⅶ どのようなClにどのように触れあって行くのか

 

 では、本項の本題ともいうべき「どのようなClにどのように触れあっていけばいいのか」について、簡単に解説したい。福島(20062011)においては、Clの内省力と変化への動機づけを簡単な質問でアセスメントして、それに応じて大まかに4種類の態度と技法を調整すべきであるとした。 

 

ここにごく簡単にまとめれば、内省力と動機づけのともに高いClには、受身的中立的な態度で、まさにこれまでの教科書にあるような来談者中心的あるいは精神分析的な触れあいから、洞察を促すような態度がよい。しかし、動機づけが高くとも内省力の乏しいClには、Thがリードしつつ触れあいつつ、心理教育を中心とした関わりが必要である。さらに内省力が高くとも変化への動機づけが低い場合には、Thは積極的に感情面に触れたり、Th自身の感情をある程度開示したり、「肯定的介入」でClと触れあったりしないと変化が生じない。最後に動機づけと内省力のともに低い場合には、触れあい自体が難しいが、Thの肯定的な触れあいや、時にはTh自身の失敗談や挫折体験をすら含んだ「体験の自己開示」が有効な場合もある。本特集の別項「ミラクルクエスチョン」や「リフレーミング」が特に有効なのも、この領域のClである。(2.参照)

 福島先生治療理論2 修正版

福島の統合モデルでは、これら以外にClのスピリチュアルな次元にも、響きあう領域で深めていくということも含まれている(3.参照)が、詳しくは上記の論文や著書を参照していただきたい。

 

福島先生治療理論3 

 

 

Ⅷ 今後の展開

 

筆者は、ここ数年、これまで述べてきたような「触れあい」に関して、シンプルに「ClThの心理的距離」という視点からとらえられないかを試みている。2つのスケールを、カウンセリング・ロールプレイや試行カウンセリング、さらにはカウンセリング実験の評定軸として用いて、ある程度の有効性が確認できている(樽澤・福島2015)。少なくともTh側がこのようなスケールを頭に入れて、「今ここで」の関係性への感覚を研ぎ澄ますことが何より重要と思われる。

  さらにMallinckrodt,B. et al.(2014)によって試みられているような、理想的な「治療的距離」とClのアタッチメント・スタイルとの関連を探ることによって、Clごとに異なる理想的な触れあいを提供する際の指標となるのではないかと考えている。Mallinckrodt,B. et al.によれば、治療前に回避的なアタッチメント・スタイルを示したClThの関わりを「近すぎる」ものとして知覚し、反対に治療前に不安を感じていたClThの関わりを「遠すぎる」と知覚していたという。さらに、治療の進展によって回避的だったClThに対して関わりをもつようになり、反対に治療前に不安の高かったClは、期待に反して治療後も自律性が高まっていなかったとしている。

 

 この研究はまだまだ試論の段階であり、Clのアタッチメント・スタイルや治療的距離をどのように測定するかという方法上の問題もあるが、「個々のClに最適な触れあいを探る」という点では、可能性に満ちた研究だと言える。

 

 いずれにしても、触れあい方に唯一正しい定式化された解はない。何らかの指標を持ちながら、その瞬間瞬間に最適なものを選び取っていくしかない。その意味で、「探究する姿勢」が欠かせないということを強調して、この項を終わりたい。

 

 

 

文献

 

Bion,W.R.(1970). Attention and Interpretation. Tavistock, London. Maresfield Reprints, London, 1984

 

Fosha, D. (2000). Transforming power of affect: A model of accelerated change. New York: Basic Books.

 

福島哲夫(2006)心理臨床学の基礎としての折衷・統合的心理療法-基本的態度の微調整と技法選択に関する試論-.大妻女子大学人間関係学部紀要,84961

 

福島哲夫(2011) 心理療法の3次元統合モデルの提唱より少ない抵抗と、より大きな効果を求めて

 

本サイコセラピー学会雑誌 第12巻第1 51-59

 

Greenberg LS, Rice LN, & Elliott R1993):Facilitating Emotional Change : The Moment-by-Moment Process. New York: The Guilford Press. 岩壁茂(訳)(2006):感情に働きかける面接技法-心理療法の統合的アプローチ- 誠信書房

 

生田憲正(1996)精神分析および精神分析的精神療法の実証研究(その1)-メニンガー財団精神療法研究プロジェクト-精神分析研究 第40巻、1-9.

 

カルフ,D.(1999)カルフ箱庭療法[新版](山中康裕監訳) 誠信書房

 

Mallinckrodt,B. ,Choi,G.,& Daly,K.D.(2014) Pilot test of measure to assess therapeutic distance and association with client attachment and corrective experience in therapy. Psychotherapy Research,

 

Linehan MM1993):Skills training manual for treating borderlines personality disorder. New York: Guilford Press.

 

樽澤百合・福島哲夫(2015)カウンセリング場面における聴き手の頷き量が話し手に与える影響に関する実験研究-知覚された共感性、快感情、心理的距離に注目して-.日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.

 

2018年

2月

12日

私の薦める一冊

 

「青年期精神療法」第13巻第1 p133-135.2017 掲載を修正の上、再掲。

 

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016

 

 

 

                                                スタッフ:森山

 

 

 

1.       はじめに

 

私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった

 

しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ

 

らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。

 

 

 

2.       本書について

 

 本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。

 

 

 

3.       レズ風俗、そして寂しさと自己表現

 

数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。

 

 往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。

 

 自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。

 

 今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。

 

 

 

4.       ボロボロになることで免除され、もらえる居場所

 

 著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。

 

彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。

 

 同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。

 

 

 

5.       自分から大切にされる

 

 ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。

 

 これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。

 

 このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。

 

 一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)

 

 

 

2018年

1月

03日

やられたら半返し!ー間接互恵性から考える長期的な信頼を得る方法ー

けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

 

さて、本ブログの8月の記事「I love you は突然に?」にちょこっとだけ書いたら、思いの外「もっと詳しく書いて」というご要望の多かった「やられたら半返し!」について、やっと書く時間ができました。じっくり読む時間のない人のために結論から先に書きます。

 

<結論>

「長期にわたる対人関係では、『やられたら半返し(つまり仕返しや反撃は、半分程度の量や強さにする)』というやり方が、お互いにとって最もいい結果を生む」

つまり、何も反撃しないのでもなく、かといってひところ流行った「倍返しだ!」でもなく、「半返し」が理想的な対応だという考え方です。

 

これは、基本的には、私(福島)の長期的な体験や継続的な観察から来ていますが、多くのクライエントさんたちや同僚、昔からの友人の行動パターンを見ていて導き出した一つの教訓です。

 

<具体例>

たとえば、会議や飲み会の席で、同僚Aさんからこちらに対して濡れ衣的な責任転嫁のような発言を受けたとします。その場で黙ってしまったらそれを認めたことになりかねません。かといって「そんなこと言って、Aさんこそ○○でしょ?」と倍返し的に反撃すると、その場は何とか収まってもこれを繰り返していると、長年の積み重ねでだんだんとこちらの評価も下がってきます。

 

このような場面で「いえいえ、それは違います」と穏やかに否定して、反撃まではしないというのが、ここでいう「半返し」のイメージです。あるいは、せいぜい「いいえ、それは全く違います。事実は〇〇で、その結果こうなったのです」とはっきりと根拠をあげて反論するというものです。

 

このような態度を一貫して示していけば、長期的な関係において、少しずつ周囲の評価や相手からの信頼も得られて、理不尽な責任転嫁や八つ当たり、さらにはいじめにあうリスクがどんどんと減っていきます。

 

反対に逆ギレしたり、反論もせずにそのままにしていることが続くと、評価を落とすだけでなく、かえっていじめの対象となりやすいのが日本社会の特徴です。

 

別の例としては、カップルや家族を考えてみましょう。

問題のあるカップルや家族の関係で、共通してみられる傾向の一つに「片方、あるいは誰かの一人勝ち傾向」です。

つまり、カップルや家族の中で、勢いや気持ち、あるいはお金や暴力など、何らかの形で優位に立っている人が、いつも一方的に勝ち続けて、他の人は反論さえしないかあるいは愚痴という形の口だけの不満を漏らすのみという関係です。

これまでたくさんのカップルやご家族にお会いしてきましたが、この「一人勝ち」が性別や年齢に関係なく起こるのが、このような親密な関係のおもしろいところではあります。

 

このように「一人勝ち」され続けた相手や家族は、正面から半返しすることなく、何らかの形で逃げたり、たまにブチ切れるだけで、また元の木阿弥に戻ったりする場合がとても多いのです。そして、さらには不登校やひきこもり、大人であれば浮気や借金、体調不良というかたちで反撃するという形になりかねません。

これでは、だれも幸せになれません。

 

ちなみに日本では負のエネルギーは集団内部に向かいやすいので、一度集団内で「いじめ対象」認定を受けると、どんどんその人にいじめが集中するということが起こります。これを私は「逆エントロピー現象」(本来拡散するはずのエネルギーが逆に集中していってしまうこと)とか「(対人関係における)ブラックホール現象」と勝手に名づけています。

最近の日本ではさすがに下の立場の人たちが、上の立場の特定の人をいじめるというのは稀ですが、それでも「なめる」「なめられる」という関係は発生します。それは、教師と生徒との間でも言えることです。学級崩壊やゼミ崩壊には、やはりこの半返し不足やまじギレ過剰がみられます。

そんなこんなで、これらがすべて、半返しのうまくできていないひとをめぐって起こるというのが、私の観察の結果です。

 

<間接互恵性と(処罰感情における)道徳感情論>

上記のことは、社会心理学で言われる「間接互恵性」の攻撃性バージョンと言っていいかもしれません(あるいはすでにそのような理論があるのかもしれませんが)。間接互恵性とはつまり、ある個体が利他行動(他者に親切にするなどの行動)を行った結果、その個体の評価が高まり、他者に行った利他行動が回りまわって別の他者から返ってくる仕組みのことです。これは実験や自然観察法などいろいろな形で確かめられていることです(たとえば(Kato, et al.,2013))。

 

人類は自らの生存率を上げるため、このように言葉や他者からの観察による「評判」を媒介とした協力関係システムである「間接互恵性」を進化の過程で身に着けてきたと考えるのが最近の進化心理学です。

 

この間接互恵性は「利他行動」となっていますが、これを「(理不尽な)攻撃に対する大人な反撃」の仕方としての「良い評判」を得て、回りまわって利益を得るというものが「半返し」理論ともいえます。

 

また、この間接互恵性の理論と、人間の処罰感情とを英国の経済学者アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments,1759)』とつなげて論じて、世界史上あちこちで繰り返して「格差の拡大」が広がり過ぎると必ずこの道徳感情での「正義」が否定的な形で猛威を振るって、悲惨な事件や戦争が起こるとしているユニークな論考もあります(管賀,2017)

 

<私たちの中に鬱積している怒り>

では、なぜ、数年前の半沢直樹のドラマや小説の「やられたらやり返す、倍返しだ!」があれほど好評だったのでしょうか?

これは基本的には、私たちの心の中の「勧善懲悪」の気持ちが満たされる、(水戸黄門以来の?)久々のシンプルなストーリーだったからともいえるし、最近の日本が格差の広がりをもとにした「ネガティブな道徳感情」が強まっているからとも考えています。

 

たしかに、あの小説に登場するような悪人たちには、倍返しが必要ですし、実際に世の中には巨悪と呼ばれる人物や、パワハラの尽きない、地位のある人がいるのも確かです。そのような人たちには、やはり倍返しするしかないのかもしれません。

 

でも原作者の池井戸潤さんも、本当は半返しの方が望ましいということに気づいていたのではないでしょうか?

だからこそ、主人公の名前だけは「半」を付けておいたのではないでしょうか?

 

文献

1)Kato-Shimizu Mayuko*, Onishi Kenji*, Kanazawa Tadahiro, Hinobayashi Toshihiko (2013)
Preschool children’s behavioral tendency toward social indirect reciprocity.
PLOS ONE 8(8): e70915.[DOI] 10.1371/journal.pone.0070915

[URL]http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0070915

2)管賀 江留郎道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2017)

 

以上

 

 

2017年

10月

09日

カウンセラーのセルフケアと自己点検

 

(この記事は2017年1月の「臨床心理学」17-1掲載の小論に加筆修正したものです)

 

「カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?」

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

① 基本的な考え方—すべて臨床の中で−

 

まず、基本的な大前提として、栄養と睡眠と適度な運動のバランスを日々心がけているということを確認してから、本稿をお読みいただきたい。そして、さらに男女の区別なく「ある程度の家事を手がけている」ということも大切にしたい。栄養・睡眠・運動は、例えば寿司職人が深刻な手荒れや腰痛を抱えていてはいけないのと等価である。そしてさらに寿司職人のたとえで言えば、しっかりとした師匠についてきちんと修業をしながらでないと、誇りをもって寿司を握れるようにならないのと同様、カウンセラー(以下Co)も、きちんとトレーニングを受け続けたということを前提として、セルフケアと自己点検の議論が成立する。これらの中で「家事参加」は多少奇異に思われるかもしれない。しかし、日々の家事の一切をパートナーや親族に任せてしまっているCoは、その基本的な「日常性」をリスペクトしていないということになるからである。

 

上記のような基本的なセルフケアを実践していても、さらにCoはその臨床活動の中で自信喪失や無力感・孤立感などをはじめとする困難に突き当たることがしばしばある。けれどもCoは自身の心理的困難や機能不全は盲点になりやすいとされている(Barnett, J.E. & Sarnel, D. , 2000)。それゆえCoが困難への対処法を身に付けることは、理論的学習や介入技法の習得と同様に重要であると考えられる(Guy,1987)

 

けれども筆者は、Coの困難への対処法に代表される「セルフケア」と「自己点検」は、基本的には「全て臨床活動の中でされるべき」と考えている。ケアは面接の中でクライエント(以下Cl)との適切なふれあいや協働の中で起こるはずであるし、自己点検は臨床現場におけるCo自身の振る舞いを振り返る中で十分になされる。そして、スーパーヴィジョン(以下SV)や教育分析、さらに職場内での相互研鑽という専門職としての訓練が、訓練であると同時にケアと自己点検にもなるというのがカウンセラー業務の特殊性でもあり、魅力でもある。

 

何よりも「成長の喜びが最上のケアになる」という原則を確認したい。そしてそのためにも少なくとも資格取得後10年程度は、SVとケースカンファレンスは欠かせないし、その後に教育分析を受けることを前提として、本稿を書き進めたい。このような形で訓練とケアを同時に受け、それと並行してClが少しでも良い兆候を見せたり、前向きに取り組むようになった時にCoは無上の喜びを感じ、さらに自身の成長を感じられる瞬間が最上のセルフケアであり、自己点検である。

 

このようなセルフケアと自己点検を怠らなければ、Clとの共依存やバーンアウトに陥ったりせずに、日々健やかな臨床活動ができる。

 

 

 

② 具体的な場面+解決方法

 

 横田・岩壁(2015)は、2010年に日本の臨床心理士を対象におこなった郵送調査の結果より、心理臨床家の臨床における困難は私生活における困難とはあまり関連がなく、業務における個人的な葛藤や孤立感が大きく関連していることを明らかにしている。そしてさらにその対処法として、困難を感じても対人的資源を用いていない場合が多いことが示唆されたとし、業務上の葛藤や孤立感を体験しているものへの支援方法を考えていくことが必要であると結論付けている。

 

セルフケアが必要な場面−「突然責められる」「泣きっ面に蜂現象」

 

 すでに30歳前後の頃から、夜遅くまでのカウンセリングにさほど疲れをおぼえない私を、同僚たちは「特異体質」とか「Clのエネルギーを吸い取っているのでは」などとささやいていた。そして、30代半ばに訪れたプライベートな危機的状況でも、職場では平気な顔をしてカウンセリングに励み、状況が一段落してから同僚に報告したところ「全然わからなかった」と驚かれたこともある。

 

 これらはすべて「Clと深いところでゆっくりと触れ合いながら、一緒に取り組む」という臨床的な欲求から生じた「臨床活動そのものの中でのセルフケア」だったと思う。

 

 けれども事はそう簡単ではなかった。40歳を過ぎた頃から、より困難な事例を担当するようになって、Clから責められるような場面もちらほらと出て来た。「ぶっ殺してやる!」と言い放った男性Cl。こちらに落ち度があったとは考えにくいのに急に私を責め始めた女性Cl。さらに「弁護士と相談しています」というメッセージを残して中断していった女性のケース(この方は、その後再開の申し込みがあったが)。

 

 このような時には、日々の生活が一気に暗転し、しばらくは心のほとんどがその事で占められる。そして、誰にも言えない。さらにこういう時に限って、別の職場や家庭でも全く関係のない問題や深いところでは関連があるとしか思えないような問題が勃発する。私が「泣きっ面に蜂現象」と呼び親しんでいる状況である。こんな時には「もう少しでうつ病になるんじゃないか」とすら思った事もある。そして、その事自体も誰にも言えない。

 

 けれどもやはり,これらのストレスの解消方法 は「カウンセリングセッションのなかでそのストレスに触れる・扱うこと」だった。たとえば、上記のようなClの怒りに対しては、ひたすらそれ を浴び続けるだけだったり、心のなかで拒絶したり反論反撃するのではなく、きちんと言葉にしてClとともに向き合う必要がある。その具体的な手法に関して詳しくは、髙岡・糟谷・福島(2013)にて分析考察したが、Clの怒りや依存、その他の転移的感情に関しては、可能な範囲でしっかりと向き合い、話し合い、その後のカウンセリングの課題とすることで、お互いの納得感や成長やケ アにつながる。

 

それは1990年代から欧米で盛ん に研究されているtherapeutic alliance rapture(作業同盟の亀裂)に関する研究からも同様のことが言える(たとえばSafran & Muran, 1996)。これらの研究からも作業同盟や治療関係がギクシャ クした時に、うまく修復できると治療効果が上がることが実証されているが、この時、同時にCo も癒されていることは経験から言って疑いない。

 

このように臨床における困難の最善の解決方法は「ひたすら臨床をすること」だ。どうせ趣味やレジャーに自分を向けてみても、楽しめはしない。ひたすら臨床をし、そして考えて考える。それのみが解決で、成長につながる。

 

あるいはもうひとつは日常生活に献身する事だ。たとえば、トイレ掃除をしてトイレの神様に献身するのもいい。おいしいご飯を炊いてお米の神様(かまどの神様?)に感謝するのもいいかもしれない。この際、私に限って言えばあまり超越的な神様は助けにならない。せめて仏教の「全ては縁(関係性)で成り立っている」という「縁起観」や「始まりも終わりもなく刹那滅(生じては滅し滅しては生じる)する」という世界観の方が助けになる。

 

 

 

自己点検が必要な場面−Co自身の課題やトラウマ、躁状態、うつ状態

 

 Coももちろん人間なので、自身の課題やトラウマを抱えている。そして時に躁状態やうつ状態になることもある。これらに関しては、常日頃の自己点検が欠かせない。そして、その出発点となるのは、やはり臨床活動だ。複数のClがいつもと違った動きをしていたら、その原因はこちらにある可能性が高い。セッション内で自分でも少し変だと思われる発言をしていたら、やはり自分が普段と違うと考えた方がいい。そしてその次に大切なのがSVと教育分析である。①にも書いたように自身の成長を感じられる事が何よりのケアとなるという原理は、この領域特有のものであるし、ストレスに意味が見いだされれば、それはすでにストレスではなくなる。

 

 

 

③ 考えられる困難と課題

 

それでも辛かったら、SVか同僚か薬を

 

 けれども、上記のような対応は、やはり私の特異体質ゆえかもしれない。同年代つまり臨床経験30年前後の臨床心理士に聞いてみると、すでに体を壊した事のある人や、現在うつ状態の人もいる。よく聴くとやはり仕事のストレスを溜め込みすぎていたようだ。そして私のような特異体質以外に、ストレスを感じながらも持ちこたえている同年代に二つのタイプがある。一つは、同僚とのおしゃべりで発散しているタイプである。毎日、臨床の仕事が終わった後に、お菓子を食べながらひとしきりおしゃべりをしながら1時間ほど同僚と過ごしてから帰る事で、とても解放されていると言う。これは同僚に恵まれないとできないが、それさえ叶うならとても有効なやり方だと思う。

 

 もう一つのタイプは、睡眠薬や抗うつ薬を(時々)服用しているというタイプである。こちらは、Clに服薬をお勧めする事がある我々としてはとても理にかなった方法でもあるし、薬の効果と副作用についても実体験できるいい方法だ。私も国際学会のための出張の際や帰国後には、睡眠導入剤を服用しているが、副作用や反跳性不眠(リバウンド:服薬をやめた時に不眠になること)なども体験できて、その辛さも含めてとても学ぶ事が多い。

 

 

 

自分の不安と個人主義志向に合った職場を

 

 不安が高く同僚や上司たちと一緒に仕事を進めていきたいタイプと、個人主義志向が強く、できるだけ一人で仕事を進めていきたいと思っている人の両方のタイプがこの業界にはいて、そのそれぞれにふさわしい職場がある。前者は、やはりチームワークの求められる職場で、さらにそれがうまく機能しているところが理想であるし、後者の傾向が高い人はできるだけ少人数の、例えば個人もしくは共同開業がふさわしい。

 

 

 

自身の弱さを生かす勇気

 

 では、私たちを折れなくするために必要なのは勇気なのだろうか。そうかも知れない。けれども我々心理臨床家の勇気は、一般の勇気とは少し違うと思っている。それは「自分の弱さを使う勇気」「弱さを使って勝負する勇気」と言うと少し分かりやすくなるもしれない。それは私たちのコンプレックスや弱点を「敏感な感覚器」として使ったり、弱点を通じてClの痛みを理解したり、さらには弱さから逃げない姿勢をClに見せる事によって、Clと通じたりClのモデルになったりするのである。そして、そうすることを通じて、私たちの弱さは、その弱さのままで強みに変わる。

 

 

 

毒あるいはネガティブなエネルギー

 

 いや、臨床家の折れない心の元は「毒」かもしれない。私を含めて私の周りの心が折れない臨床家の共通点は「毒舌家」だという点につきる。しかも、それは決して「悪口や誹謗中傷」ではなくて「真実をついた毒舌」である。そして、反対にストレスを貯めてしまっている臨床家の共通点は、この毒が少し足りないという点かもしれない。この毒はClに直接向かうものでもないし、Clについて毒舌的な陰口を言う訳でもない。けれども、ある意味「毒」を吐くのがClのそもそもの営為だと考えると、そのClの毒を、Coの毒で中和するようなところがあるのかもしれない。私に限って言えば、Clに会わないお盆や正月は、自身の毒が中和されずに自分を駆け巡って、ややうつ状態になる。

 

 そういえば、ある有名な精神科医は「私の原動力は怒りです」とおっしゃっている。つまり子を虐げる親、そしてそれをうまくケアできていない現在の日本のシステムに対する怒りを原動力としているというのである。これもある種の強さにつながる「毒」と言っていいのかもしれない。

 

 

 

魂の鍛錬と上昇

 

 もう少し踏み込んだ議論をしよう。ユング派のヒルマン,J.は「魂という視座」という形で世界やものの見方の中に「魂」という視点を取り込む事の有用性を主張した。たしかに私たちの仕事であるカウンセリングや心理臨床は、この魂という視点を持つ事でのみ説明可能な瞬間や領域がある。それは単なる欲求や動機付けという言葉では説明しきれない、理性を超えた何らかの志向性に近い。そして、魂という視座を持った時に初めて、私たちがなぜ心理臨床家になったのか、心理臨床家を目指しているのかがおぼろげながらに分かってくるのではないだろうか。そしてそれらを理解したうえで「魂を洗練・鍛錬していく」必要がある。そういう視点に立つと、Clから投げかけられた無理難題も理不尽な責め言葉も、「魂の鍛錬」として有用と思えるのではないだろうか。

 

 

 

私たちは何を求め、何を奉仕しているのか

 

 緩和ケアや終末期臨床に携わっている同僚たちは、「このような尊い場面に立ち会わせていただく幸せ」を感じると言う。さらには被害者支援に取り組んでいる同僚は「Clがズタズタにされた尊厳を、少しずつ取り戻していく場面に立ち会う尊さ」を口にする。私たちはこのように、単なる「社会適応」や「効率性」ではなく、「尊厳」や「尊さ」を求め、それに向かって地道に取り組む「日常性」を信奉しているのではないだろうか。最終的にはこの辺りを明確にすることで、真のセルフケアは成立すると考えている。

 

 

 

文献

 

Barnett, J.E. & Sarnel, D. (June, 2000). No time for self-care? 42 Online. The online journal of Psychologists in Independent Practice, a division of the American Psychological Association. Available at http://www.division42.org/

 

Guy (1987).The Personal Life of the Psychotherapist. John Wiley & Sons: New York

 

Safran, J. D., & Muran, C. (1996). The resolution of tuptures in the therapeutic alliance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64, 447-458.

 

髙岡昂太、糟谷寛子、福島哲夫(2013) 怒りを表出したクライエントへの治療的対応に関するプロセス研究—課題分析を応用した合議制質的研究法による実践的対応モデルの生成—臨床心理学. 第13巻第3 号391-400.

 

横田悠木・岩壁茂(2015)心理臨床家の実践をめぐる困難に関する調査研究. 日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.322

 

2017年

8月

14日

公認心理師パブリックコメント

専門家、非専門家に限らず、広くご意見をお出し下さい。

公認心理師パブリックコメントが8月16日の締め切りとなっております。

 

国民の福祉に大きな影響がある施策となりますので、ぜひご意見をお出し下さい。

 

私は、以下のような内容を提出しました。

 

*********

国民が安心して質の高い心のケアなどの臨床心理サービスを受けられるように以下の点を要望します。

 

1.主治医の指示は真に必要な場合のみに:
主治医とカウンセラーが同一機関内に所属していない場合、クライエント(未成年の場合は保護者)の同意があった上で、指示をはじめて受けることが可能となること、緊急時で主治医の指示を受けることが難しい場合、1回のみの相談の場合、学生相談、スクールカウンセリングなどでは主治医の指示を得てからというのは現実的ではないので除外してほしい。
医学モデルと臨床心理学モデルは異なり、対等で独立したものであることがクライエントの福祉に寄与するものです。

 

2.経過措置の対象(現任者)を限定してほしい:
経過措置の対象が非常に幅広く解釈できるが、それでは結果的に心理臨床職とはいいがたい、非常に低いレベルの資格になっており、国民の福祉にかなうものではない。経過措置の対象を「心理臨床業務従事者」に限定してほしい。

 

3.実務経験3年以上に:
学部だけで大学院に進まない場合の実務経験を3年としてほしい。こころという重要な事柄を扱う上で最低限の年限を確保することが国としての責務です。

 

以上

*********

提出先は以下です。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495170114&Mode=0

2017年

8月

05日

I love youは突然に?ー甘えと攻撃は予告が必要!ー

このタイトル、なんか、J-POPの歌か小説のタイトルみたいですね。実際、小田和正さんの昔の歌に「ラブ・ストーリーは突然に」という名曲があります。このまんまのタイトルのネット小説はあるみたいですしね。

 

でも、今回の本題はサブタイトルにあります。

そう「依存と攻撃は予告してからでないと逆効果や悪循環を生む」というのが、今回の趣旨です。(甘えというのは、精神分析用語として特別の意味がありますので、今回タイトルのみに使用しました)

 

さらに言えば「依存と攻撃は、予告して了解を得てからしましょう!」という提案です。

 

前回の(2017年4月1日掲載)ブログに「あごうたオッケー!」のお勧めを書きました。

これは「ありがとう、ごめんなさい、うれしい、助かる、(頼み事や約束事は)オッケー!」の頭文字を取って、夫婦の円満の秘訣を伝えたものです。そしてはじめの2つは心を込めて言わないと逆効果だけれど、あとの3つはとりあえず言うだけでも効果抜群という話でした。

 

反響は色々とあったのですが、その中の何人かの方からあったのが、「理不尽なお願いをされても『オッケー!』って言わないといけないんですか?」「本当はありがたくないことも『ありがとう!』って感謝しないといけないんですか?」という質問でした。

 

これはもちろん違います。

「それはちょっと困ります」とか「それは、今は要りません」といういわゆるアサーション(柔らかな主張・自他尊重の自己表現)は、「あごうたオッケー!」と同じくらい、いやそれ以上に大切です。

ちなみに、最近の若い人たちがよく使う「大丈夫です」という断り言葉は、年配の僕にはその意味で使うことに抵抗があるし、「これ食べる?」という質問に「大丈夫です」と言われると、聞き返して確かめないといられないという意味で、居心地の悪い曖昧表現です。

 

さて、本題の依存と攻撃です。

親密な関係においては、突然の攻撃が良くないのは誰でも分かりますよね。反対に親密でないなら奇襲作戦や先制攻撃というのは、意味があるかもしれませんね。でも、親密でなくても、今後長いつきあいが続く相手には、避けるにこしたことはありませんが。

 

(余談ですが、大学教員も決して親密でなくても、下手をすると20年以上同僚関係が続きますので、奇襲や先制はいけません。僕は数年前に流行った「倍返し」ではなくて「やられたら半返し」をモットーにやってきて、人望とやりやすさを勝ち得ました)

 

親密な関係における依存と攻撃は、いきなりやると手痛い拒否やしっぺ返しを受けることがあります。それは瞬時の拒否や反撃というわかりやすいものから、その場はうまくいったように思えても、数日後に仕返しをもらうこともあります。

さらには、長期間にわたる支配や抵抗、心理的引きこもりという反撃にあうことさえあります。

そうすると、そのような反撃にあった方は、さらに仕返しに出るか大きな苦悩を味わうということになりがちです。これが悪循環の典型です。

 

カウンセリングでいろいろなご夫婦にお会いしていると、配偶者の浮気や身体的な訴え(心身症の場合も慢性疾患や時にはガンでさえ)も、もう片方の配偶者の依存や攻撃に対する反撃なのではないか、少なくともそのストレスで出ているのではないかとさえ思える場合が少なくありません。

 

もちろん、長期的な影響の最大のものが「子どもへの悪影響」であることは、このブログを読まれる方ならもうおわかりだと思います。

 

なので、ここで提案です。

 

「愛の告白は突然でもいいけれど、依存と攻撃は相手の了解を得てからやりましょう!」

具体的には「今、ちょっといい?」「あのーお願いがあるんだけど」と言って了解を取ってから甘える。

「ちょっと話があるんだけれど、今いいかな?」「大事なお話があります。時間をとれそうになったら言って下さい」などと予告して、相手にその覚悟ができてから攻撃する。

 

です。

 

もちろん攻撃は素直に正面から、建設的にというのが理想です。

 

依存に関する予告と了解取り付けは、医療やヒト対象の研究の用語を借りて「インフォームドコンセント(説明と同意による)甘え」と呼んでいます。

攻撃に関する予告と了解取り付けは、戦争用語を借りれば「宣戦布告つき正面攻撃」でしょうか。でも、正面攻撃というのは激しすぎるかもしれないので「予告つき限定攻撃」の方がいいかもしれません。

「もう1回やったら怒るからね」というのも、本当に実行されるならこの予告つき限定攻撃にあたります。

 

この際大切なのが、予告して断られたら、少し待つ。そしてその条件が整ったら必ず実行するということです。

予告したのに実行されなかったら「ナアナア」か「疎遠なまま」の関係になって、どちらかの都合のいい関係になります。

 

以上のようなことを心がけていただくことによって、幸せなカップル、家庭、親子が増えることが、私の祈りです。

 

(完)

2018年

2月

12日

私の薦める一冊

 

「青年期精神療法」第13巻第1 p133-135.2017 掲載を修正の上、再掲。

 

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016

 

 

 

                                                スタッフ:森山

 

 

 

1.       はじめに

 

私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった

 

しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ

 

らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。

 

 

 

2.       本書について

 

 本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。

 

 

 

3.       レズ風俗、そして寂しさと自己表現

 

数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。

 

 往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。

 

 自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。

 

 今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。

 

 

 

4.       ボロボロになることで免除され、もらえる居場所

 

 著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。

 

彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。

 

 同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。

 

 

 

5.       自分から大切にされる

 

 ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。

 

 これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。

 

 このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。

 

 一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)

 

 

 

2018年

1月

03日

やられたら半返し!ー間接互恵性から考える長期的な信頼を得る方法ー

けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

 

さて、本ブログの8月の記事「I love you は突然に?」にちょこっとだけ書いたら、思いの外「もっと詳しく書いて」というご要望の多かった「やられたら半返し!」について、やっと書く時間ができました。じっくり読む時間のない人のために結論から先に書きます。

 

<結論>

「長期にわたる対人関係では、『やられたら半返し(つまり仕返しや反撃は、半分程度の量や強さにする)』というやり方が、お互いにとって最もいい結果を生む」

つまり、何も反撃しないのでもなく、かといってひところ流行った「倍返しだ!」でもなく、「半返し」が理想的な対応だという考え方です。

 

これは、基本的には、私(福島)の長期的な体験や継続的な観察から来ていますが、多くのクライエントさんたちや同僚、昔からの友人の行動パターンを見ていて導き出した一つの教訓です。

 

<具体例>

たとえば、会議や飲み会の席で、同僚Aさんからこちらに対して濡れ衣的な責任転嫁のような発言を受けたとします。その場で黙ってしまったらそれを認めたことになりかねません。かといって「そんなこと言って、Aさんこそ○○でしょ?」と倍返し的に反撃すると、その場は何とか収まってもこれを繰り返していると、長年の積み重ねでだんだんとこちらの評価も下がってきます。

 

このような場面で「いえいえ、それは違います」と穏やかに否定して、反撃まではしないというのが、ここでいう「半返し」のイメージです。あるいは、せいぜい「いいえ、それは全く違います。事実は〇〇で、その結果こうなったのです」とはっきりと根拠をあげて反論するというものです。

 

このような態度を一貫して示していけば、長期的な関係において、少しずつ周囲の評価や相手からの信頼も得られて、理不尽な責任転嫁や八つ当たり、さらにはいじめにあうリスクがどんどんと減っていきます。

 

反対に逆ギレしたり、反論もせずにそのままにしていることが続くと、評価を落とすだけでなく、かえっていじめの対象となりやすいのが日本社会の特徴です。

 

別の例としては、カップルや家族を考えてみましょう。

問題のあるカップルや家族の関係で、共通してみられる傾向の一つに「片方、あるいは誰かの一人勝ち傾向」です。

つまり、カップルや家族の中で、勢いや気持ち、あるいはお金や暴力など、何らかの形で優位に立っている人が、いつも一方的に勝ち続けて、他の人は反論さえしないかあるいは愚痴という形の口だけの不満を漏らすのみという関係です。

これまでたくさんのカップルやご家族にお会いしてきましたが、この「一人勝ち」が性別や年齢に関係なく起こるのが、このような親密な関係のおもしろいところではあります。

 

このように「一人勝ち」され続けた相手や家族は、正面から半返しすることなく、何らかの形で逃げたり、たまにブチ切れるだけで、また元の木阿弥に戻ったりする場合がとても多いのです。そして、さらには不登校やひきこもり、大人であれば浮気や借金、体調不良というかたちで反撃するという形になりかねません。

これでは、だれも幸せになれません。

 

ちなみに日本では負のエネルギーは集団内部に向かいやすいので、一度集団内で「いじめ対象」認定を受けると、どんどんその人にいじめが集中するということが起こります。これを私は「逆エントロピー現象」(本来拡散するはずのエネルギーが逆に集中していってしまうこと)とか「(対人関係における)ブラックホール現象」と勝手に名づけています。

最近の日本ではさすがに下の立場の人たちが、上の立場の特定の人をいじめるというのは稀ですが、それでも「なめる」「なめられる」という関係は発生します。それは、教師と生徒との間でも言えることです。学級崩壊やゼミ崩壊には、やはりこの半返し不足やまじギレ過剰がみられます。

そんなこんなで、これらがすべて、半返しのうまくできていないひとをめぐって起こるというのが、私の観察の結果です。

 

<間接互恵性と(処罰感情における)道徳感情論>

上記のことは、社会心理学で言われる「間接互恵性」の攻撃性バージョンと言っていいかもしれません(あるいはすでにそのような理論があるのかもしれませんが)。間接互恵性とはつまり、ある個体が利他行動(他者に親切にするなどの行動)を行った結果、その個体の評価が高まり、他者に行った利他行動が回りまわって別の他者から返ってくる仕組みのことです。これは実験や自然観察法などいろいろな形で確かめられていることです(たとえば(Kato, et al.,2013))。

 

人類は自らの生存率を上げるため、このように言葉や他者からの観察による「評判」を媒介とした協力関係システムである「間接互恵性」を進化の過程で身に着けてきたと考えるのが最近の進化心理学です。

 

この間接互恵性は「利他行動」となっていますが、これを「(理不尽な)攻撃に対する大人な反撃」の仕方としての「良い評判」を得て、回りまわって利益を得るというものが「半返し」理論ともいえます。

 

また、この間接互恵性の理論と、人間の処罰感情とを英国の経済学者アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments,1759)』とつなげて論じて、世界史上あちこちで繰り返して「格差の拡大」が広がり過ぎると必ずこの道徳感情での「正義」が否定的な形で猛威を振るって、悲惨な事件や戦争が起こるとしているユニークな論考もあります(管賀,2017)

 

<私たちの中に鬱積している怒り>

では、なぜ、数年前の半沢直樹のドラマや小説の「やられたらやり返す、倍返しだ!」があれほど好評だったのでしょうか?

これは基本的には、私たちの心の中の「勧善懲悪」の気持ちが満たされる、(水戸黄門以来の?)久々のシンプルなストーリーだったからともいえるし、最近の日本が格差の広がりをもとにした「ネガティブな道徳感情」が強まっているからとも考えています。

 

たしかに、あの小説に登場するような悪人たちには、倍返しが必要ですし、実際に世の中には巨悪と呼ばれる人物や、パワハラの尽きない、地位のある人がいるのも確かです。そのような人たちには、やはり倍返しするしかないのかもしれません。

 

でも原作者の池井戸潤さんも、本当は半返しの方が望ましいということに気づいていたのではないでしょうか?

だからこそ、主人公の名前だけは「半」を付けておいたのではないでしょうか?

 

文献

1)Kato-Shimizu Mayuko*, Onishi Kenji*, Kanazawa Tadahiro, Hinobayashi Toshihiko (2013)
Preschool children’s behavioral tendency toward social indirect reciprocity.
PLOS ONE 8(8): e70915.[DOI] 10.1371/journal.pone.0070915

[URL]http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0070915

2)管賀 江留郎道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2017)

 

以上

 

 

2017年

10月

09日

カウンセラーのセルフケアと自己点検

 

(この記事は2017年1月の「臨床心理学」17-1掲載の小論に加筆修正したものです)

 

「カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?」

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

① 基本的な考え方—すべて臨床の中で−

 

まず、基本的な大前提として、栄養と睡眠と適度な運動のバランスを日々心がけているということを確認してから、本稿をお読みいただきたい。そして、さらに男女の区別なく「ある程度の家事を手がけている」ということも大切にしたい。栄養・睡眠・運動は、例えば寿司職人が深刻な手荒れや腰痛を抱えていてはいけないのと等価である。そしてさらに寿司職人のたとえで言えば、しっかりとした師匠についてきちんと修業をしながらでないと、誇りをもって寿司を握れるようにならないのと同様、カウンセラー(以下Co)も、きちんとトレーニングを受け続けたということを前提として、セルフケアと自己点検の議論が成立する。これらの中で「家事参加」は多少奇異に思われるかもしれない。しかし、日々の家事の一切をパートナーや親族に任せてしまっているCoは、その基本的な「日常性」をリスペクトしていないということになるからである。

 

上記のような基本的なセルフケアを実践していても、さらにCoはその臨床活動の中で自信喪失や無力感・孤立感などをはじめとする困難に突き当たることがしばしばある。けれどもCoは自身の心理的困難や機能不全は盲点になりやすいとされている(Barnett, J.E. & Sarnel, D. , 2000)。それゆえCoが困難への対処法を身に付けることは、理論的学習や介入技法の習得と同様に重要であると考えられる(Guy,1987)

 

けれども筆者は、Coの困難への対処法に代表される「セルフケア」と「自己点検」は、基本的には「全て臨床活動の中でされるべき」と考えている。ケアは面接の中でクライエント(以下Cl)との適切なふれあいや協働の中で起こるはずであるし、自己点検は臨床現場におけるCo自身の振る舞いを振り返る中で十分になされる。そして、スーパーヴィジョン(以下SV)や教育分析、さらに職場内での相互研鑽という専門職としての訓練が、訓練であると同時にケアと自己点検にもなるというのがカウンセラー業務の特殊性でもあり、魅力でもある。

 

何よりも「成長の喜びが最上のケアになる」という原則を確認したい。そしてそのためにも少なくとも資格取得後10年程度は、SVとケースカンファレンスは欠かせないし、その後に教育分析を受けることを前提として、本稿を書き進めたい。このような形で訓練とケアを同時に受け、それと並行してClが少しでも良い兆候を見せたり、前向きに取り組むようになった時にCoは無上の喜びを感じ、さらに自身の成長を感じられる瞬間が最上のセルフケアであり、自己点検である。

 

このようなセルフケアと自己点検を怠らなければ、Clとの共依存やバーンアウトに陥ったりせずに、日々健やかな臨床活動ができる。

 

 

 

② 具体的な場面+解決方法

 

 横田・岩壁(2015)は、2010年に日本の臨床心理士を対象におこなった郵送調査の結果より、心理臨床家の臨床における困難は私生活における困難とはあまり関連がなく、業務における個人的な葛藤や孤立感が大きく関連していることを明らかにしている。そしてさらにその対処法として、困難を感じても対人的資源を用いていない場合が多いことが示唆されたとし、業務上の葛藤や孤立感を体験しているものへの支援方法を考えていくことが必要であると結論付けている。

 

セルフケアが必要な場面−「突然責められる」「泣きっ面に蜂現象」

 

 すでに30歳前後の頃から、夜遅くまでのカウンセリングにさほど疲れをおぼえない私を、同僚たちは「特異体質」とか「Clのエネルギーを吸い取っているのでは」などとささやいていた。そして、30代半ばに訪れたプライベートな危機的状況でも、職場では平気な顔をしてカウンセリングに励み、状況が一段落してから同僚に報告したところ「全然わからなかった」と驚かれたこともある。

 

 これらはすべて「Clと深いところでゆっくりと触れ合いながら、一緒に取り組む」という臨床的な欲求から生じた「臨床活動そのものの中でのセルフケア」だったと思う。

 

 けれども事はそう簡単ではなかった。40歳を過ぎた頃から、より困難な事例を担当するようになって、Clから責められるような場面もちらほらと出て来た。「ぶっ殺してやる!」と言い放った男性Cl。こちらに落ち度があったとは考えにくいのに急に私を責め始めた女性Cl。さらに「弁護士と相談しています」というメッセージを残して中断していった女性のケース(この方は、その後再開の申し込みがあったが)。

 

 このような時には、日々の生活が一気に暗転し、しばらくは心のほとんどがその事で占められる。そして、誰にも言えない。さらにこういう時に限って、別の職場や家庭でも全く関係のない問題や深いところでは関連があるとしか思えないような問題が勃発する。私が「泣きっ面に蜂現象」と呼び親しんでいる状況である。こんな時には「もう少しでうつ病になるんじゃないか」とすら思った事もある。そして、その事自体も誰にも言えない。

 

 けれどもやはり,これらのストレスの解消方法 は「カウンセリングセッションのなかでそのストレスに触れる・扱うこと」だった。たとえば、上記のようなClの怒りに対しては、ひたすらそれ を浴び続けるだけだったり、心のなかで拒絶したり反論反撃するのではなく、きちんと言葉にしてClとともに向き合う必要がある。その具体的な手法に関して詳しくは、髙岡・糟谷・福島(2013)にて分析考察したが、Clの怒りや依存、その他の転移的感情に関しては、可能な範囲でしっかりと向き合い、話し合い、その後のカウンセリングの課題とすることで、お互いの納得感や成長やケ アにつながる。

 

それは1990年代から欧米で盛ん に研究されているtherapeutic alliance rapture(作業同盟の亀裂)に関する研究からも同様のことが言える(たとえばSafran & Muran, 1996)。これらの研究からも作業同盟や治療関係がギクシャ クした時に、うまく修復できると治療効果が上がることが実証されているが、この時、同時にCo も癒されていることは経験から言って疑いない。

 

このように臨床における困難の最善の解決方法は「ひたすら臨床をすること」だ。どうせ趣味やレジャーに自分を向けてみても、楽しめはしない。ひたすら臨床をし、そして考えて考える。それのみが解決で、成長につながる。

 

あるいはもうひとつは日常生活に献身する事だ。たとえば、トイレ掃除をしてトイレの神様に献身するのもいい。おいしいご飯を炊いてお米の神様(かまどの神様?)に感謝するのもいいかもしれない。この際、私に限って言えばあまり超越的な神様は助けにならない。せめて仏教の「全ては縁(関係性)で成り立っている」という「縁起観」や「始まりも終わりもなく刹那滅(生じては滅し滅しては生じる)する」という世界観の方が助けになる。

 

 

 

自己点検が必要な場面−Co自身の課題やトラウマ、躁状態、うつ状態

 

 Coももちろん人間なので、自身の課題やトラウマを抱えている。そして時に躁状態やうつ状態になることもある。これらに関しては、常日頃の自己点検が欠かせない。そして、その出発点となるのは、やはり臨床活動だ。複数のClがいつもと違った動きをしていたら、その原因はこちらにある可能性が高い。セッション内で自分でも少し変だと思われる発言をしていたら、やはり自分が普段と違うと考えた方がいい。そしてその次に大切なのがSVと教育分析である。①にも書いたように自身の成長を感じられる事が何よりのケアとなるという原理は、この領域特有のものであるし、ストレスに意味が見いだされれば、それはすでにストレスではなくなる。

 

 

 

③ 考えられる困難と課題

 

それでも辛かったら、SVか同僚か薬を

 

 けれども、上記のような対応は、やはり私の特異体質ゆえかもしれない。同年代つまり臨床経験30年前後の臨床心理士に聞いてみると、すでに体を壊した事のある人や、現在うつ状態の人もいる。よく聴くとやはり仕事のストレスを溜め込みすぎていたようだ。そして私のような特異体質以外に、ストレスを感じながらも持ちこたえている同年代に二つのタイプがある。一つは、同僚とのおしゃべりで発散しているタイプである。毎日、臨床の仕事が終わった後に、お菓子を食べながらひとしきりおしゃべりをしながら1時間ほど同僚と過ごしてから帰る事で、とても解放されていると言う。これは同僚に恵まれないとできないが、それさえ叶うならとても有効なやり方だと思う。

 

 もう一つのタイプは、睡眠薬や抗うつ薬を(時々)服用しているというタイプである。こちらは、Clに服薬をお勧めする事がある我々としてはとても理にかなった方法でもあるし、薬の効果と副作用についても実体験できるいい方法だ。私も国際学会のための出張の際や帰国後には、睡眠導入剤を服用しているが、副作用や反跳性不眠(リバウンド:服薬をやめた時に不眠になること)なども体験できて、その辛さも含めてとても学ぶ事が多い。

 

 

 

自分の不安と個人主義志向に合った職場を

 

 不安が高く同僚や上司たちと一緒に仕事を進めていきたいタイプと、個人主義志向が強く、できるだけ一人で仕事を進めていきたいと思っている人の両方のタイプがこの業界にはいて、そのそれぞれにふさわしい職場がある。前者は、やはりチームワークの求められる職場で、さらにそれがうまく機能しているところが理想であるし、後者の傾向が高い人はできるだけ少人数の、例えば個人もしくは共同開業がふさわしい。

 

 

 

自身の弱さを生かす勇気

 

 では、私たちを折れなくするために必要なのは勇気なのだろうか。そうかも知れない。けれども我々心理臨床家の勇気は、一般の勇気とは少し違うと思っている。それは「自分の弱さを使う勇気」「弱さを使って勝負する勇気」と言うと少し分かりやすくなるもしれない。それは私たちのコンプレックスや弱点を「敏感な感覚器」として使ったり、弱点を通じてClの痛みを理解したり、さらには弱さから逃げない姿勢をClに見せる事によって、Clと通じたりClのモデルになったりするのである。そして、そうすることを通じて、私たちの弱さは、その弱さのままで強みに変わる。

 

 

 

毒あるいはネガティブなエネルギー

 

 いや、臨床家の折れない心の元は「毒」かもしれない。私を含めて私の周りの心が折れない臨床家の共通点は「毒舌家」だという点につきる。しかも、それは決して「悪口や誹謗中傷」ではなくて「真実をついた毒舌」である。そして、反対にストレスを貯めてしまっている臨床家の共通点は、この毒が少し足りないという点かもしれない。この毒はClに直接向かうものでもないし、Clについて毒舌的な陰口を言う訳でもない。けれども、ある意味「毒」を吐くのがClのそもそもの営為だと考えると、そのClの毒を、Coの毒で中和するようなところがあるのかもしれない。私に限って言えば、Clに会わないお盆や正月は、自身の毒が中和されずに自分を駆け巡って、ややうつ状態になる。

 

 そういえば、ある有名な精神科医は「私の原動力は怒りです」とおっしゃっている。つまり子を虐げる親、そしてそれをうまくケアできていない現在の日本のシステムに対する怒りを原動力としているというのである。これもある種の強さにつながる「毒」と言っていいのかもしれない。

 

 

 

魂の鍛錬と上昇

 

 もう少し踏み込んだ議論をしよう。ユング派のヒルマン,J.は「魂という視座」という形で世界やものの見方の中に「魂」という視点を取り込む事の有用性を主張した。たしかに私たちの仕事であるカウンセリングや心理臨床は、この魂という視点を持つ事でのみ説明可能な瞬間や領域がある。それは単なる欲求や動機付けという言葉では説明しきれない、理性を超えた何らかの志向性に近い。そして、魂という視座を持った時に初めて、私たちがなぜ心理臨床家になったのか、心理臨床家を目指しているのかがおぼろげながらに分かってくるのではないだろうか。そしてそれらを理解したうえで「魂を洗練・鍛錬していく」必要がある。そういう視点に立つと、Clから投げかけられた無理難題も理不尽な責め言葉も、「魂の鍛錬」として有用と思えるのではないだろうか。

 

 

 

私たちは何を求め、何を奉仕しているのか

 

 緩和ケアや終末期臨床に携わっている同僚たちは、「このような尊い場面に立ち会わせていただく幸せ」を感じると言う。さらには被害者支援に取り組んでいる同僚は「Clがズタズタにされた尊厳を、少しずつ取り戻していく場面に立ち会う尊さ」を口にする。私たちはこのように、単なる「社会適応」や「効率性」ではなく、「尊厳」や「尊さ」を求め、それに向かって地道に取り組む「日常性」を信奉しているのではないだろうか。最終的にはこの辺りを明確にすることで、真のセルフケアは成立すると考えている。

 

 

 

文献

 

Barnett, J.E. & Sarnel, D. (June, 2000). No time for self-care? 42 Online. The online journal of Psychologists in Independent Practice, a division of the American Psychological Association. Available at http://www.division42.org/

 

Guy (1987).The Personal Life of the Psychotherapist. John Wiley & Sons: New York

 

Safran, J. D., & Muran, C. (1996). The resolution of tuptures in the therapeutic alliance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64, 447-458.

 

髙岡昂太、糟谷寛子、福島哲夫(2013) 怒りを表出したクライエントへの治療的対応に関するプロセス研究—課題分析を応用した合議制質的研究法による実践的対応モデルの生成—臨床心理学. 第13巻第3 号391-400.

 

横田悠木・岩壁茂(2015)心理臨床家の実践をめぐる困難に関する調査研究. 日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.322

 

2017年

8月

14日

公認心理師パブリックコメント

専門家、非専門家に限らず、広くご意見をお出し下さい。

公認心理師パブリックコメントが8月16日の締め切りとなっております。

 

国民の福祉に大きな影響がある施策となりますので、ぜひご意見をお出し下さい。

 

私は、以下のような内容を提出しました。

 

*********

国民が安心して質の高い心のケアなどの臨床心理サービスを受けられるように以下の点を要望します。

 

1.主治医の指示は真に必要な場合のみに:
主治医とカウンセラーが同一機関内に所属していない場合、クライエント(未成年の場合は保護者)の同意があった上で、指示をはじめて受けることが可能となること、緊急時で主治医の指示を受けることが難しい場合、1回のみの相談の場合、学生相談、スクールカウンセリングなどでは主治医の指示を得てからというのは現実的ではないので除外してほしい。
医学モデルと臨床心理学モデルは異なり、対等で独立したものであることがクライエントの福祉に寄与するものです。

 

2.経過措置の対象(現任者)を限定してほしい:
経過措置の対象が非常に幅広く解釈できるが、それでは結果的に心理臨床職とはいいがたい、非常に低いレベルの資格になっており、国民の福祉にかなうものではない。経過措置の対象を「心理臨床業務従事者」に限定してほしい。

 

3.実務経験3年以上に:
学部だけで大学院に進まない場合の実務経験を3年としてほしい。こころという重要な事柄を扱う上で最低限の年限を確保することが国としての責務です。

 

以上

*********

提出先は以下です。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495170114&Mode=0

2017年

8月

05日

I love youは突然に?ー甘えと攻撃は予告が必要!ー

このタイトル、なんか、J-POPの歌か小説のタイトルみたいですね。実際、小田和正さんの昔の歌に「ラブ・ストーリーは突然に」という名曲があります。このまんまのタイトルのネット小説はあるみたいですしね。

 

でも、今回の本題はサブタイトルにあります。

そう「依存と攻撃は予告してからでないと逆効果や悪循環を生む」というのが、今回の趣旨です。(甘えというのは、精神分析用語として特別の意味がありますので、今回タイトルのみに使用しました)

 

さらに言えば「依存と攻撃は、予告して了解を得てからしましょう!」という提案です。

 

前回の(2017年4月1日掲載)ブログに「あごうたオッケー!」のお勧めを書きました。

これは「ありがとう、ごめんなさい、うれしい、助かる、(頼み事や約束事は)オッケー!」の頭文字を取って、夫婦の円満の秘訣を伝えたものです。そしてはじめの2つは心を込めて言わないと逆効果だけれど、あとの3つはとりあえず言うだけでも効果抜群という話でした。

 

反響は色々とあったのですが、その中の何人かの方からあったのが、「理不尽なお願いをされても『オッケー!』って言わないといけないんですか?」「本当はありがたくないことも『ありがとう!』って感謝しないといけないんですか?」という質問でした。

 

これはもちろん違います。

「それはちょっと困ります」とか「それは、今は要りません」といういわゆるアサーション(柔らかな主張・自他尊重の自己表現)は、「あごうたオッケー!」と同じくらい、いやそれ以上に大切です。

ちなみに、最近の若い人たちがよく使う「大丈夫です」という断り言葉は、年配の僕にはその意味で使うことに抵抗があるし、「これ食べる?」という質問に「大丈夫です」と言われると、聞き返して確かめないといられないという意味で、居心地の悪い曖昧表現です。

 

さて、本題の依存と攻撃です。

親密な関係においては、突然の攻撃が良くないのは誰でも分かりますよね。反対に親密でないなら奇襲作戦や先制攻撃というのは、意味があるかもしれませんね。でも、親密でなくても、今後長いつきあいが続く相手には、避けるにこしたことはありませんが。

 

(余談ですが、大学教員も決して親密でなくても、下手をすると20年以上同僚関係が続きますので、奇襲や先制はいけません。僕は数年前に流行った「倍返し」ではなくて「やられたら半返し」をモットーにやってきて、人望とやりやすさを勝ち得ました)

 

親密な関係における依存と攻撃は、いきなりやると手痛い拒否やしっぺ返しを受けることがあります。それは瞬時の拒否や反撃というわかりやすいものから、その場はうまくいったように思えても、数日後に仕返しをもらうこともあります。

さらには、長期間にわたる支配や抵抗、心理的引きこもりという反撃にあうことさえあります。

そうすると、そのような反撃にあった方は、さらに仕返しに出るか大きな苦悩を味わうということになりがちです。これが悪循環の典型です。

 

カウンセリングでいろいろなご夫婦にお会いしていると、配偶者の浮気や身体的な訴え(心身症の場合も慢性疾患や時にはガンでさえ)も、もう片方の配偶者の依存や攻撃に対する反撃なのではないか、少なくともそのストレスで出ているのではないかとさえ思える場合が少なくありません。

 

もちろん、長期的な影響の最大のものが「子どもへの悪影響」であることは、このブログを読まれる方ならもうおわかりだと思います。

 

なので、ここで提案です。

 

「愛の告白は突然でもいいけれど、依存と攻撃は相手の了解を得てからやりましょう!」

具体的には「今、ちょっといい?」「あのーお願いがあるんだけど」と言って了解を取ってから甘える。

「ちょっと話があるんだけれど、今いいかな?」「大事なお話があります。時間をとれそうになったら言って下さい」などと予告して、相手にその覚悟ができてから攻撃する。

 

です。

 

もちろん攻撃は素直に正面から、建設的にというのが理想です。

 

依存に関する予告と了解取り付けは、医療やヒト対象の研究の用語を借りて「インフォームドコンセント(説明と同意による)甘え」と呼んでいます。

攻撃に関する予告と了解取り付けは、戦争用語を借りれば「宣戦布告つき正面攻撃」でしょうか。でも、正面攻撃というのは激しすぎるかもしれないので「予告つき限定攻撃」の方がいいかもしれません。

「もう1回やったら怒るからね」というのも、本当に実行されるならこの予告つき限定攻撃にあたります。

 

この際大切なのが、予告して断られたら、少し待つ。そしてその条件が整ったら必ず実行するということです。

予告したのに実行されなかったら「ナアナア」か「疎遠なまま」の関係になって、どちらかの都合のいい関係になります。

 

以上のようなことを心がけていただくことによって、幸せなカップル、家庭、親子が増えることが、私の祈りです。

 

(完)

2018年

2月

12日

私の薦める一冊

 

「青年期精神療法」第13巻第1 p133-135.2017 掲載を修正の上、再掲。

 

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016

 

 

 

                                                スタッフ:森山

 

 

 

1.       はじめに

 

私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった

 

しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ

 

らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。

 

 

 

2.       本書について

 

 本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。

 

 

 

3.       レズ風俗、そして寂しさと自己表現

 

数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。

 

 往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。

 

 自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。

 

 今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。

 

 

 

4.       ボロボロになることで免除され、もらえる居場所

 

 著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。

 

彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。

 

 同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。

 

 

 

5.       自分から大切にされる

 

 ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。

 

 これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。

 

 このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。

 

 一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)

 

 

 

2018年

1月

03日

やられたら半返し!ー間接互恵性から考える長期的な信頼を得る方法ー

けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

 

さて、本ブログの8月の記事「I love you は突然に?」にちょこっとだけ書いたら、思いの外「もっと詳しく書いて」というご要望の多かった「やられたら半返し!」について、やっと書く時間ができました。じっくり読む時間のない人のために結論から先に書きます。

 

<結論>

「長期にわたる対人関係では、『やられたら半返し(つまり仕返しや反撃は、半分程度の量や強さにする)』というやり方が、お互いにとって最もいい結果を生む」

つまり、何も反撃しないのでもなく、かといってひところ流行った「倍返しだ!」でもなく、「半返し」が理想的な対応だという考え方です。

 

これは、基本的には、私(福島)の長期的な体験や継続的な観察から来ていますが、多くのクライエントさんたちや同僚、昔からの友人の行動パターンを見ていて導き出した一つの教訓です。

 

<具体例>

たとえば、会議や飲み会の席で、同僚Aさんからこちらに対して濡れ衣的な責任転嫁のような発言を受けたとします。その場で黙ってしまったらそれを認めたことになりかねません。かといって「そんなこと言って、Aさんこそ○○でしょ?」と倍返し的に反撃すると、その場は何とか収まってもこれを繰り返していると、長年の積み重ねでだんだんとこちらの評価も下がってきます。

 

このような場面で「いえいえ、それは違います」と穏やかに否定して、反撃まではしないというのが、ここでいう「半返し」のイメージです。あるいは、せいぜい「いいえ、それは全く違います。事実は〇〇で、その結果こうなったのです」とはっきりと根拠をあげて反論するというものです。

 

このような態度を一貫して示していけば、長期的な関係において、少しずつ周囲の評価や相手からの信頼も得られて、理不尽な責任転嫁や八つ当たり、さらにはいじめにあうリスクがどんどんと減っていきます。

 

反対に逆ギレしたり、反論もせずにそのままにしていることが続くと、評価を落とすだけでなく、かえっていじめの対象となりやすいのが日本社会の特徴です。

 

別の例としては、カップルや家族を考えてみましょう。

問題のあるカップルや家族の関係で、共通してみられる傾向の一つに「片方、あるいは誰かの一人勝ち傾向」です。

つまり、カップルや家族の中で、勢いや気持ち、あるいはお金や暴力など、何らかの形で優位に立っている人が、いつも一方的に勝ち続けて、他の人は反論さえしないかあるいは愚痴という形の口だけの不満を漏らすのみという関係です。

これまでたくさんのカップルやご家族にお会いしてきましたが、この「一人勝ち」が性別や年齢に関係なく起こるのが、このような親密な関係のおもしろいところではあります。

 

このように「一人勝ち」され続けた相手や家族は、正面から半返しすることなく、何らかの形で逃げたり、たまにブチ切れるだけで、また元の木阿弥に戻ったりする場合がとても多いのです。そして、さらには不登校やひきこもり、大人であれば浮気や借金、体調不良というかたちで反撃するという形になりかねません。

これでは、だれも幸せになれません。

 

ちなみに日本では負のエネルギーは集団内部に向かいやすいので、一度集団内で「いじめ対象」認定を受けると、どんどんその人にいじめが集中するということが起こります。これを私は「逆エントロピー現象」(本来拡散するはずのエネルギーが逆に集中していってしまうこと)とか「(対人関係における)ブラックホール現象」と勝手に名づけています。

最近の日本ではさすがに下の立場の人たちが、上の立場の特定の人をいじめるというのは稀ですが、それでも「なめる」「なめられる」という関係は発生します。それは、教師と生徒との間でも言えることです。学級崩壊やゼミ崩壊には、やはりこの半返し不足やまじギレ過剰がみられます。

そんなこんなで、これらがすべて、半返しのうまくできていないひとをめぐって起こるというのが、私の観察の結果です。

 

<間接互恵性と(処罰感情における)道徳感情論>

上記のことは、社会心理学で言われる「間接互恵性」の攻撃性バージョンと言っていいかもしれません(あるいはすでにそのような理論があるのかもしれませんが)。間接互恵性とはつまり、ある個体が利他行動(他者に親切にするなどの行動)を行った結果、その個体の評価が高まり、他者に行った利他行動が回りまわって別の他者から返ってくる仕組みのことです。これは実験や自然観察法などいろいろな形で確かめられていることです(たとえば(Kato, et al.,2013))。

 

人類は自らの生存率を上げるため、このように言葉や他者からの観察による「評判」を媒介とした協力関係システムである「間接互恵性」を進化の過程で身に着けてきたと考えるのが最近の進化心理学です。

 

この間接互恵性は「利他行動」となっていますが、これを「(理不尽な)攻撃に対する大人な反撃」の仕方としての「良い評判」を得て、回りまわって利益を得るというものが「半返し」理論ともいえます。

 

また、この間接互恵性の理論と、人間の処罰感情とを英国の経済学者アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments,1759)』とつなげて論じて、世界史上あちこちで繰り返して「格差の拡大」が広がり過ぎると必ずこの道徳感情での「正義」が否定的な形で猛威を振るって、悲惨な事件や戦争が起こるとしているユニークな論考もあります(管賀,2017)

 

<私たちの中に鬱積している怒り>

では、なぜ、数年前の半沢直樹のドラマや小説の「やられたらやり返す、倍返しだ!」があれほど好評だったのでしょうか?

これは基本的には、私たちの心の中の「勧善懲悪」の気持ちが満たされる、(水戸黄門以来の?)久々のシンプルなストーリーだったからともいえるし、最近の日本が格差の広がりをもとにした「ネガティブな道徳感情」が強まっているからとも考えています。

 

たしかに、あの小説に登場するような悪人たちには、倍返しが必要ですし、実際に世の中には巨悪と呼ばれる人物や、パワハラの尽きない、地位のある人がいるのも確かです。そのような人たちには、やはり倍返しするしかないのかもしれません。

 

でも原作者の池井戸潤さんも、本当は半返しの方が望ましいということに気づいていたのではないでしょうか?

だからこそ、主人公の名前だけは「半」を付けておいたのではないでしょうか?

 

文献

1)Kato-Shimizu Mayuko*, Onishi Kenji*, Kanazawa Tadahiro, Hinobayashi Toshihiko (2013)
Preschool children’s behavioral tendency toward social indirect reciprocity.
PLOS ONE 8(8): e70915.[DOI] 10.1371/journal.pone.0070915

[URL]http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0070915

2)管賀 江留郎道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2017)

 

以上

 

 

2017年

10月

09日

カウンセラーのセルフケアと自己点検

 

(この記事は2017年1月の「臨床心理学」17-1掲載の小論に加筆修正したものです)

 

「カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?」

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

① 基本的な考え方—すべて臨床の中で−

 

まず、基本的な大前提として、栄養と睡眠と適度な運動のバランスを日々心がけているということを確認してから、本稿をお読みいただきたい。そして、さらに男女の区別なく「ある程度の家事を手がけている」ということも大切にしたい。栄養・睡眠・運動は、例えば寿司職人が深刻な手荒れや腰痛を抱えていてはいけないのと等価である。そしてさらに寿司職人のたとえで言えば、しっかりとした師匠についてきちんと修業をしながらでないと、誇りをもって寿司を握れるようにならないのと同様、カウンセラー(以下Co)も、きちんとトレーニングを受け続けたということを前提として、セルフケアと自己点検の議論が成立する。これらの中で「家事参加」は多少奇異に思われるかもしれない。しかし、日々の家事の一切をパートナーや親族に任せてしまっているCoは、その基本的な「日常性」をリスペクトしていないということになるからである。

 

上記のような基本的なセルフケアを実践していても、さらにCoはその臨床活動の中で自信喪失や無力感・孤立感などをはじめとする困難に突き当たることがしばしばある。けれどもCoは自身の心理的困難や機能不全は盲点になりやすいとされている(Barnett, J.E. & Sarnel, D. , 2000)。それゆえCoが困難への対処法を身に付けることは、理論的学習や介入技法の習得と同様に重要であると考えられる(Guy,1987)

 

けれども筆者は、Coの困難への対処法に代表される「セルフケア」と「自己点検」は、基本的には「全て臨床活動の中でされるべき」と考えている。ケアは面接の中でクライエント(以下Cl)との適切なふれあいや協働の中で起こるはずであるし、自己点検は臨床現場におけるCo自身の振る舞いを振り返る中で十分になされる。そして、スーパーヴィジョン(以下SV)や教育分析、さらに職場内での相互研鑽という専門職としての訓練が、訓練であると同時にケアと自己点検にもなるというのがカウンセラー業務の特殊性でもあり、魅力でもある。

 

何よりも「成長の喜びが最上のケアになる」という原則を確認したい。そしてそのためにも少なくとも資格取得後10年程度は、SVとケースカンファレンスは欠かせないし、その後に教育分析を受けることを前提として、本稿を書き進めたい。このような形で訓練とケアを同時に受け、それと並行してClが少しでも良い兆候を見せたり、前向きに取り組むようになった時にCoは無上の喜びを感じ、さらに自身の成長を感じられる瞬間が最上のセルフケアであり、自己点検である。

 

このようなセルフケアと自己点検を怠らなければ、Clとの共依存やバーンアウトに陥ったりせずに、日々健やかな臨床活動ができる。

 

 

 

② 具体的な場面+解決方法

 

 横田・岩壁(2015)は、2010年に日本の臨床心理士を対象におこなった郵送調査の結果より、心理臨床家の臨床における困難は私生活における困難とはあまり関連がなく、業務における個人的な葛藤や孤立感が大きく関連していることを明らかにしている。そしてさらにその対処法として、困難を感じても対人的資源を用いていない場合が多いことが示唆されたとし、業務上の葛藤や孤立感を体験しているものへの支援方法を考えていくことが必要であると結論付けている。

 

セルフケアが必要な場面−「突然責められる」「泣きっ面に蜂現象」

 

 すでに30歳前後の頃から、夜遅くまでのカウンセリングにさほど疲れをおぼえない私を、同僚たちは「特異体質」とか「Clのエネルギーを吸い取っているのでは」などとささやいていた。そして、30代半ばに訪れたプライベートな危機的状況でも、職場では平気な顔をしてカウンセリングに励み、状況が一段落してから同僚に報告したところ「全然わからなかった」と驚かれたこともある。

 

 これらはすべて「Clと深いところでゆっくりと触れ合いながら、一緒に取り組む」という臨床的な欲求から生じた「臨床活動そのものの中でのセルフケア」だったと思う。

 

 けれども事はそう簡単ではなかった。40歳を過ぎた頃から、より困難な事例を担当するようになって、Clから責められるような場面もちらほらと出て来た。「ぶっ殺してやる!」と言い放った男性Cl。こちらに落ち度があったとは考えにくいのに急に私を責め始めた女性Cl。さらに「弁護士と相談しています」というメッセージを残して中断していった女性のケース(この方は、その後再開の申し込みがあったが)。

 

 このような時には、日々の生活が一気に暗転し、しばらくは心のほとんどがその事で占められる。そして、誰にも言えない。さらにこういう時に限って、別の職場や家庭でも全く関係のない問題や深いところでは関連があるとしか思えないような問題が勃発する。私が「泣きっ面に蜂現象」と呼び親しんでいる状況である。こんな時には「もう少しでうつ病になるんじゃないか」とすら思った事もある。そして、その事自体も誰にも言えない。

 

 けれどもやはり,これらのストレスの解消方法 は「カウンセリングセッションのなかでそのストレスに触れる・扱うこと」だった。たとえば、上記のようなClの怒りに対しては、ひたすらそれ を浴び続けるだけだったり、心のなかで拒絶したり反論反撃するのではなく、きちんと言葉にしてClとともに向き合う必要がある。その具体的な手法に関して詳しくは、髙岡・糟谷・福島(2013)にて分析考察したが、Clの怒りや依存、その他の転移的感情に関しては、可能な範囲でしっかりと向き合い、話し合い、その後のカウンセリングの課題とすることで、お互いの納得感や成長やケ アにつながる。

 

それは1990年代から欧米で盛ん に研究されているtherapeutic alliance rapture(作業同盟の亀裂)に関する研究からも同様のことが言える(たとえばSafran & Muran, 1996)。これらの研究からも作業同盟や治療関係がギクシャ クした時に、うまく修復できると治療効果が上がることが実証されているが、この時、同時にCo も癒されていることは経験から言って疑いない。

 

このように臨床における困難の最善の解決方法は「ひたすら臨床をすること」だ。どうせ趣味やレジャーに自分を向けてみても、楽しめはしない。ひたすら臨床をし、そして考えて考える。それのみが解決で、成長につながる。

 

あるいはもうひとつは日常生活に献身する事だ。たとえば、トイレ掃除をしてトイレの神様に献身するのもいい。おいしいご飯を炊いてお米の神様(かまどの神様?)に感謝するのもいいかもしれない。この際、私に限って言えばあまり超越的な神様は助けにならない。せめて仏教の「全ては縁(関係性)で成り立っている」という「縁起観」や「始まりも終わりもなく刹那滅(生じては滅し滅しては生じる)する」という世界観の方が助けになる。

 

 

 

自己点検が必要な場面−Co自身の課題やトラウマ、躁状態、うつ状態

 

 Coももちろん人間なので、自身の課題やトラウマを抱えている。そして時に躁状態やうつ状態になることもある。これらに関しては、常日頃の自己点検が欠かせない。そして、その出発点となるのは、やはり臨床活動だ。複数のClがいつもと違った動きをしていたら、その原因はこちらにある可能性が高い。セッション内で自分でも少し変だと思われる発言をしていたら、やはり自分が普段と違うと考えた方がいい。そしてその次に大切なのがSVと教育分析である。①にも書いたように自身の成長を感じられる事が何よりのケアとなるという原理は、この領域特有のものであるし、ストレスに意味が見いだされれば、それはすでにストレスではなくなる。

 

 

 

③ 考えられる困難と課題

 

それでも辛かったら、SVか同僚か薬を

 

 けれども、上記のような対応は、やはり私の特異体質ゆえかもしれない。同年代つまり臨床経験30年前後の臨床心理士に聞いてみると、すでに体を壊した事のある人や、現在うつ状態の人もいる。よく聴くとやはり仕事のストレスを溜め込みすぎていたようだ。そして私のような特異体質以外に、ストレスを感じながらも持ちこたえている同年代に二つのタイプがある。一つは、同僚とのおしゃべりで発散しているタイプである。毎日、臨床の仕事が終わった後に、お菓子を食べながらひとしきりおしゃべりをしながら1時間ほど同僚と過ごしてから帰る事で、とても解放されていると言う。これは同僚に恵まれないとできないが、それさえ叶うならとても有効なやり方だと思う。

 

 もう一つのタイプは、睡眠薬や抗うつ薬を(時々)服用しているというタイプである。こちらは、Clに服薬をお勧めする事がある我々としてはとても理にかなった方法でもあるし、薬の効果と副作用についても実体験できるいい方法だ。私も国際学会のための出張の際や帰国後には、睡眠導入剤を服用しているが、副作用や反跳性不眠(リバウンド:服薬をやめた時に不眠になること)なども体験できて、その辛さも含めてとても学ぶ事が多い。

 

 

 

自分の不安と個人主義志向に合った職場を

 

 不安が高く同僚や上司たちと一緒に仕事を進めていきたいタイプと、個人主義志向が強く、できるだけ一人で仕事を進めていきたいと思っている人の両方のタイプがこの業界にはいて、そのそれぞれにふさわしい職場がある。前者は、やはりチームワークの求められる職場で、さらにそれがうまく機能しているところが理想であるし、後者の傾向が高い人はできるだけ少人数の、例えば個人もしくは共同開業がふさわしい。

 

 

 

自身の弱さを生かす勇気

 

 では、私たちを折れなくするために必要なのは勇気なのだろうか。そうかも知れない。けれども我々心理臨床家の勇気は、一般の勇気とは少し違うと思っている。それは「自分の弱さを使う勇気」「弱さを使って勝負する勇気」と言うと少し分かりやすくなるもしれない。それは私たちのコンプレックスや弱点を「敏感な感覚器」として使ったり、弱点を通じてClの痛みを理解したり、さらには弱さから逃げない姿勢をClに見せる事によって、Clと通じたりClのモデルになったりするのである。そして、そうすることを通じて、私たちの弱さは、その弱さのままで強みに変わる。

 

 

 

毒あるいはネガティブなエネルギー

 

 いや、臨床家の折れない心の元は「毒」かもしれない。私を含めて私の周りの心が折れない臨床家の共通点は「毒舌家」だという点につきる。しかも、それは決して「悪口や誹謗中傷」ではなくて「真実をついた毒舌」である。そして、反対にストレスを貯めてしまっている臨床家の共通点は、この毒が少し足りないという点かもしれない。この毒はClに直接向かうものでもないし、Clについて毒舌的な陰口を言う訳でもない。けれども、ある意味「毒」を吐くのがClのそもそもの営為だと考えると、そのClの毒を、Coの毒で中和するようなところがあるのかもしれない。私に限って言えば、Clに会わないお盆や正月は、自身の毒が中和されずに自分を駆け巡って、ややうつ状態になる。

 

 そういえば、ある有名な精神科医は「私の原動力は怒りです」とおっしゃっている。つまり子を虐げる親、そしてそれをうまくケアできていない現在の日本のシステムに対する怒りを原動力としているというのである。これもある種の強さにつながる「毒」と言っていいのかもしれない。

 

 

 

魂の鍛錬と上昇

 

 もう少し踏み込んだ議論をしよう。ユング派のヒルマン,J.は「魂という視座」という形で世界やものの見方の中に「魂」という視点を取り込む事の有用性を主張した。たしかに私たちの仕事であるカウンセリングや心理臨床は、この魂という視点を持つ事でのみ説明可能な瞬間や領域がある。それは単なる欲求や動機付けという言葉では説明しきれない、理性を超えた何らかの志向性に近い。そして、魂という視座を持った時に初めて、私たちがなぜ心理臨床家になったのか、心理臨床家を目指しているのかがおぼろげながらに分かってくるのではないだろうか。そしてそれらを理解したうえで「魂を洗練・鍛錬していく」必要がある。そういう視点に立つと、Clから投げかけられた無理難題も理不尽な責め言葉も、「魂の鍛錬」として有用と思えるのではないだろうか。

 

 

 

私たちは何を求め、何を奉仕しているのか

 

 緩和ケアや終末期臨床に携わっている同僚たちは、「このような尊い場面に立ち会わせていただく幸せ」を感じると言う。さらには被害者支援に取り組んでいる同僚は「Clがズタズタにされた尊厳を、少しずつ取り戻していく場面に立ち会う尊さ」を口にする。私たちはこのように、単なる「社会適応」や「効率性」ではなく、「尊厳」や「尊さ」を求め、それに向かって地道に取り組む「日常性」を信奉しているのではないだろうか。最終的にはこの辺りを明確にすることで、真のセルフケアは成立すると考えている。

 

 

 

文献

 

Barnett, J.E. & Sarnel, D. (June, 2000). No time for self-care? 42 Online. The online journal of Psychologists in Independent Practice, a division of the American Psychological Association. Available at http://www.division42.org/

 

Guy (1987).The Personal Life of the Psychotherapist. John Wiley & Sons: New York

 

Safran, J. D., & Muran, C. (1996). The resolution of tuptures in the therapeutic alliance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64, 447-458.

 

髙岡昂太、糟谷寛子、福島哲夫(2013) 怒りを表出したクライエントへの治療的対応に関するプロセス研究—課題分析を応用した合議制質的研究法による実践的対応モデルの生成—臨床心理学. 第13巻第3 号391-400.

 

横田悠木・岩壁茂(2015)心理臨床家の実践をめぐる困難に関する調査研究. 日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.322

 

2017年

8月

14日

公認心理師パブリックコメント

専門家、非専門家に限らず、広くご意見をお出し下さい。

公認心理師パブリックコメントが8月16日の締め切りとなっております。

 

国民の福祉に大きな影響がある施策となりますので、ぜひご意見をお出し下さい。

 

私は、以下のような内容を提出しました。

 

*********

国民が安心して質の高い心のケアなどの臨床心理サービスを受けられるように以下の点を要望します。

 

1.主治医の指示は真に必要な場合のみに:
主治医とカウンセラーが同一機関内に所属していない場合、クライエント(未成年の場合は保護者)の同意があった上で、指示をはじめて受けることが可能となること、緊急時で主治医の指示を受けることが難しい場合、1回のみの相談の場合、学生相談、スクールカウンセリングなどでは主治医の指示を得てからというのは現実的ではないので除外してほしい。
医学モデルと臨床心理学モデルは異なり、対等で独立したものであることがクライエントの福祉に寄与するものです。

 

2.経過措置の対象(現任者)を限定してほしい:
経過措置の対象が非常に幅広く解釈できるが、それでは結果的に心理臨床職とはいいがたい、非常に低いレベルの資格になっており、国民の福祉にかなうものではない。経過措置の対象を「心理臨床業務従事者」に限定してほしい。

 

3.実務経験3年以上に:
学部だけで大学院に進まない場合の実務経験を3年としてほしい。こころという重要な事柄を扱う上で最低限の年限を確保することが国としての責務です。

 

以上

*********

提出先は以下です。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495170114&Mode=0

2017年

8月

05日

I love youは突然に?ー甘えと攻撃は予告が必要!ー

このタイトル、なんか、J-POPの歌か小説のタイトルみたいですね。実際、小田和正さんの昔の歌に「ラブ・ストーリーは突然に」という名曲があります。このまんまのタイトルのネット小説はあるみたいですしね。

 

でも、今回の本題はサブタイトルにあります。

そう「依存と攻撃は予告してからでないと逆効果や悪循環を生む」というのが、今回の趣旨です。(甘えというのは、精神分析用語として特別の意味がありますので、今回タイトルのみに使用しました)

 

さらに言えば「依存と攻撃は、予告して了解を得てからしましょう!」という提案です。

 

前回の(2017年4月1日掲載)ブログに「あごうたオッケー!」のお勧めを書きました。

これは「ありがとう、ごめんなさい、うれしい、助かる、(頼み事や約束事は)オッケー!」の頭文字を取って、夫婦の円満の秘訣を伝えたものです。そしてはじめの2つは心を込めて言わないと逆効果だけれど、あとの3つはとりあえず言うだけでも効果抜群という話でした。

 

反響は色々とあったのですが、その中の何人かの方からあったのが、「理不尽なお願いをされても『オッケー!』って言わないといけないんですか?」「本当はありがたくないことも『ありがとう!』って感謝しないといけないんですか?」という質問でした。

 

これはもちろん違います。

「それはちょっと困ります」とか「それは、今は要りません」といういわゆるアサーション(柔らかな主張・自他尊重の自己表現)は、「あごうたオッケー!」と同じくらい、いやそれ以上に大切です。

ちなみに、最近の若い人たちがよく使う「大丈夫です」という断り言葉は、年配の僕にはその意味で使うことに抵抗があるし、「これ食べる?」という質問に「大丈夫です」と言われると、聞き返して確かめないといられないという意味で、居心地の悪い曖昧表現です。

 

さて、本題の依存と攻撃です。

親密な関係においては、突然の攻撃が良くないのは誰でも分かりますよね。反対に親密でないなら奇襲作戦や先制攻撃というのは、意味があるかもしれませんね。でも、親密でなくても、今後長いつきあいが続く相手には、避けるにこしたことはありませんが。

 

(余談ですが、大学教員も決して親密でなくても、下手をすると20年以上同僚関係が続きますので、奇襲や先制はいけません。僕は数年前に流行った「倍返し」ではなくて「やられたら半返し」をモットーにやってきて、人望とやりやすさを勝ち得ました)

 

親密な関係における依存と攻撃は、いきなりやると手痛い拒否やしっぺ返しを受けることがあります。それは瞬時の拒否や反撃というわかりやすいものから、その場はうまくいったように思えても、数日後に仕返しをもらうこともあります。

さらには、長期間にわたる支配や抵抗、心理的引きこもりという反撃にあうことさえあります。

そうすると、そのような反撃にあった方は、さらに仕返しに出るか大きな苦悩を味わうということになりがちです。これが悪循環の典型です。

 

カウンセリングでいろいろなご夫婦にお会いしていると、配偶者の浮気や身体的な訴え(心身症の場合も慢性疾患や時にはガンでさえ)も、もう片方の配偶者の依存や攻撃に対する反撃なのではないか、少なくともそのストレスで出ているのではないかとさえ思える場合が少なくありません。

 

もちろん、長期的な影響の最大のものが「子どもへの悪影響」であることは、このブログを読まれる方ならもうおわかりだと思います。

 

なので、ここで提案です。

 

「愛の告白は突然でもいいけれど、依存と攻撃は相手の了解を得てからやりましょう!」

具体的には「今、ちょっといい?」「あのーお願いがあるんだけど」と言って了解を取ってから甘える。

「ちょっと話があるんだけれど、今いいかな?」「大事なお話があります。時間をとれそうになったら言って下さい」などと予告して、相手にその覚悟ができてから攻撃する。

 

です。

 

もちろん攻撃は素直に正面から、建設的にというのが理想です。

 

依存に関する予告と了解取り付けは、医療やヒト対象の研究の用語を借りて「インフォームドコンセント(説明と同意による)甘え」と呼んでいます。

攻撃に関する予告と了解取り付けは、戦争用語を借りれば「宣戦布告つき正面攻撃」でしょうか。でも、正面攻撃というのは激しすぎるかもしれないので「予告つき限定攻撃」の方がいいかもしれません。

「もう1回やったら怒るからね」というのも、本当に実行されるならこの予告つき限定攻撃にあたります。

 

この際大切なのが、予告して断られたら、少し待つ。そしてその条件が整ったら必ず実行するということです。

予告したのに実行されなかったら「ナアナア」か「疎遠なまま」の関係になって、どちらかの都合のいい関係になります。

 

以上のようなことを心がけていただくことによって、幸せなカップル、家庭、親子が増えることが、私の祈りです。

 

(完)

2018年

2月

12日

私の薦める一冊

 

「青年期精神療法」第13巻第1 p133-135.2017 掲載を修正の上、再掲。

 

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016

 

 

 

                                                スタッフ:森山

 

 

 

1.       はじめに

 

私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった

 

しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ

 

らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。

 

 

 

2.       本書について

 

 本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。

 

 

 

3.       レズ風俗、そして寂しさと自己表現

 

数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。

 

 往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。

 

 自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。

 

 今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。

 

 

 

4.       ボロボロになることで免除され、もらえる居場所

 

 著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。

 

彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。

 

 同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。

 

 

 

5.       自分から大切にされる

 

 ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。

 

 これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。

 

 このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。

 

 一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)

 

 

 

2018年

1月

03日

やられたら半返し!ー間接互恵性から考える長期的な信頼を得る方法ー

けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!!

 

さて、本ブログの8月の記事「I love you は突然に?」にちょこっとだけ書いたら、思いの外「もっと詳しく書いて」というご要望の多かった「やられたら半返し!」について、やっと書く時間ができました。じっくり読む時間のない人のために結論から先に書きます。

 

<結論>

「長期にわたる対人関係では、『やられたら半返し(つまり仕返しや反撃は、半分程度の量や強さにする)』というやり方が、お互いにとって最もいい結果を生む」

つまり、何も反撃しないのでもなく、かといってひところ流行った「倍返しだ!」でもなく、「半返し」が理想的な対応だという考え方です。

 

これは、基本的には、私(福島)の長期的な体験や継続的な観察から来ていますが、多くのクライエントさんたちや同僚、昔からの友人の行動パターンを見ていて導き出した一つの教訓です。

 

<具体例>

たとえば、会議や飲み会の席で、同僚Aさんからこちらに対して濡れ衣的な責任転嫁のような発言を受けたとします。その場で黙ってしまったらそれを認めたことになりかねません。かといって「そんなこと言って、Aさんこそ○○でしょ?」と倍返し的に反撃すると、その場は何とか収まってもこれを繰り返していると、長年の積み重ねでだんだんとこちらの評価も下がってきます。

 

このような場面で「いえいえ、それは違います」と穏やかに否定して、反撃まではしないというのが、ここでいう「半返し」のイメージです。あるいは、せいぜい「いいえ、それは全く違います。事実は〇〇で、その結果こうなったのです」とはっきりと根拠をあげて反論するというものです。

 

このような態度を一貫して示していけば、長期的な関係において、少しずつ周囲の評価や相手からの信頼も得られて、理不尽な責任転嫁や八つ当たり、さらにはいじめにあうリスクがどんどんと減っていきます。

 

反対に逆ギレしたり、反論もせずにそのままにしていることが続くと、評価を落とすだけでなく、かえっていじめの対象となりやすいのが日本社会の特徴です。

 

別の例としては、カップルや家族を考えてみましょう。

問題のあるカップルや家族の関係で、共通してみられる傾向の一つに「片方、あるいは誰かの一人勝ち傾向」です。

つまり、カップルや家族の中で、勢いや気持ち、あるいはお金や暴力など、何らかの形で優位に立っている人が、いつも一方的に勝ち続けて、他の人は反論さえしないかあるいは愚痴という形の口だけの不満を漏らすのみという関係です。

これまでたくさんのカップルやご家族にお会いしてきましたが、この「一人勝ち」が性別や年齢に関係なく起こるのが、このような親密な関係のおもしろいところではあります。

 

このように「一人勝ち」され続けた相手や家族は、正面から半返しすることなく、何らかの形で逃げたり、たまにブチ切れるだけで、また元の木阿弥に戻ったりする場合がとても多いのです。そして、さらには不登校やひきこもり、大人であれば浮気や借金、体調不良というかたちで反撃するという形になりかねません。

これでは、だれも幸せになれません。

 

ちなみに日本では負のエネルギーは集団内部に向かいやすいので、一度集団内で「いじめ対象」認定を受けると、どんどんその人にいじめが集中するということが起こります。これを私は「逆エントロピー現象」(本来拡散するはずのエネルギーが逆に集中していってしまうこと)とか「(対人関係における)ブラックホール現象」と勝手に名づけています。

最近の日本ではさすがに下の立場の人たちが、上の立場の特定の人をいじめるというのは稀ですが、それでも「なめる」「なめられる」という関係は発生します。それは、教師と生徒との間でも言えることです。学級崩壊やゼミ崩壊には、やはりこの半返し不足やまじギレ過剰がみられます。

そんなこんなで、これらがすべて、半返しのうまくできていないひとをめぐって起こるというのが、私の観察の結果です。

 

<間接互恵性と(処罰感情における)道徳感情論>

上記のことは、社会心理学で言われる「間接互恵性」の攻撃性バージョンと言っていいかもしれません(あるいはすでにそのような理論があるのかもしれませんが)。間接互恵性とはつまり、ある個体が利他行動(他者に親切にするなどの行動)を行った結果、その個体の評価が高まり、他者に行った利他行動が回りまわって別の他者から返ってくる仕組みのことです。これは実験や自然観察法などいろいろな形で確かめられていることです(たとえば(Kato, et al.,2013))。

 

人類は自らの生存率を上げるため、このように言葉や他者からの観察による「評判」を媒介とした協力関係システムである「間接互恵性」を進化の過程で身に着けてきたと考えるのが最近の進化心理学です。

 

この間接互恵性は「利他行動」となっていますが、これを「(理不尽な)攻撃に対する大人な反撃」の仕方としての「良い評判」を得て、回りまわって利益を得るというものが「半返し」理論ともいえます。

 

また、この間接互恵性の理論と、人間の処罰感情とを英国の経済学者アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments,1759)』とつなげて論じて、世界史上あちこちで繰り返して「格差の拡大」が広がり過ぎると必ずこの道徳感情での「正義」が否定的な形で猛威を振るって、悲惨な事件や戦争が起こるとしているユニークな論考もあります(管賀,2017)

 

<私たちの中に鬱積している怒り>

では、なぜ、数年前の半沢直樹のドラマや小説の「やられたらやり返す、倍返しだ!」があれほど好評だったのでしょうか?

これは基本的には、私たちの心の中の「勧善懲悪」の気持ちが満たされる、(水戸黄門以来の?)久々のシンプルなストーリーだったからともいえるし、最近の日本が格差の広がりをもとにした「ネガティブな道徳感情」が強まっているからとも考えています。

 

たしかに、あの小説に登場するような悪人たちには、倍返しが必要ですし、実際に世の中には巨悪と呼ばれる人物や、パワハラの尽きない、地位のある人がいるのも確かです。そのような人たちには、やはり倍返しするしかないのかもしれません。

 

でも原作者の池井戸潤さんも、本当は半返しの方が望ましいということに気づいていたのではないでしょうか?

だからこそ、主人公の名前だけは「半」を付けておいたのではないでしょうか?

 

文献

1)Kato-Shimizu Mayuko*, Onishi Kenji*, Kanazawa Tadahiro, Hinobayashi Toshihiko (2013)
Preschool children’s behavioral tendency toward social indirect reciprocity.
PLOS ONE 8(8): e70915.[DOI] 10.1371/journal.pone.0070915

[URL]http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0070915

2)管賀 江留郎道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2017)

 

以上

 

 

2017年

10月

09日

カウンセラーのセルフケアと自己点検

 

(この記事は2017年1月の「臨床心理学」17-1掲載の小論に加筆修正したものです)

 

「カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?」

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

① 基本的な考え方—すべて臨床の中で−

 

まず、基本的な大前提として、栄養と睡眠と適度な運動のバランスを日々心がけているということを確認してから、本稿をお読みいただきたい。そして、さらに男女の区別なく「ある程度の家事を手がけている」ということも大切にしたい。栄養・睡眠・運動は、例えば寿司職人が深刻な手荒れや腰痛を抱えていてはいけないのと等価である。そしてさらに寿司職人のたとえで言えば、しっかりとした師匠についてきちんと修業をしながらでないと、誇りをもって寿司を握れるようにならないのと同様、カウンセラー(以下Co)も、きちんとトレーニングを受け続けたということを前提として、セルフケアと自己点検の議論が成立する。これらの中で「家事参加」は多少奇異に思われるかもしれない。しかし、日々の家事の一切をパートナーや親族に任せてしまっているCoは、その基本的な「日常性」をリスペクトしていないということになるからである。

 

上記のような基本的なセルフケアを実践していても、さらにCoはその臨床活動の中で自信喪失や無力感・孤立感などをはじめとする困難に突き当たることがしばしばある。けれどもCoは自身の心理的困難や機能不全は盲点になりやすいとされている(Barnett, J.E. & Sarnel, D. , 2000)。それゆえCoが困難への対処法を身に付けることは、理論的学習や介入技法の習得と同様に重要であると考えられる(Guy,1987)

 

けれども筆者は、Coの困難への対処法に代表される「セルフケア」と「自己点検」は、基本的には「全て臨床活動の中でされるべき」と考えている。ケアは面接の中でクライエント(以下Cl)との適切なふれあいや協働の中で起こるはずであるし、自己点検は臨床現場におけるCo自身の振る舞いを振り返る中で十分になされる。そして、スーパーヴィジョン(以下SV)や教育分析、さらに職場内での相互研鑽という専門職としての訓練が、訓練であると同時にケアと自己点検にもなるというのがカウンセラー業務の特殊性でもあり、魅力でもある。

 

何よりも「成長の喜びが最上のケアになる」という原則を確認したい。そしてそのためにも少なくとも資格取得後10年程度は、SVとケースカンファレンスは欠かせないし、その後に教育分析を受けることを前提として、本稿を書き進めたい。このような形で訓練とケアを同時に受け、それと並行してClが少しでも良い兆候を見せたり、前向きに取り組むようになった時にCoは無上の喜びを感じ、さらに自身の成長を感じられる瞬間が最上のセルフケアであり、自己点検である。

 

このようなセルフケアと自己点検を怠らなければ、Clとの共依存やバーンアウトに陥ったりせずに、日々健やかな臨床活動ができる。

 

 

 

② 具体的な場面+解決方法

 

 横田・岩壁(2015)は、2010年に日本の臨床心理士を対象におこなった郵送調査の結果より、心理臨床家の臨床における困難は私生活における困難とはあまり関連がなく、業務における個人的な葛藤や孤立感が大きく関連していることを明らかにしている。そしてさらにその対処法として、困難を感じても対人的資源を用いていない場合が多いことが示唆されたとし、業務上の葛藤や孤立感を体験しているものへの支援方法を考えていくことが必要であると結論付けている。

 

セルフケアが必要な場面−「突然責められる」「泣きっ面に蜂現象」

 

 すでに30歳前後の頃から、夜遅くまでのカウンセリングにさほど疲れをおぼえない私を、同僚たちは「特異体質」とか「Clのエネルギーを吸い取っているのでは」などとささやいていた。そして、30代半ばに訪れたプライベートな危機的状況でも、職場では平気な顔をしてカウンセリングに励み、状況が一段落してから同僚に報告したところ「全然わからなかった」と驚かれたこともある。

 

 これらはすべて「Clと深いところでゆっくりと触れ合いながら、一緒に取り組む」という臨床的な欲求から生じた「臨床活動そのものの中でのセルフケア」だったと思う。

 

 けれども事はそう簡単ではなかった。40歳を過ぎた頃から、より困難な事例を担当するようになって、Clから責められるような場面もちらほらと出て来た。「ぶっ殺してやる!」と言い放った男性Cl。こちらに落ち度があったとは考えにくいのに急に私を責め始めた女性Cl。さらに「弁護士と相談しています」というメッセージを残して中断していった女性のケース(この方は、その後再開の申し込みがあったが)。

 

 このような時には、日々の生活が一気に暗転し、しばらくは心のほとんどがその事で占められる。そして、誰にも言えない。さらにこういう時に限って、別の職場や家庭でも全く関係のない問題や深いところでは関連があるとしか思えないような問題が勃発する。私が「泣きっ面に蜂現象」と呼び親しんでいる状況である。こんな時には「もう少しでうつ病になるんじゃないか」とすら思った事もある。そして、その事自体も誰にも言えない。

 

 けれどもやはり,これらのストレスの解消方法 は「カウンセリングセッションのなかでそのストレスに触れる・扱うこと」だった。たとえば、上記のようなClの怒りに対しては、ひたすらそれ を浴び続けるだけだったり、心のなかで拒絶したり反論反撃するのではなく、きちんと言葉にしてClとともに向き合う必要がある。その具体的な手法に関して詳しくは、髙岡・糟谷・福島(2013)にて分析考察したが、Clの怒りや依存、その他の転移的感情に関しては、可能な範囲でしっかりと向き合い、話し合い、その後のカウンセリングの課題とすることで、お互いの納得感や成長やケ アにつながる。

 

それは1990年代から欧米で盛ん に研究されているtherapeutic alliance rapture(作業同盟の亀裂)に関する研究からも同様のことが言える(たとえばSafran & Muran, 1996)。これらの研究からも作業同盟や治療関係がギクシャ クした時に、うまく修復できると治療効果が上がることが実証されているが、この時、同時にCo も癒されていることは経験から言って疑いない。

 

このように臨床における困難の最善の解決方法は「ひたすら臨床をすること」だ。どうせ趣味やレジャーに自分を向けてみても、楽しめはしない。ひたすら臨床をし、そして考えて考える。それのみが解決で、成長につながる。

 

あるいはもうひとつは日常生活に献身する事だ。たとえば、トイレ掃除をしてトイレの神様に献身するのもいい。おいしいご飯を炊いてお米の神様(かまどの神様?)に感謝するのもいいかもしれない。この際、私に限って言えばあまり超越的な神様は助けにならない。せめて仏教の「全ては縁(関係性)で成り立っている」という「縁起観」や「始まりも終わりもなく刹那滅(生じては滅し滅しては生じる)する」という世界観の方が助けになる。

 

 

 

自己点検が必要な場面−Co自身の課題やトラウマ、躁状態、うつ状態

 

 Coももちろん人間なので、自身の課題やトラウマを抱えている。そして時に躁状態やうつ状態になることもある。これらに関しては、常日頃の自己点検が欠かせない。そして、その出発点となるのは、やはり臨床活動だ。複数のClがいつもと違った動きをしていたら、その原因はこちらにある可能性が高い。セッション内で自分でも少し変だと思われる発言をしていたら、やはり自分が普段と違うと考えた方がいい。そしてその次に大切なのがSVと教育分析である。①にも書いたように自身の成長を感じられる事が何よりのケアとなるという原理は、この領域特有のものであるし、ストレスに意味が見いだされれば、それはすでにストレスではなくなる。

 

 

 

③ 考えられる困難と課題

 

それでも辛かったら、SVか同僚か薬を

 

 けれども、上記のような対応は、やはり私の特異体質ゆえかもしれない。同年代つまり臨床経験30年前後の臨床心理士に聞いてみると、すでに体を壊した事のある人や、現在うつ状態の人もいる。よく聴くとやはり仕事のストレスを溜め込みすぎていたようだ。そして私のような特異体質以外に、ストレスを感じながらも持ちこたえている同年代に二つのタイプがある。一つは、同僚とのおしゃべりで発散しているタイプである。毎日、臨床の仕事が終わった後に、お菓子を食べながらひとしきりおしゃべりをしながら1時間ほど同僚と過ごしてから帰る事で、とても解放されていると言う。これは同僚に恵まれないとできないが、それさえ叶うならとても有効なやり方だと思う。

 

 もう一つのタイプは、睡眠薬や抗うつ薬を(時々)服用しているというタイプである。こちらは、Clに服薬をお勧めする事がある我々としてはとても理にかなった方法でもあるし、薬の効果と副作用についても実体験できるいい方法だ。私も国際学会のための出張の際や帰国後には、睡眠導入剤を服用しているが、副作用や反跳性不眠(リバウンド:服薬をやめた時に不眠になること)なども体験できて、その辛さも含めてとても学ぶ事が多い。

 

 

 

自分の不安と個人主義志向に合った職場を

 

 不安が高く同僚や上司たちと一緒に仕事を進めていきたいタイプと、個人主義志向が強く、できるだけ一人で仕事を進めていきたいと思っている人の両方のタイプがこの業界にはいて、そのそれぞれにふさわしい職場がある。前者は、やはりチームワークの求められる職場で、さらにそれがうまく機能しているところが理想であるし、後者の傾向が高い人はできるだけ少人数の、例えば個人もしくは共同開業がふさわしい。

 

 

 

自身の弱さを生かす勇気

 

 では、私たちを折れなくするために必要なのは勇気なのだろうか。そうかも知れない。けれども我々心理臨床家の勇気は、一般の勇気とは少し違うと思っている。それは「自分の弱さを使う勇気」「弱さを使って勝負する勇気」と言うと少し分かりやすくなるもしれない。それは私たちのコンプレックスや弱点を「敏感な感覚器」として使ったり、弱点を通じてClの痛みを理解したり、さらには弱さから逃げない姿勢をClに見せる事によって、Clと通じたりClのモデルになったりするのである。そして、そうすることを通じて、私たちの弱さは、その弱さのままで強みに変わる。

 

 

 

毒あるいはネガティブなエネルギー

 

 いや、臨床家の折れない心の元は「毒」かもしれない。私を含めて私の周りの心が折れない臨床家の共通点は「毒舌家」だという点につきる。しかも、それは決して「悪口や誹謗中傷」ではなくて「真実をついた毒舌」である。そして、反対にストレスを貯めてしまっている臨床家の共通点は、この毒が少し足りないという点かもしれない。この毒はClに直接向かうものでもないし、Clについて毒舌的な陰口を言う訳でもない。けれども、ある意味「毒」を吐くのがClのそもそもの営為だと考えると、そのClの毒を、Coの毒で中和するようなところがあるのかもしれない。私に限って言えば、Clに会わないお盆や正月は、自身の毒が中和されずに自分を駆け巡って、ややうつ状態になる。

 

 そういえば、ある有名な精神科医は「私の原動力は怒りです」とおっしゃっている。つまり子を虐げる親、そしてそれをうまくケアできていない現在の日本のシステムに対する怒りを原動力としているというのである。これもある種の強さにつながる「毒」と言っていいのかもしれない。

 

 

 

魂の鍛錬と上昇

 

 もう少し踏み込んだ議論をしよう。ユング派のヒルマン,J.は「魂という視座」という形で世界やものの見方の中に「魂」という視点を取り込む事の有用性を主張した。たしかに私たちの仕事であるカウンセリングや心理臨床は、この魂という視点を持つ事でのみ説明可能な瞬間や領域がある。それは単なる欲求や動機付けという言葉では説明しきれない、理性を超えた何らかの志向性に近い。そして、魂という視座を持った時に初めて、私たちがなぜ心理臨床家になったのか、心理臨床家を目指しているのかがおぼろげながらに分かってくるのではないだろうか。そしてそれらを理解したうえで「魂を洗練・鍛錬していく」必要がある。そういう視点に立つと、Clから投げかけられた無理難題も理不尽な責め言葉も、「魂の鍛錬」として有用と思えるのではないだろうか。

 

 

 

私たちは何を求め、何を奉仕しているのか

 

 緩和ケアや終末期臨床に携わっている同僚たちは、「このような尊い場面に立ち会わせていただく幸せ」を感じると言う。さらには被害者支援に取り組んでいる同僚は「Clがズタズタにされた尊厳を、少しずつ取り戻していく場面に立ち会う尊さ」を口にする。私たちはこのように、単なる「社会適応」や「効率性」ではなく、「尊厳」や「尊さ」を求め、それに向かって地道に取り組む「日常性」を信奉しているのではないだろうか。最終的にはこの辺りを明確にすることで、真のセルフケアは成立すると考えている。

 

 

 

文献

 

Barnett, J.E. & Sarnel, D. (June, 2000). No time for self-care? 42 Online. The online journal of Psychologists in Independent Practice, a division of the American Psychological Association. Available at http://www.division42.org/

 

Guy (1987).The Personal Life of the Psychotherapist. John Wiley & Sons: New York

 

Safran, J. D., & Muran, C. (1996). The resolution of tuptures in the therapeutic alliance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64, 447-458.

 

髙岡昂太、糟谷寛子、福島哲夫(2013) 怒りを表出したクライエントへの治療的対応に関するプロセス研究—課題分析を応用した合議制質的研究法による実践的対応モデルの生成—臨床心理学. 第13巻第3 号391-400.

 

横田悠木・岩壁茂(2015)心理臨床家の実践をめぐる困難に関する調査研究. 日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.322

 

2017年

8月

14日

公認心理師パブリックコメント

専門家、非専門家に限らず、広くご意見をお出し下さい。

公認心理師パブリックコメントが8月16日の締め切りとなっております。

 

国民の福祉に大きな影響がある施策となりますので、ぜひご意見をお出し下さい。

 

私は、以下のような内容を提出しました。

 

*********

国民が安心して質の高い心のケアなどの臨床心理サービスを受けられるように以下の点を要望します。

 

1.主治医の指示は真に必要な場合のみに:
主治医とカウンセラーが同一機関内に所属していない場合、クライエント(未成年の場合は保護者)の同意があった上で、指示をはじめて受けることが可能となること、緊急時で主治医の指示を受けることが難しい場合、1回のみの相談の場合、学生相談、スクールカウンセリングなどでは主治医の指示を得てからというのは現実的ではないので除外してほしい。
医学モデルと臨床心理学モデルは異なり、対等で独立したものであることがクライエントの福祉に寄与するものです。

 

2.経過措置の対象(現任者)を限定してほしい:
経過措置の対象が非常に幅広く解釈できるが、それでは結果的に心理臨床職とはいいがたい、非常に低いレベルの資格になっており、国民の福祉にかなうものではない。経過措置の対象を「心理臨床業務従事者」に限定してほしい。

 

3.実務経験3年以上に:
学部だけで大学院に進まない場合の実務経験を3年としてほしい。こころという重要な事柄を扱う上で最低限の年限を確保することが国としての責務です。

 

以上

*********

提出先は以下です。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495170114&Mode=0

2017年

8月

05日

I love youは突然に?ー甘えと攻撃は予告が必要!ー

このタイトル、なんか、J-POPの歌か小説のタイトルみたいですね。実際、小田和正さんの昔の歌に「ラブ・ストーリーは突然に」という名曲があります。このまんまのタイトルのネット小説はあるみたいですしね。

 

でも、今回の本題はサブタイトルにあります。

そう「依存と攻撃は予告してからでないと逆効果や悪循環を生む」というのが、今回の趣旨です。(甘えというのは、精神分析用語として特別の意味がありますので、今回タイトルのみに使用しました)

 

さらに言えば「依存と攻撃は、予告して了解を得てからしましょう!」という提案です。

 

前回の(2017年4月1日掲載)ブログに「あごうたオッケー!」のお勧めを書きました。

これは「ありがとう、ごめんなさい、うれしい、助かる、(頼み事や約束事は)オッケー!」の頭文字を取って、夫婦の円満の秘訣を伝えたものです。そしてはじめの2つは心を込めて言わないと逆効果だけれど、あとの3つはとりあえず言うだけでも効果抜群という話でした。

 

反響は色々とあったのですが、その中の何人かの方からあったのが、「理不尽なお願いをされても『オッケー!』って言わないといけないんですか?」「本当はありがたくないことも『ありがとう!』って感謝しないといけないんですか?」という質問でした。

 

これはもちろん違います。

「それはちょっと困ります」とか「それは、今は要りません」といういわゆるアサーション(柔らかな主張・自他尊重の自己表現)は、「あごうたオッケー!」と同じくらい、いやそれ以上に大切です。

ちなみに、最近の若い人たちがよく使う「大丈夫です」という断り言葉は、年配の僕にはその意味で使うことに抵抗があるし、「これ食べる?」という質問に「大丈夫です」と言われると、聞き返して確かめないといられないという意味で、居心地の悪い曖昧表現です。

 

さて、本題の依存と攻撃です。

親密な関係においては、突然の攻撃が良くないのは誰でも分かりますよね。反対に親密でないなら奇襲作戦や先制攻撃というのは、意味があるかもしれませんね。でも、親密でなくても、今後長いつきあいが続く相手には、避けるにこしたことはありませんが。

 

(余談ですが、大学教員も決して親密でなくても、下手をすると20年以上同僚関係が続きますので、奇襲や先制はいけません。僕は数年前に流行った「倍返し」ではなくて「やられたら半返し」をモットーにやってきて、人望とやりやすさを勝ち得ました)

 

親密な関係における依存と攻撃は、いきなりやると手痛い拒否やしっぺ返しを受けることがあります。それは瞬時の拒否や反撃というわかりやすいものから、その場はうまくいったように思えても、数日後に仕返しをもらうこともあります。

さらには、長期間にわたる支配や抵抗、心理的引きこもりという反撃にあうことさえあります。

そうすると、そのような反撃にあった方は、さらに仕返しに出るか大きな苦悩を味わうということになりがちです。これが悪循環の典型です。

 

カウンセリングでいろいろなご夫婦にお会いしていると、配偶者の浮気や身体的な訴え(心身症の場合も慢性疾患や時にはガンでさえ)も、もう片方の配偶者の依存や攻撃に対する反撃なのではないか、少なくともそのストレスで出ているのではないかとさえ思える場合が少なくありません。

 

もちろん、長期的な影響の最大のものが「子どもへの悪影響」であることは、このブログを読まれる方ならもうおわかりだと思います。

 

なので、ここで提案です。

 

「愛の告白は突然でもいいけれど、依存と攻撃は相手の了解を得てからやりましょう!」

具体的には「今、ちょっといい?」「あのーお願いがあるんだけど」と言って了解を取ってから甘える。

「ちょっと話があるんだけれど、今いいかな?」「大事なお話があります。時間をとれそうになったら言って下さい」などと予告して、相手にその覚悟ができてから攻撃する。

 

です。

 

もちろん攻撃は素直に正面から、建設的にというのが理想です。

 

依存に関する予告と了解取り付けは、医療やヒト対象の研究の用語を借りて「インフォームドコンセント(説明と同意による)甘え」と呼んでいます。

攻撃に関する予告と了解取り付けは、戦争用語を借りれば「宣戦布告つき正面攻撃」でしょうか。でも、正面攻撃というのは激しすぎるかもしれないので「予告つき限定攻撃」の方がいいかもしれません。

「もう1回やったら怒るからね」というのも、本当に実行されるならこの予告つき限定攻撃にあたります。

 

この際大切なのが、予告して断られたら、少し待つ。そしてその条件が整ったら必ず実行するということです。

予告したのに実行されなかったら「ナアナア」か「疎遠なまま」の関係になって、どちらかの都合のいい関係になります。

 

以上のようなことを心がけていただくことによって、幸せなカップル、家庭、親子が増えることが、私の祈りです。

 

(完)

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