AEDPの創始者ダイアナ・フォーシャと  (2010年イタリア・フィレンツェにて)

  EFT(感情焦点化療法)の創始者レスリー・グリーンバーグ先生と


Blog

2019年

6月

22日

弱いは強い、強いは弱い?

最近、マスコミでは様々な心の問題に関連する事件が報道されています。ピエール瀧さんの薬物嗜癖から、引きこもり傾向の40~50代の方に関係する事件等々です。

 

それらの事件報道に心を痛めていたら、数十年前のクライエントさんのこんな言葉を思い出しました。

 

「僕は確かに、いろいろ弱いです。いろいろなことが気になって、すぐに眠れなくなったり、体調が崩れたり気持ちがくじけたりします。でも、こうやってこれまでやって来れました。そして誰よりも継続できてます。

つまり、僕は自分の弱さを知ってるし、だからこそそれを踏まえて、それに備えていろんな人に相談したり、いろんな工夫をしてます。つまり弱いから強いんです。」と。


当時、まだ30歳そこそこの若手カウンセラーだった僕は、その言葉に心底感銘を受けて、ひたすら泣きながら、うなずきながらその言葉を聞きました。


そこに「強さ」と「弱さ」のパラドックスを超えた、人間のあり方の本質的なものを感じたのです。そして、それをさまざまな挫折や紆余曲折と試行錯誤とを繰り返した後に、やっとたどり着いた言葉として本人の口から発せられたのが、とても感動的だったのです。


当時、彼はそれまで彼を虐めてからかいの対象としてきた母親と姉とに対しては、やっと距離を取ることができるようになりつつ、職場の上司やカウンセリングを上手に頼って、自分なりの生き方をつかんで行ったところでした。


つまりここには「自分の弱さを受け入れて、上手に複数の、しかるべき人に頼る」という理想的な対処スタイルが出来つつあり、すなわちそれが「強さ」だという洞察とプライドにも至っていたわけです。


反対に、今回報道されている事件の人たちを見ると、(あくまでも報道されている限りでは)何とか強気で頑張ろうと「強さ」だけに頼ってしまって、ヤケを起こして強気に暴発してしまって、結果的には社会的に孤立して「弱く」なってしまっていたのだと思わざるを得ません。


幸いにしてピエール瀧さんは、釈放後は、石野卓球さんや家族にうまく頼れているのかもしれないとも思えるので、そこには希望を感じます。


元野球選手の清原さんも、以前の「強がり番長」的な雰囲気で家族や仲間からは孤立していた様子から、現在はさまざまな治療仲間やコミュニティの中で、支え合って生きているご様子です。


やっぱり「弱いは強い、強いは弱い」ですよね。


マスコミにもこの辺りを是非わかってほしいですし、当事者叩きの伝統をいち早く放棄してほしいものです。

2019年

6月

07日

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるべきなのか?ークライエントさんからの手紙よりー

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるのがいいのでしょうか?

 

この点について、クライエントさんからも若手カウンセラーからもよく尋ねられます。

そして、これは実に難しいテーマです。

 

すべて一概・一律に言えない、例外の多いことなのですが、あえて単純化して書くとこんな感じです。

 

★いつ始めるべきか?

・・・これは、もういつでも思い立った時が最適の時です。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにしたいものです。ただし、統合失調症やうつ病が急激に悪化した時には、カウンセリングはふさわしくありませんので、それが疑われるときには医療を優先し、主治医の指示に従いましょう。もし医師の言葉が疑わしくても、ちゃんとした臨床心理士・公認心理師なら同じことを言ってくれるはずです。

 

★いつ終わるべきか?

・・・これこそ難しい問題です。症状や悩みによっても、ご本人の動機づけによってもかなり変わります。私としては「カウンセリングってどれくらいの期間や回数がかかるんですか?」というご質問には以下のように答えています。

 

「人によって全く違うのですが、とりあえず10回通っていただくとかなり様子がわかりますし、場合によってはかなり効果も感じられます。そして20回通っていただければ、ある程度効果が実感できるはずです。」と。

 

そして「でも、本格的に変わるためには2年ほどかかる場合が多いです」「2年くらい通うと『これまでと全く違う日々です』とか『こんなに穏やかに暮らせるのは生れて初めてです』とおっしゃる人も少なくありません」とお答えしています。

実際そのような形で、周囲もご本人も見違えるように変化して、きっちりと終わっていかれる方も少なくありません。

 

また、それまで何年にもわたって薬が欠かせなかった双極性障害の方がすっかり良くなって再発もせず、でもそこから今度は人生そのものの課題に取り組んでいかれるために、カウンセリングを利用するというタイプの方もいらっしゃいます。

 

これらは、すべて事実なのですが、これでも表現しきれない様々な個別性があります。そして、上記のように「これまでと全く違う日々」を過ごせるようになれた方が、大多数とは言い切れないのも事実です。

 

そこそこ多い方々が「問題がまったくなくなったわけでも、自分ががらりと変わったわけでもないけれど、自分との付き合い方がかなりよくわかってきたし、これからは何とか自分でやって行けると思う」という感じでの終結するように思われます。

 

最近このような実感がとてもよく伝わるお手紙をいただきました。

以下は、最近福島があるクライエントの方からいただいたお手紙です。

ご本人の了解を得て、一部を微修正・省略のうえ掲載させていただきます。

 

★クライエントさんからのお手紙

このクラエントさんは、福島が担当した女性の方です。

幼少期からの家族関係の問題と、父親からの虐待、それに続く様々なトラウマティックな出来事の中で苦しんでこられた人でした。

 

当オフィスにおいでになる前に、2か所のカウンセリングを短期間で中断した経験のある方でした。

はじめはほぼ毎週、そして、だんだんと1か月から数か月に一回のペースになって、次の予約を3か月後にして、しばらくたった後にいただいたお手紙です。

 

***********

 福島先生こんにちは。

 次回のカウンセリングをお休みしたいと思い、気持ちが固まったのでお伝えします。

すぐにこの場で終了という意味では全くありません。

 

 カウンセリングの位置づけを、私にとって「いつでも相談にゆける場所」、「どうしようもなくつらくなったら、すぐ戻ることができる部屋」として、日々の変化を自分の力で真剣に取り組みたいのです。一歩離れた場所からコツコツと。

 

 カウンセリングを始めてからずっと感じていた問いは、『カウンセリングの終了・完結って何だろう?」ということでした。きっと人それぞれ、ゴールや節目があったり、カウンセラーの立場としての正解のような地点があるのかと考えましたが、私は『これで私の納得いく答えは出た」「ここまでで、自分の成長は終わりだ」とは、きっとずっと思えなくて、それならば、曖昧なまま終わりを決めず、今、明確にあるベストなことを実行しつづけてゆくのが私の思う「自分とカウンセリングとのちょうど良い関係のありかた」だと思っています。

 

 人生も人も状況も変わってゆくのに、悩みも変化してゆくのに、「もうこれで大丈夫、先のこともやってゆける」とは、私は先生に言えません。

 

 でも、今は、ものすごい苦境の中にある暗闇から抜け出ていて、自分のつらさや悲しみを聴いてほしいという思いがあまりなく、、、カウンセリングで学んだことや変わった自分で、前を向いて生きてみたいと感じます。自分をこれから幸せにしてゆくぞ!と希望を持てたり、自らの経験をいつか誰かのために優しい力に変えたいなと、思うのです。

 

 今までは助けてもらったり必要な支援、また愛情を与えてもらう側でしたが、その立場はもう卒業かなと思うのです。

 

今度は私が、自分で自分をよろこばせたり自身で自己成長を、試行錯誤を重ねていく時です。そして、今まで私を決して諦めないでくれた先生からの心からの安心感、信頼、無条件の愛や支えを受け取ったぶん、今度は私が、なにかや誰かのために、それを注げる人になりたいと思います。

 

(中略)

 

内向的、繊細でとても過敏な性格の自分が生きてゆくには、何に気をつけて、何を大切にしていけば苦しくないのかを、長くカウンセリングで学びました。(中略)つらさに自らを追い込まぬように、傷付いた後の「感情と出来事の受け止めと、捉えなおし」ができたら、それは強い成長として、今後のパワーになります。(中略)

 

そうした一連の気づきや学びを、静かに導いて教えてくれて「変化」への作業をサポートしてくれのが、福島先生でした。いくつものチャレンジもできました。

 

 特別大それた何者かになれた訳じゃないけど、私の人生は、こうした「生き方の術を、自分らしくフィットさせる方法」、「挫折や逆境が教えてくれたことを自分のために武器や味方にすること」によって、大きく変わりました。光の部分と影の部分があって、その中心に立ち続けることはできないけど、角度を変えつつ身動きがとれる、ダンスのバリエーションを増やせた感じですごく嬉しいです。

 

 なので、カウンセリングをしていて、ながーく先生とお付き合いさせていただく中で、いつしか私は私と仲良くなりたいと思えたり、私がとても好きになりました。すごく大事な、人生の自己投資でした。(中略)カウンセリングをして、先生と関わることができて私は多くの状況が改善し、私の内面や生き方も変わりました。でも、私にあった「弱み」を捨ててしまったり、涙の記憶を忘れてしまわぬよう、「くじけた私」をいつまでも憶えていたいです。ひとつひとつを、心の中で小さな優しさの種にして、つらい事や痛みを体験した人の気持ちを、大切にしたいからです。

 これからは、先生にご相談をしたい時にピンチになる前に先生を訪れて、自分で見落としていることの自己点検をし、自分の力で前に進める時は、自分の力や周りの人たちの支えを利用してがんばってゆく、そんなやり方で力をつけて行きたいと思います。

 

 これが今の嘘のない気持ちです。

************引用ここまで

 

いかがでしょうか?

 

問題がきれいさっぱりとなくなって終わるのとは違う、「日々成長しながら、ここからは自分の力で取り組んでみたい」というタイプの終結の様子がとても率直な文章でつづられた、素晴らしいお手紙だと思います。

 

このようにだんだんとカウンセリングの間隔をあけていって、「また、相談したいことができたらピンチになる前に行く」という形の終結もとてもリアルで現実的だと思います。

 

カウンセリングで何をつかんでいかれたかは、もう解説の必要がないくらい、明確に書かれています。

 

カウンセラーとして、このようなリアルで、でも確実に成長されている様子を、お手紙や直接お会いして教えていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさに「カウンセラー冥利に尽きる」とはこのことだと思います。

 

以上

2019年

5月

18日

セルフコンパッションでセックスレス解消にもー上手に自分を慈しめば、相手にも慈しまれる

ここ2回のブログでは「家事をしない男性」についてや「男をどう育てるか」というテーマで、やや男性に厳しい内容を書いてきました。

 

でも、もちろん、女性にも課題がないわけではありません。

なので、「女性がもっとこうするといい」と思われる点について、書いてみます。

 

男に家事をやってもらうためには、もちろん頼み方や言い方に「アサーティブネス(自他を尊重する自己表現)」が必要です。けれども、そのアサーティブネスを生み出すもとにあるものは何かというのが、今日のテーマです。

 

日本ではセックスレスが当たりまえ?

日本のカップルの半数近くがセックスレスだというニュースが話題になってから、もう10年近くになるでしょうか?

もちろん、この状況は現在も続いています。

 

ーーー以下引用(https://lulucos.jp/by-s/article/574081301889880595より)
「日本性科学会」の定義では、セックスレスとは「特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」
また、「第8回男女の生活と意識に関する調査報告書2016年(一般社団法人日本家族計画協会)」によると、セックスレス状態の日本の夫婦は47.2%に上る。

ーーー引用以上



もう10年以上前なので、ちょっとだけ書かせていただくと、当時私のクライエントさんたちの中にもすでに、「不倫なのにセックスレス」「セフレなのにセックスレス」と嘆く人もいました。

 

最近では、女子大学生たちにもしばしばこの悩みを聞かされます。

 

この問題には様々な立場から、様々な意見が出されています。

男性の性欲の変化から男女の働き方の問題、経済格差等々です。

これらすべてに一理ありますが、ここでは、あえて「女性の側の心理学的問題」に絞って考えてみましょう。

 

これももう10年以上前から、上記のようなセックスレスに悩む方の相談が増えてきて、そういう女性たちの共通点がおぼろげに見えてきました。

それは、皆さん十分に魅力的な方たちなのに、なぜか複数回お会いしていても「ゆったり感」が感じられないということです。

 

もちろん、こちらはできるだけリラックスしていただけるように「共感的うなずき、相づち」「ゆっくり間を取ること」などを心がけているのにです。

こうすると、ほとんどの方が1回目の後半部分で、すでにかなり「ゆったり感」が出てくるにもかかわらずです。

 

そこで、ある一人の女性に意を決して言ってみました。

「お会いしてお話を伺っていると、あなたはとても頑張り屋さんで、夫のためにもいろいろと献身的にやっていらっしゃいますよね。そして、疲れてバタンと寝てしまうことも多い。つまり、すごく頑張っているかバタンと寝てしまっているかで、その中間のゆったりする時間が持てていない感じがします。家事を少しさぼってもいいから、ゆったりと自分を慈しむ、自分をいとおしむ時間を作ってみませんか」と。

 

具体的にはスキンケアなどをあえてゆっくり、夫の目に触れるところでする。休日の朝や夜はあえてゆったりと、自分の好きなお茶を飲んだりして過ごすなどをアドバイスしました。

 

この女性は、元々とても素直な頑張り屋さんだったので、私のこのアドバイスもそのまま取り入れて、「頑張って」ゆったりと自分を慈しむ時間を作るようになりました。

 

すると驚いたことに、たった数週間でこれまで1年以上もセックスレスで、言葉で言うと必ず喧嘩になっていた夫が自然に誘ってきて、セックスできたとのことでした。そして、さらに彼女が自分を慈しむ行動を取っていると、何となく自分に自信が持てて、こちらからもタイミングを見て誘うことができて、とても愛情に満ちたセックスできたということでした。(どういう時がタイミングかというのは、僕が詳しく教えました)

 

セルフ・コンパッション(コンパッション・フォーカスト・セラピー)

まだ、当時セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)という言葉はあったものの、それに焦点を当てたコンパッション・フォーカスト・セラピーは、日本に導入されていませんでした。

 

このセルフ・コンパッション(self-Compassion)とは「苦悩や失敗場面、あるいは自分が不十分であると感じる状況において自己に向けられるケアや思いやり」と定義されています(Neff,2003)。このセルフ・コンパッションには以下の下位概念があるとされています。

 

(1)苦痛や困難に直面したときに自己への情動反応としての「自己への思いやり(その反対は自己批判)」

 

(2)自己の困難な体験への認知的理解である「共通の人間性(その反対は孤立)」(人はみんなこういう時には悩むものだと思えるか、こんなことに悩んでいるのは私だけだし、私が劣っているからだと思ってしまうか)

 

(3)苦しみへの注目の仕方を表すとされる「マインドフルネス(その反対は過剰な囚われ)」

 

これら3つは相互に関連する要素であり、セルフ・コンパッションが高い人は、困難な出来事や自己の感情をバランスよく客観的に捉えることを促すため、自尊感情とは正の相関、反芻や失敗へのおそれとは負の相関関係があるとされています。

 

そして、近年このセルフ・コンパッションの能力を育てることに焦点を当てた介入技法として先述のコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)が注目されています。このCFTの介入技法は、まず脳内の脅威システム・獲得達成システム・鎮静システムの3つの働きと感情について心理教育し、最終的にクライエントの持つ恥感情や自己批判を和らげることを目標とします。そのために「自分へのやさしい眼差し」を意識した呼吸法や、「自分を批判する自分」「自分を慈しむ完璧な養育者」についてのコラム法を実施します。さらには、自分に向けた慈しみの手紙を書くなど、技法としてはまさに統合的なセラピーそのものです。

 

ただし、これらの介入のすべてに「自分への慈しみ」を促進するという目的がはっきりと含まれているのが特徴です。また、どのような学派のどのような技法とも合わせて用いることが可能で、相乗効果が期待できるとされています。

 

CFTの開発者であるGilbert,P.は、CFTはクライエントが抱える問題だけでなく、セラピスト側にも恩恵をもたらすと述べています。私も、このCFTのワークショップに参加してみましたが、3日間受けるうちにどんどん自分の中でセルフ・コンパッションが高まっていくのを実感しました。

 

セックスレス解消にもCFT!

そして、10年前の上記の事例を思い出したのです。

「そうだ、あの時実際にはセルフ・コンパッション・セラピーの心理教育と同じことをやっていたんだ」

「セルフ・コンパッション・セラピーの発想はセックスレス解消にもとても有効なんじゃないか」と。私たちは、知らず知らずのうちに自己批判的になり、自分を虐げたりしています。あるいは、自己批判のあまり他者批判的にもなってしまっています。ちなみに今の日本はその傾向がどんどん高まっているように感じます。(さらに言えば、今の日本の少子化対策に欠けているのは、このセルフ・コンパッションなのではないでしょうか)

 

この自己批判を少しでも和らげて、自己を慈しみ、その延長で他者を慈しむ傾向が少しでも強まると、現実の人間関係もぐっと良くなるのです。

 

そして、それはカップルにおいては「セックスレス解消」というとても具体的・現実的・今日的な問題解決にも直結するのです。

 

ちなみに現在、成城カウンセリングオフィスでは、このCFTも含んだ介入技法の効果研究をしています。

 興味のある方は、このホームページの「研究協力のお願い」をご覧ください。

 

以上

 

 

2019年

5月

12日

男を育てるのは誰?-育メンより先にまずメン育?

★男を育てるのは誰の責任?

5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。

 

では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?

放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。

その意味では、誰かが育てないといけないのです。

もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。

 

家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。

 

言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。

 

もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。

過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.

 

けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。

 

この男女差は何なのか、いろいろと考えました。

そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。

 

ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。

反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。

 

人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。

 

本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。

 

あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。

 

現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。

 

普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。

 

そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。

 

というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。

「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。

 

上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。

 

その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。

 

ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。

 

共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。

 

このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。

 

以上

2019年

5月

03日

男の仕事と家事育児ー男の家事参加と社会構造改革

とっても久しぶりのブログ更新です。

 

この1年の間に、福島の身に起こった大きな出来事といえば、なによりも「公認心理師」関連です。

必携テキストの執筆・編集から大ヒット、そして必須センテンスの編集とその反響₍ポジティブとネガティブいろいろありました!)、さらに国家試験本番です。

年が明けてからは「国試問題解説」と「マンガでやさしくわかる公認心理師」も出版しました。

 

これらを一応、無事にしのいできました!

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、この1年、いろいろな人や事件、マスコミからも家事と育児、そして男女格差の問題について考えさせられてきました。

私は元より男女同権論者ですし「男も家事育児を十分にやって当然」という立場です。

さらに女子大の教員としても、生来のバランス重視派としてもどちらかというと女性の権利擁護の方に重点を置きたいのが本音です。

そして、別のブログや小論文にも書きましたように、私自身30歳の頃から「家事をやらない人のあらゆる言説は信用しない」という原則を立てて、今も守っているつもりです。

そもそもなぜそう決めたのか、今振り返ると家事をやらない人には、私が大切にしている「日常性へのリスペクト」が圧倒的に欠けているからです。

 

けれども2000年を過ぎてもうすぐ20年になろうとする今日この頃、改めて家事・育児をしない若い男性たちに何人も出会って、今更ながらに驚いたこの1年でした。

「苦手だからしない」「仕事で疲れているからできない」「妻に言われれば、その都度やっているから充分」等々、全部ごもっともです。

さらに驚くことに、私の勤務先の女子大学の男性教員たちも家事をしていない人が多いということに気付かされました。

専攻内の男性教員はもちろん、先日立ち話をしていて明らかになったのは前学部長、現副学長も家事はほとんどやらず、家事をしているのは、学長と私だけでした。

 

最近の調査でも、以下のような結果が出ています。

「フルタイムで共働きをしている夫婦1,000名の家事の分担状況について「妻がほとんど担う」は27%、「妻が主だが、夫も少し分担」が38%で、あわせて64%の共働き家庭で妻がメインで家事を担っていることが示されました。なお、「妻と夫で分担」しているという家庭は31%です。」https://honote.macromill.com/report/20181030/

 

この事実は何を意味しているのでしょうか?

しかも、私の偏見で言わせていただければ、現実的かつ柔軟に仕事をこなしている男は家事もやっているのです。(上記の具体例からも言えるのですが、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます)

 

そもそも家事・育児という日常性やリアリズムの最たるものを、そんな形で誰かに任せてしまえて、大丈夫なのでしょうか?

それで仕事はうまくいくのでしょうか?

 

★妻の理想化と奴隷化、それは紙一重ーどちらもマザコン?

(以下の記述は、すべて男女を逆にしても成り立ちますし、同性カップルにも成り立つので、その際には「男女」を入れ替えたり、「パートナー」にしたり「母を父に」読み替えてください。ただ、個人的にはやはり男性の女性に対する甘えが顕著なので、基本的に「夫」の問題として記述しました。)

 

パートナーに対する極端な理想化は、それがそのまま奴隷化の裏返しです。

例えば「うちの妻は家事・育児は任せて大丈夫」「うちのパートナーはいつどんな時でもとても優しいから決して怒らない(あるいは怒るけれど、すぐにご機嫌が直る)」などの発言は、すでにそこにパートナーの優しさに甘えている様子が見られる場合があります。これは相手を理想化しているからこそできることです。「妻はいつも綺麗で笑顔でいて欲しい」「夫はいつも頼りがいのある立派な男でいてほしい」という気持ちや発言の裏にあるものと同じです。

 

もちろんその反対に「僕は忙しく働いているんだから、すべて僕に従って欲しい」という発言には相手を奴隷化している姿勢が見られます。

 

本来、パートナーは相互作用で成り立っているのですから、自分のあり方を抜きにして「全部やってもらえるはず」「いつも綺麗で笑っていられるはず」ということはあり得ません。家事から笑顔まで、夫婦はすべて「お互い様」であるはずです。

 

★専業主婦の存在は歴史のごく一時期だけ

 男性に家事の話をすると「僕の母親は専業主婦だったので、父親が家事をするのを見たことがない・・・」と言葉を濁す人が少なくありません。たしかにそうだったのかもしれません。現在の30代~50代は、母親が専業主婦として家にいて、家事はすべて母親がやり、夫や息子が家事をすることを良しとしない世代だったかもしれません。

 

 けれども、これは、日本史上まれに見るほんの一時期の出来事です。それ以前は、主婦と言っても家の近くの畑で野菜を育てたり、商売をほぼ対等に切り盛りしたり、それがなくても水汲み洗濯など、とても忙しかったし、平成の後半からは夫婦共働きが圧倒的に多くなってきているのです。

 

このようなごく一時期の生活習慣を、まるで普遍的なもののように考えるのは、妥当性が低いと言わざるを得ないでしょう。

 

★平成の30年間を通じて、男たちはまた甘えるようになってきている?

 バブルの頃の男たちは、浮かれてはいてもあまり甘えてはいなかったように思います。その前の高度経済成長期もそうだったかもしれません。もちろん、その陰で過労死や過労自殺などの悲しい事例はたくさんあったのかもしれません。

 

 ところが、この30年近く、日本の男たちは元気がなくなり、それだけでなく「構造改革」を不十分なままにして、政治・経済・産業構造・教育・研究等々のすべての分野で、中途半端に甘え、現状維持にしがみついていると指摘する識者も複数います。なかでも特にマスコミと司法制度と教育制度は、世界水準から相当に遅れているのは、数々の指標から疑いのないところでしょう。

 

 もちろん、それ以前、明治期の男性たちが「男尊女卑」の名の下に、女性に甘えていたのは様々な文献や小説からも明らかなことです。

 

家事をしない男たちというのも、時代に流れによって見え隠れする、男たちの甘えのその一環に過ぎないのかもしれません。

 

このように考えていくと、現代日本で司法制度やマスコミにおいて、人権尊重がなかなか進んでいかないのも、こういう男性たちの甘えから来ているのではないかとすら思えてきます。

先進国では他に例を見ない「人質司法」や「被害者・加害者バッシング」の主導者たちが、日々家事をしているとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?

 この際、私たちは一番身近な「家事」という視点から、構造改革を徹底しないと、新しい時代についていけないのではないでしょうか?

 

 

 (終わり)

 

カウンセリングの基本「今、ここで触れ合う」

 

※今回の記事は2015年の「臨床心理学特集号-カウンセリング・テクニック」(金剛出版)に掲載されたものの元原稿に加筆修正したものです。

 

-カウンセリングのベーシックテクニック6

 

[理解]触れあう=「今ここ」での関係

 

(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫

 

Ⅰ はじめに

 

カウンセリングでクライエント(以下Cl)とセラピスト(以下Th)が触れあうということについて、わかりやすく説明するのはとても難しい。色々なレベルの触れあいがあり、さらにどのように触れあうと、Clがどのように感じるのかが予測も効果もなかなか分かりにくいことが多いからだ。

 

ここで、カウンセリングにおける出会いと触れあいを、イヌ(Th)とネコ(Cl)の出会いにたとえてみたい。街角で初めて出会ったイヌとネコを想像してみよう。あるいはもっと正確なたとえにするとしたら「一見、優しそうな表情をしたイヌの所に、元気のなさそうなネコが来て、ちょっと様子をうかがう」とした方がいいかもしれない。ネコは見るからに弱っているかもしれないし、見たところ普通だけれども目だけがおびえていて、逃げ足は速いかもしれない。あるいは意外にも喧嘩っ早いトラブルネコで、簡単には触れあわせてもらえないかもしれない。反対に一度気を許すととんでもない甘えん坊の「かまってちゃん」ネコかもしれない。 

 

一方、イヌの方は例外なく初めは一見優しそうにしているだろう。でも、実はがっちりと飼い主や組織に管理されている、まさに「○○のイヌ」かもしれない。さらには飼い主や師の教えにものすごく忠実な「忠犬」で、全ての活動は「教えを守るため」あるいは「教えの正しさを証明するため」だけにされているかもしれない。そして、ひそかに(名誉や権力)に飢えているかもしれない。反対に飼い主や世の中に強い反感を持っているかもしれない。もっと多いのは「世の中のかわいそうなネコを救うことに全身全霊を尽くしている」という、いわゆるヒロイックなお助け犬かもしれない。

 

 このようなさまざまな個性を秘めたネコに対して、別の意味で様々な個性をもったイヌが、どのようにしたらしっかりと役に立てるのだろうか。一筋縄ではいかないけれど、それでも何らかの形で、触れあって、何らかの形で働きかけないといけないだろう。触れあうことに慎重になることは何よりも大切だけれど、慎重にやりすぎて、ネコが失望して路地裏や野山に去っていっては役に立てない。そのネコが捨てネコなのか迷いネコなのか、あるいはいじめられネコなのかによっても、必要とされる対応が全く違う。

 

 以上、かなり突飛なたとえだったかもしなれいが、カウンセリングにおけるClThの出会いと触れあいを考えるときに、主訴や相談内容とは別に、様々な要因が絡んでいることをまずは意識しておきたい。そして、このような様々な要因のうちのCl側のそれは、始めから明らかな場合も多いが、Th側のそれは、Th自身にもよくわかっていないまま巧妙に覆い隠されつつ、それでも数回会ううちに、2人の関係に多大な影響をもたらし始めるのである。

 

 

 

Ⅱ 「今ここで」触れあうとは-ロジャース・精神分析・ユング・認知行動療法-

 

カウンセリングにおいてThClが心理的に触れあうとは、どういうことだろうか。ロジャース,C.R.による、「治療過程が生じる条件」としてあげられている6条件のうちの第1条件が、まさにこの触れあいに関するものである。それは「二人の人が心理的な接触をもっていること」とされている。そして、第2条件以下は、例の主要3条件とそれがClに伝っていることなどが続く。

 

しかしその一方で、精神分析においては「Clの欲求を満たしてはいけない」として、Clの触れあい欲求や不安低減欲求をある程度でも満たすような治療法を「支持的療法」として、下に見る傾向がある。でありながら、やや古い研究ではあるが、精神分析的精神療法で顕著な改善を示したのは、全て支持的な精神療法だったとの報告もある(生田、1996)

 

ユング派においては、箱庭療法を分析心理学の技法として導入したカルフ,D.の「自由で保護された空間の中での、母子一体感にも似た」という言葉からも、十分に触れあいを重んじていることがうかがえる。ユング自身の著作に当たれば、とくに『分析心理学』や『転移の心理学』の中で、ClThの無意識的な触れあいである「神秘的関与」による両者の変容が、その危険性への十分な注意喚起とともに述べられている。

 

認知行動療法(CBT)においては、触れあうことはとくに述べられていないが、「ホットな認知を扱う」として、感情を伴った認知を喚起する場合がある。おそらくこのような認知を取り扱う際には何らかの触れあいが生じているに違いないと思われるが、あまり正面から「触れあい」として取り上げられることはない。

 

 筆者の基本的な姿勢は、統合的心理療法を探るというものである。このような技法も態度もClに合わせてカスタマイズするという考え方から、この項の結論を述べてしまえば『Clに応じて、最適な形で触れあうことをめざす』ということになる。それは単にクラエントの求めに応じるわけでも、Clに同調するわけでもない。あくまでも「その個々のClに最適な」触れあいをめざすのである。

 

 そんなことがいったい可能なのだろうか。不可能である。けれども、不可能と知りつつめざすことが、不可能だからめざさないよりもはるかに質の高いものになると考えている。では、何をよりどころに最適な形を推測するのかは、この項の後半で述べることにする。

 

 

 

Ⅲ 各学派での「触れあい」方

 

 来談者中心療法における「触れあい」は、Thの「うなずき」「相づち」から始まって、Thの共感と「無条件の肯定的関心」によって、すでにある程度成立する。さらにThの純粋性に由来する「Thの自己開示」によってなされることが多い。

 

また、精神分析技法における「今ここhere and now」では、主にClがこれまでの人生で繰り返してきたパターンをThとの間でも繰り返していることを、Thへの転移を指摘することも含めて、まさにその瞬間に指摘する技法である。その意味では直面化などの解釈技法の中心となるものであるので、詳しくはこの特集の「解釈」の項に譲りたい。この解釈技法であっても、自我心理学的な精神分析における「解釈の投与」から、サリバン,H. に代表される対人関係学派やウィニコットやビオンに代表される対象関係論、さらにはKohutの自己心理学派のかなりソフトな「言葉による触れあい」と言ってもよさそうな解釈の伝え方まで、かなり幅があると言える。

 

さらに近年確立されつつある、統合的な心理療法のいくつかの中でも、触れあいは様々な言葉で重視されている。感情焦点化療法(EFT: Greenberg)では、まさに感情に焦点化していくために、「空の椅子」や「二つの椅子」の技法を使いながら、ThがリードしつつClのこれまで封印されてきた感情にまで触れていく。この際にThが共感的に肯定すること(empathic affirmations)や共感的に探索すること(empathic exploration)が重要視されている。また、精神力動的なアプローチから発展した短期力動療法の一つである加速化体験療法(AEDP: Fosha, 2000)では,面接の場の安全性を確保するために,Clを積極的に肯定すること(affirmation)を重視しながら、トラウマティックな感情に対して「そこに私(Th)といっしょに留まって!」と伝えて、十分に触れていくことで変容を促進する。さらに弁証法的行動療法(DBT: Linehan,1993)では、Validation(承認)Cheerleading(はげまし)によってClの問題行動を「これまでの経緯からすれば妥当なもの」と認めつつ、新しい行動を応援するという形で触れあっていく。

 

おそらくシステムズアプローチやその他のブリーフセラピーにおけるリフレーミングやエンパワメント(どちらも本特集の別項を参照)も、結局は触れあいながら行っているという点では触れあい技法でもある。

 

 

 

Ⅳ verbalな触れあいとnon-verbalな触れあい

 

-「アイコンタクト」「うなずき」「相づち」「沈黙」「声のトーン」「笑い」-

 

 これまで論じた理論や概念を抜きにしても、ThClが会った瞬間から、すでに視線で触れあいが始まり、Clが話し始めれば「うなずき」「相づち」の形で触れあいが進んでいく。さらに沈黙にどう対応するか、声の大きさや話すスピードによっても、触れあっているかどうかの差は截然とする。そしてそれらがうまく進んでいった後に自然な「微笑み」や「笑い」にまで到達できれば、かなり触れあえているかもしれない。これらは全て基本的にはClのスタイルに合わせるべきである。アイコンタクトは「じっと見つめてくるClには、こちらもじっと見つめて」いく。反対に目を逸らしがちなClには、Thも見つめすぎないように」することが大切である。そして「ヒソヒソ話」には「ヒソヒソ話」で応じることで、静かだが劇的な触れあいが生じることもある。

 

もちろん、描画や箱庭による触れあいや、時によっては筆談も、例外的には動作療法のような身体的な触れあいもある。いずれにしてもnon-verbalな触れあいは、とてもインパクトも影響力も大きいのにThの側は、定型化して慣れっこになっていたり無神経になっていたりする場合がある。時々、自分の面接を録音・録画して、自己チェックや仲間同士のチェックを受けるとこのような歪みが修正できる可能性があるので、お勧めする。

 

 

 

Ⅴ 添った触れあいとズラした触れあい

 

 とくにnon-verbalな触れあいは、触れあっていればいいというものではないし、「Clにぴったり添った触れあいができていればいい」ということでもない。例えば、いつもとても明るく元気よく話すClにこちらも合わせて、明るく元気よく話し続けて「先生、能天気なんですね」と言われたことがある。反対に、Clに合わせて暗く沈黙がちに対応していて「そんな暗い顔しないでください」と言われてしまったこともある。どちらの例も、このように言われること自体は悪くないし、こう言い合える関係があるということは、関係作りに成功していると言える。しかし、このように言えずに不満を募らせていって、関係が修復不能にまでなる場合もある。

 

 声のトーン、話す速度、目線、沈黙、笑い等々のすべてに関して、Clのそれに合わせつつも「合わせ過ぎない」という「意図的なずらし」も必要なのである。速くて大きなしゃべり方には、それとかけ離れない程度のゆっくりめの中くらいの声で応じる。表面的な語りには、それよりもやや深めた内容で返すなどの意図的なズラシである。同様に、あまりにも沈んだ沈黙がちのClには、それよりもやや明るめの声で、少しThの方が言葉を多めにする場合も必要だと思う。笑いに関しては、ここで短く論じるのはとても難しいが、基本的にはClの笑いについていくべきであるが、「ごまかし」でない笑いが自然に起こるようなセッションは、これこそまさに触れあいの極意と言えるだろう。

 

 

 

Ⅵ 触れあうこと、それはパンドラの箱を開けるのに似たリスクを含む

 

 ここまで述べてきたが、「触れあい」がリスクをはらんだものだということを強調しておかなくてはいけない。自己開示も「今ここで」の解釈・直面化も、non-verbalなものも、すべて下手にやったらClを傷つけたり、セラピー関係を修復不能なまでに損なうことがありうる。

 

けれども、この「触れあうこと」なしには本当の変化が生じることが難しいケースが多いのも事実である。ある女性専門職のClは、30回近いセッションを経た後にThの対応のズレに対して、Thの促しに応じてかなり厳しいTh批判を繰り広げ、その後に初めてThへの信頼感がもて、自己愛人格傾向が弱まって行った。これも、通常ならば「何もしない」はずの所で、Thがあえて触れあっていったからこそ起こった怒りであり、厳しい批判であった。

 

 このように、触れあうことはそれまでClが固く閉ざしていた心の中の「パンドラの箱」を開けることにつながり、そこには激しい怒りや深い悲しみ、雪女のような触れるものすべてを凍てつかせる恨みが秘められているかもしれない。しかし、これを開けなければ変容が訪れないなら、慎重に意図的に開いていくしかないのである。

 

 

 

Ⅶ どのようなClにどのように触れあって行くのか

 

 では、本項の本題ともいうべき「どのようなClにどのように触れあっていけばいいのか」について、簡単に解説したい。福島(20062011)においては、Clの内省力と変化への動機づけを簡単な質問でアセスメントして、それに応じて大まかに4種類の態度と技法を調整すべきであるとした。 

 

ここにごく簡単にまとめれば、内省力と動機づけのともに高いClには、受身的中立的な態度で、まさにこれまでの教科書にあるような来談者中心的あるいは精神分析的な触れあいから、洞察を促すような態度がよい。しかし、動機づけが高くとも内省力の乏しいClには、Thがリードしつつ触れあいつつ、心理教育を中心とした関わりが必要である。さらに内省力が高くとも変化への動機づけが低い場合には、Thは積極的に感情面に触れたり、Th自身の感情をある程度開示したり、「肯定的介入」でClと触れあったりしないと変化が生じない。最後に動機づけと内省力のともに低い場合には、触れあい自体が難しいが、Thの肯定的な触れあいや、時にはTh自身の失敗談や挫折体験をすら含んだ「体験の自己開示」が有効な場合もある。本特集の別項「ミラクルクエスチョン」や「リフレーミング」が特に有効なのも、この領域のClである。(2.参照)

 福島先生治療理論2 修正版

福島の統合モデルでは、これら以外にClのスピリチュアルな次元にも、響きあう領域で深めていくということも含まれている(3.参照)が、詳しくは上記の論文や著書を参照していただきたい。

 

福島先生治療理論3 

 

 

Ⅷ 今後の展開

 

筆者は、ここ数年、これまで述べてきたような「触れあい」に関して、シンプルに「ClThの心理的距離」という視点からとらえられないかを試みている。2つのスケールを、カウンセリング・ロールプレイや試行カウンセリング、さらにはカウンセリング実験の評定軸として用いて、ある程度の有効性が確認できている(樽澤・福島2015)。少なくともTh側がこのようなスケールを頭に入れて、「今ここで」の関係性への感覚を研ぎ澄ますことが何より重要と思われる。

  さらにMallinckrodt,B. et al.(2014)によって試みられているような、理想的な「治療的距離」とClのアタッチメント・スタイルとの関連を探ることによって、Clごとに異なる理想的な触れあいを提供する際の指標となるのではないかと考えている。Mallinckrodt,B. et al.によれば、治療前に回避的なアタッチメント・スタイルを示したClThの関わりを「近すぎる」ものとして知覚し、反対に治療前に不安を感じていたClThの関わりを「遠すぎる」と知覚していたという。さらに、治療の進展によって回避的だったClThに対して関わりをもつようになり、反対に治療前に不安の高かったClは、期待に反して治療後も自律性が高まっていなかったとしている。

 

 この研究はまだまだ試論の段階であり、Clのアタッチメント・スタイルや治療的距離をどのように測定するかという方法上の問題もあるが、「個々のClに最適な触れあいを探る」という点では、可能性に満ちた研究だと言える。

 

 いずれにしても、触れあい方に唯一正しい定式化された解はない。何らかの指標を持ちながら、その瞬間瞬間に最適なものを選び取っていくしかない。その意味で、「探究する姿勢」が欠かせないということを強調して、この項を終わりたい。

 

 

 

文献

 

Bion,W.R.(1970). Attention and Interpretation. Tavistock, London. Maresfield Reprints, London, 1984

 

Fosha, D. (2000). Transforming power of affect: A model of accelerated change. New York: Basic Books.

 

福島哲夫(2006)心理臨床学の基礎としての折衷・統合的心理療法-基本的態度の微調整と技法選択に関する試論-.大妻女子大学人間関係学部紀要,84961

 

福島哲夫(2011) 心理療法の3次元統合モデルの提唱より少ない抵抗と、より大きな効果を求めて

 

本サイコセラピー学会雑誌 第12巻第1 51-59

 

Greenberg LS, Rice LN, & Elliott R1993):Facilitating Emotional Change : The Moment-by-Moment Process. New York: The Guilford Press. 岩壁茂(訳)(2006):感情に働きかける面接技法-心理療法の統合的アプローチ- 誠信書房

 

生田憲正(1996)精神分析および精神分析的精神療法の実証研究(その1)-メニンガー財団精神療法研究プロジェクト-精神分析研究 第40巻、1-9.

 

カルフ,D.(1999)カルフ箱庭療法[新版](山中康裕監訳) 誠信書房

 

Mallinckrodt,B. ,Choi,G.,& Daly,K.D.(2014) Pilot test of measure to assess therapeutic distance and association with client attachment and corrective experience in therapy. Psychotherapy Research,

 

Linehan MM1993):Skills training manual for treating borderlines personality disorder. New York: Guilford Press.

 

樽澤百合・福島哲夫(2015)カウンセリング場面における聴き手の頷き量が話し手に与える影響に関する実験研究-知覚された共感性、快感情、心理的距離に注目して-.日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.

 

2019年

6月

22日

弱いは強い、強いは弱い?

最近、マスコミでは様々な心の問題に関連する事件が報道されています。ピエール瀧さんの薬物嗜癖から、引きこもり傾向の40~50代の方に関係する事件等々です。

 

それらの事件報道に心を痛めていたら、数十年前のクライエントさんのこんな言葉を思い出しました。

 

「僕は確かに、いろいろ弱いです。いろいろなことが気になって、すぐに眠れなくなったり、体調が崩れたり気持ちがくじけたりします。でも、こうやってこれまでやって来れました。そして誰よりも継続できてます。

つまり、僕は自分の弱さを知ってるし、だからこそそれを踏まえて、それに備えていろんな人に相談したり、いろんな工夫をしてます。つまり弱いから強いんです。」と。


当時、まだ30歳そこそこの若手カウンセラーだった僕は、その言葉に心底感銘を受けて、ひたすら泣きながら、うなずきながらその言葉を聞きました。


そこに「強さ」と「弱さ」のパラドックスを超えた、人間のあり方の本質的なものを感じたのです。そして、それをさまざまな挫折や紆余曲折と試行錯誤とを繰り返した後に、やっとたどり着いた言葉として本人の口から発せられたのが、とても感動的だったのです。


当時、彼はそれまで彼を虐めてからかいの対象としてきた母親と姉とに対しては、やっと距離を取ることができるようになりつつ、職場の上司やカウンセリングを上手に頼って、自分なりの生き方をつかんで行ったところでした。


つまりここには「自分の弱さを受け入れて、上手に複数の、しかるべき人に頼る」という理想的な対処スタイルが出来つつあり、すなわちそれが「強さ」だという洞察とプライドにも至っていたわけです。


反対に、今回報道されている事件の人たちを見ると、(あくまでも報道されている限りでは)何とか強気で頑張ろうと「強さ」だけに頼ってしまって、ヤケを起こして強気に暴発してしまって、結果的には社会的に孤立して「弱く」なってしまっていたのだと思わざるを得ません。


幸いにしてピエール瀧さんは、釈放後は、石野卓球さんや家族にうまく頼れているのかもしれないとも思えるので、そこには希望を感じます。


元野球選手の清原さんも、以前の「強がり番長」的な雰囲気で家族や仲間からは孤立していた様子から、現在はさまざまな治療仲間やコミュニティの中で、支え合って生きているご様子です。


やっぱり「弱いは強い、強いは弱い」ですよね。


マスコミにもこの辺りを是非わかってほしいですし、当事者叩きの伝統をいち早く放棄してほしいものです。

2019年

6月

07日

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるべきなのか?ークライエントさんからの手紙よりー

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるのがいいのでしょうか?

 

この点について、クライエントさんからも若手カウンセラーからもよく尋ねられます。

そして、これは実に難しいテーマです。

 

すべて一概・一律に言えない、例外の多いことなのですが、あえて単純化して書くとこんな感じです。

 

★いつ始めるべきか?

・・・これは、もういつでも思い立った時が最適の時です。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにしたいものです。ただし、統合失調症やうつ病が急激に悪化した時には、カウンセリングはふさわしくありませんので、それが疑われるときには医療を優先し、主治医の指示に従いましょう。もし医師の言葉が疑わしくても、ちゃんとした臨床心理士・公認心理師なら同じことを言ってくれるはずです。

 

★いつ終わるべきか?

・・・これこそ難しい問題です。症状や悩みによっても、ご本人の動機づけによってもかなり変わります。私としては「カウンセリングってどれくらいの期間や回数がかかるんですか?」というご質問には以下のように答えています。

 

「人によって全く違うのですが、とりあえず10回通っていただくとかなり様子がわかりますし、場合によってはかなり効果も感じられます。そして20回通っていただければ、ある程度効果が実感できるはずです。」と。

 

そして「でも、本格的に変わるためには2年ほどかかる場合が多いです」「2年くらい通うと『これまでと全く違う日々です』とか『こんなに穏やかに暮らせるのは生れて初めてです』とおっしゃる人も少なくありません」とお答えしています。

実際そのような形で、周囲もご本人も見違えるように変化して、きっちりと終わっていかれる方も少なくありません。

 

また、それまで何年にもわたって薬が欠かせなかった双極性障害の方がすっかり良くなって再発もせず、でもそこから今度は人生そのものの課題に取り組んでいかれるために、カウンセリングを利用するというタイプの方もいらっしゃいます。

 

これらは、すべて事実なのですが、これでも表現しきれない様々な個別性があります。そして、上記のように「これまでと全く違う日々」を過ごせるようになれた方が、大多数とは言い切れないのも事実です。

 

そこそこ多い方々が「問題がまったくなくなったわけでも、自分ががらりと変わったわけでもないけれど、自分との付き合い方がかなりよくわかってきたし、これからは何とか自分でやって行けると思う」という感じでの終結するように思われます。

 

最近このような実感がとてもよく伝わるお手紙をいただきました。

以下は、最近福島があるクライエントの方からいただいたお手紙です。

ご本人の了解を得て、一部を微修正・省略のうえ掲載させていただきます。

 

★クライエントさんからのお手紙

このクラエントさんは、福島が担当した女性の方です。

幼少期からの家族関係の問題と、父親からの虐待、それに続く様々なトラウマティックな出来事の中で苦しんでこられた人でした。

 

当オフィスにおいでになる前に、2か所のカウンセリングを短期間で中断した経験のある方でした。

はじめはほぼ毎週、そして、だんだんと1か月から数か月に一回のペースになって、次の予約を3か月後にして、しばらくたった後にいただいたお手紙です。

 

***********

 福島先生こんにちは。

 次回のカウンセリングをお休みしたいと思い、気持ちが固まったのでお伝えします。

すぐにこの場で終了という意味では全くありません。

 

 カウンセリングの位置づけを、私にとって「いつでも相談にゆける場所」、「どうしようもなくつらくなったら、すぐ戻ることができる部屋」として、日々の変化を自分の力で真剣に取り組みたいのです。一歩離れた場所からコツコツと。

 

 カウンセリングを始めてからずっと感じていた問いは、『カウンセリングの終了・完結って何だろう?」ということでした。きっと人それぞれ、ゴールや節目があったり、カウンセラーの立場としての正解のような地点があるのかと考えましたが、私は『これで私の納得いく答えは出た」「ここまでで、自分の成長は終わりだ」とは、きっとずっと思えなくて、それならば、曖昧なまま終わりを決めず、今、明確にあるベストなことを実行しつづけてゆくのが私の思う「自分とカウンセリングとのちょうど良い関係のありかた」だと思っています。

 

 人生も人も状況も変わってゆくのに、悩みも変化してゆくのに、「もうこれで大丈夫、先のこともやってゆける」とは、私は先生に言えません。

 

 でも、今は、ものすごい苦境の中にある暗闇から抜け出ていて、自分のつらさや悲しみを聴いてほしいという思いがあまりなく、、、カウンセリングで学んだことや変わった自分で、前を向いて生きてみたいと感じます。自分をこれから幸せにしてゆくぞ!と希望を持てたり、自らの経験をいつか誰かのために優しい力に変えたいなと、思うのです。

 

 今までは助けてもらったり必要な支援、また愛情を与えてもらう側でしたが、その立場はもう卒業かなと思うのです。

 

今度は私が、自分で自分をよろこばせたり自身で自己成長を、試行錯誤を重ねていく時です。そして、今まで私を決して諦めないでくれた先生からの心からの安心感、信頼、無条件の愛や支えを受け取ったぶん、今度は私が、なにかや誰かのために、それを注げる人になりたいと思います。

 

(中略)

 

内向的、繊細でとても過敏な性格の自分が生きてゆくには、何に気をつけて、何を大切にしていけば苦しくないのかを、長くカウンセリングで学びました。(中略)つらさに自らを追い込まぬように、傷付いた後の「感情と出来事の受け止めと、捉えなおし」ができたら、それは強い成長として、今後のパワーになります。(中略)

 

そうした一連の気づきや学びを、静かに導いて教えてくれて「変化」への作業をサポートしてくれのが、福島先生でした。いくつものチャレンジもできました。

 

 特別大それた何者かになれた訳じゃないけど、私の人生は、こうした「生き方の術を、自分らしくフィットさせる方法」、「挫折や逆境が教えてくれたことを自分のために武器や味方にすること」によって、大きく変わりました。光の部分と影の部分があって、その中心に立ち続けることはできないけど、角度を変えつつ身動きがとれる、ダンスのバリエーションを増やせた感じですごく嬉しいです。

 

 なので、カウンセリングをしていて、ながーく先生とお付き合いさせていただく中で、いつしか私は私と仲良くなりたいと思えたり、私がとても好きになりました。すごく大事な、人生の自己投資でした。(中略)カウンセリングをして、先生と関わることができて私は多くの状況が改善し、私の内面や生き方も変わりました。でも、私にあった「弱み」を捨ててしまったり、涙の記憶を忘れてしまわぬよう、「くじけた私」をいつまでも憶えていたいです。ひとつひとつを、心の中で小さな優しさの種にして、つらい事や痛みを体験した人の気持ちを、大切にしたいからです。

 これからは、先生にご相談をしたい時にピンチになる前に先生を訪れて、自分で見落としていることの自己点検をし、自分の力で前に進める時は、自分の力や周りの人たちの支えを利用してがんばってゆく、そんなやり方で力をつけて行きたいと思います。

 

 これが今の嘘のない気持ちです。

************引用ここまで

 

いかがでしょうか?

 

問題がきれいさっぱりとなくなって終わるのとは違う、「日々成長しながら、ここからは自分の力で取り組んでみたい」というタイプの終結の様子がとても率直な文章でつづられた、素晴らしいお手紙だと思います。

 

このようにだんだんとカウンセリングの間隔をあけていって、「また、相談したいことができたらピンチになる前に行く」という形の終結もとてもリアルで現実的だと思います。

 

カウンセリングで何をつかんでいかれたかは、もう解説の必要がないくらい、明確に書かれています。

 

カウンセラーとして、このようなリアルで、でも確実に成長されている様子を、お手紙や直接お会いして教えていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさに「カウンセラー冥利に尽きる」とはこのことだと思います。

 

以上

2019年

5月

18日

セルフコンパッションでセックスレス解消にもー上手に自分を慈しめば、相手にも慈しまれる

ここ2回のブログでは「家事をしない男性」についてや「男をどう育てるか」というテーマで、やや男性に厳しい内容を書いてきました。

 

でも、もちろん、女性にも課題がないわけではありません。

なので、「女性がもっとこうするといい」と思われる点について、書いてみます。

 

男に家事をやってもらうためには、もちろん頼み方や言い方に「アサーティブネス(自他を尊重する自己表現)」が必要です。けれども、そのアサーティブネスを生み出すもとにあるものは何かというのが、今日のテーマです。

 

日本ではセックスレスが当たりまえ?

日本のカップルの半数近くがセックスレスだというニュースが話題になってから、もう10年近くになるでしょうか?

もちろん、この状況は現在も続いています。

 

ーーー以下引用(https://lulucos.jp/by-s/article/574081301889880595より)
「日本性科学会」の定義では、セックスレスとは「特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」
また、「第8回男女の生活と意識に関する調査報告書2016年(一般社団法人日本家族計画協会)」によると、セックスレス状態の日本の夫婦は47.2%に上る。

ーーー引用以上



もう10年以上前なので、ちょっとだけ書かせていただくと、当時私のクライエントさんたちの中にもすでに、「不倫なのにセックスレス」「セフレなのにセックスレス」と嘆く人もいました。

 

最近では、女子大学生たちにもしばしばこの悩みを聞かされます。

 

この問題には様々な立場から、様々な意見が出されています。

男性の性欲の変化から男女の働き方の問題、経済格差等々です。

これらすべてに一理ありますが、ここでは、あえて「女性の側の心理学的問題」に絞って考えてみましょう。

 

これももう10年以上前から、上記のようなセックスレスに悩む方の相談が増えてきて、そういう女性たちの共通点がおぼろげに見えてきました。

それは、皆さん十分に魅力的な方たちなのに、なぜか複数回お会いしていても「ゆったり感」が感じられないということです。

 

もちろん、こちらはできるだけリラックスしていただけるように「共感的うなずき、相づち」「ゆっくり間を取ること」などを心がけているのにです。

こうすると、ほとんどの方が1回目の後半部分で、すでにかなり「ゆったり感」が出てくるにもかかわらずです。

 

そこで、ある一人の女性に意を決して言ってみました。

「お会いしてお話を伺っていると、あなたはとても頑張り屋さんで、夫のためにもいろいろと献身的にやっていらっしゃいますよね。そして、疲れてバタンと寝てしまうことも多い。つまり、すごく頑張っているかバタンと寝てしまっているかで、その中間のゆったりする時間が持てていない感じがします。家事を少しさぼってもいいから、ゆったりと自分を慈しむ、自分をいとおしむ時間を作ってみませんか」と。

 

具体的にはスキンケアなどをあえてゆっくり、夫の目に触れるところでする。休日の朝や夜はあえてゆったりと、自分の好きなお茶を飲んだりして過ごすなどをアドバイスしました。

 

この女性は、元々とても素直な頑張り屋さんだったので、私のこのアドバイスもそのまま取り入れて、「頑張って」ゆったりと自分を慈しむ時間を作るようになりました。

 

すると驚いたことに、たった数週間でこれまで1年以上もセックスレスで、言葉で言うと必ず喧嘩になっていた夫が自然に誘ってきて、セックスできたとのことでした。そして、さらに彼女が自分を慈しむ行動を取っていると、何となく自分に自信が持てて、こちらからもタイミングを見て誘うことができて、とても愛情に満ちたセックスできたということでした。(どういう時がタイミングかというのは、僕が詳しく教えました)

 

セルフ・コンパッション(コンパッション・フォーカスト・セラピー)

まだ、当時セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)という言葉はあったものの、それに焦点を当てたコンパッション・フォーカスト・セラピーは、日本に導入されていませんでした。

 

このセルフ・コンパッション(self-Compassion)とは「苦悩や失敗場面、あるいは自分が不十分であると感じる状況において自己に向けられるケアや思いやり」と定義されています(Neff,2003)。このセルフ・コンパッションには以下の下位概念があるとされています。

 

(1)苦痛や困難に直面したときに自己への情動反応としての「自己への思いやり(その反対は自己批判)」

 

(2)自己の困難な体験への認知的理解である「共通の人間性(その反対は孤立)」(人はみんなこういう時には悩むものだと思えるか、こんなことに悩んでいるのは私だけだし、私が劣っているからだと思ってしまうか)

 

(3)苦しみへの注目の仕方を表すとされる「マインドフルネス(その反対は過剰な囚われ)」

 

これら3つは相互に関連する要素であり、セルフ・コンパッションが高い人は、困難な出来事や自己の感情をバランスよく客観的に捉えることを促すため、自尊感情とは正の相関、反芻や失敗へのおそれとは負の相関関係があるとされています。

 

そして、近年このセルフ・コンパッションの能力を育てることに焦点を当てた介入技法として先述のコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)が注目されています。このCFTの介入技法は、まず脳内の脅威システム・獲得達成システム・鎮静システムの3つの働きと感情について心理教育し、最終的にクライエントの持つ恥感情や自己批判を和らげることを目標とします。そのために「自分へのやさしい眼差し」を意識した呼吸法や、「自分を批判する自分」「自分を慈しむ完璧な養育者」についてのコラム法を実施します。さらには、自分に向けた慈しみの手紙を書くなど、技法としてはまさに統合的なセラピーそのものです。

 

ただし、これらの介入のすべてに「自分への慈しみ」を促進するという目的がはっきりと含まれているのが特徴です。また、どのような学派のどのような技法とも合わせて用いることが可能で、相乗効果が期待できるとされています。

 

CFTの開発者であるGilbert,P.は、CFTはクライエントが抱える問題だけでなく、セラピスト側にも恩恵をもたらすと述べています。私も、このCFTのワークショップに参加してみましたが、3日間受けるうちにどんどん自分の中でセルフ・コンパッションが高まっていくのを実感しました。

 

セックスレス解消にもCFT!

そして、10年前の上記の事例を思い出したのです。

「そうだ、あの時実際にはセルフ・コンパッション・セラピーの心理教育と同じことをやっていたんだ」

「セルフ・コンパッション・セラピーの発想はセックスレス解消にもとても有効なんじゃないか」と。私たちは、知らず知らずのうちに自己批判的になり、自分を虐げたりしています。あるいは、自己批判のあまり他者批判的にもなってしまっています。ちなみに今の日本はその傾向がどんどん高まっているように感じます。(さらに言えば、今の日本の少子化対策に欠けているのは、このセルフ・コンパッションなのではないでしょうか)

 

この自己批判を少しでも和らげて、自己を慈しみ、その延長で他者を慈しむ傾向が少しでも強まると、現実の人間関係もぐっと良くなるのです。

 

そして、それはカップルにおいては「セックスレス解消」というとても具体的・現実的・今日的な問題解決にも直結するのです。

 

ちなみに現在、成城カウンセリングオフィスでは、このCFTも含んだ介入技法の効果研究をしています。

 興味のある方は、このホームページの「研究協力のお願い」をご覧ください。

 

以上

 

 

2019年

5月

12日

男を育てるのは誰?-育メンより先にまずメン育?

★男を育てるのは誰の責任?

5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。

 

では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?

放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。

その意味では、誰かが育てないといけないのです。

もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。

 

家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。

 

言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。

 

もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。

過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.

 

けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。

 

この男女差は何なのか、いろいろと考えました。

そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。

 

ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。

反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。

 

人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。

 

本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。

 

あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。

 

現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。

 

普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。

 

そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。

 

というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。

「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。

 

上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。

 

その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。

 

ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。

 

共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。

 

このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。

 

以上

2019年

5月

03日

男の仕事と家事育児ー男の家事参加と社会構造改革

とっても久しぶりのブログ更新です。

 

この1年の間に、福島の身に起こった大きな出来事といえば、なによりも「公認心理師」関連です。

必携テキストの執筆・編集から大ヒット、そして必須センテンスの編集とその反響₍ポジティブとネガティブいろいろありました!)、さらに国家試験本番です。

年が明けてからは「国試問題解説」と「マンガでやさしくわかる公認心理師」も出版しました。

 

これらを一応、無事にしのいできました!

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、この1年、いろいろな人や事件、マスコミからも家事と育児、そして男女格差の問題について考えさせられてきました。

私は元より男女同権論者ですし「男も家事育児を十分にやって当然」という立場です。

さらに女子大の教員としても、生来のバランス重視派としてもどちらかというと女性の権利擁護の方に重点を置きたいのが本音です。

そして、別のブログや小論文にも書きましたように、私自身30歳の頃から「家事をやらない人のあらゆる言説は信用しない」という原則を立てて、今も守っているつもりです。

そもそもなぜそう決めたのか、今振り返ると家事をやらない人には、私が大切にしている「日常性へのリスペクト」が圧倒的に欠けているからです。

 

けれども2000年を過ぎてもうすぐ20年になろうとする今日この頃、改めて家事・育児をしない若い男性たちに何人も出会って、今更ながらに驚いたこの1年でした。

「苦手だからしない」「仕事で疲れているからできない」「妻に言われれば、その都度やっているから充分」等々、全部ごもっともです。

さらに驚くことに、私の勤務先の女子大学の男性教員たちも家事をしていない人が多いということに気付かされました。

専攻内の男性教員はもちろん、先日立ち話をしていて明らかになったのは前学部長、現副学長も家事はほとんどやらず、家事をしているのは、学長と私だけでした。

 

最近の調査でも、以下のような結果が出ています。

「フルタイムで共働きをしている夫婦1,000名の家事の分担状況について「妻がほとんど担う」は27%、「妻が主だが、夫も少し分担」が38%で、あわせて64%の共働き家庭で妻がメインで家事を担っていることが示されました。なお、「妻と夫で分担」しているという家庭は31%です。」https://honote.macromill.com/report/20181030/

 

この事実は何を意味しているのでしょうか?

しかも、私の偏見で言わせていただければ、現実的かつ柔軟に仕事をこなしている男は家事もやっているのです。(上記の具体例からも言えるのですが、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます)

 

そもそも家事・育児という日常性やリアリズムの最たるものを、そんな形で誰かに任せてしまえて、大丈夫なのでしょうか?

それで仕事はうまくいくのでしょうか?

 

★妻の理想化と奴隷化、それは紙一重ーどちらもマザコン?

(以下の記述は、すべて男女を逆にしても成り立ちますし、同性カップルにも成り立つので、その際には「男女」を入れ替えたり、「パートナー」にしたり「母を父に」読み替えてください。ただ、個人的にはやはり男性の女性に対する甘えが顕著なので、基本的に「夫」の問題として記述しました。)

 

パートナーに対する極端な理想化は、それがそのまま奴隷化の裏返しです。

例えば「うちの妻は家事・育児は任せて大丈夫」「うちのパートナーはいつどんな時でもとても優しいから決して怒らない(あるいは怒るけれど、すぐにご機嫌が直る)」などの発言は、すでにそこにパートナーの優しさに甘えている様子が見られる場合があります。これは相手を理想化しているからこそできることです。「妻はいつも綺麗で笑顔でいて欲しい」「夫はいつも頼りがいのある立派な男でいてほしい」という気持ちや発言の裏にあるものと同じです。

 

もちろんその反対に「僕は忙しく働いているんだから、すべて僕に従って欲しい」という発言には相手を奴隷化している姿勢が見られます。

 

本来、パートナーは相互作用で成り立っているのですから、自分のあり方を抜きにして「全部やってもらえるはず」「いつも綺麗で笑っていられるはず」ということはあり得ません。家事から笑顔まで、夫婦はすべて「お互い様」であるはずです。

 

★専業主婦の存在は歴史のごく一時期だけ

 男性に家事の話をすると「僕の母親は専業主婦だったので、父親が家事をするのを見たことがない・・・」と言葉を濁す人が少なくありません。たしかにそうだったのかもしれません。現在の30代~50代は、母親が専業主婦として家にいて、家事はすべて母親がやり、夫や息子が家事をすることを良しとしない世代だったかもしれません。

 

 けれども、これは、日本史上まれに見るほんの一時期の出来事です。それ以前は、主婦と言っても家の近くの畑で野菜を育てたり、商売をほぼ対等に切り盛りしたり、それがなくても水汲み洗濯など、とても忙しかったし、平成の後半からは夫婦共働きが圧倒的に多くなってきているのです。

 

このようなごく一時期の生活習慣を、まるで普遍的なもののように考えるのは、妥当性が低いと言わざるを得ないでしょう。

 

★平成の30年間を通じて、男たちはまた甘えるようになってきている?

 バブルの頃の男たちは、浮かれてはいてもあまり甘えてはいなかったように思います。その前の高度経済成長期もそうだったかもしれません。もちろん、その陰で過労死や過労自殺などの悲しい事例はたくさんあったのかもしれません。

 

 ところが、この30年近く、日本の男たちは元気がなくなり、それだけでなく「構造改革」を不十分なままにして、政治・経済・産業構造・教育・研究等々のすべての分野で、中途半端に甘え、現状維持にしがみついていると指摘する識者も複数います。なかでも特にマスコミと司法制度と教育制度は、世界水準から相当に遅れているのは、数々の指標から疑いのないところでしょう。

 

 もちろん、それ以前、明治期の男性たちが「男尊女卑」の名の下に、女性に甘えていたのは様々な文献や小説からも明らかなことです。

 

家事をしない男たちというのも、時代に流れによって見え隠れする、男たちの甘えのその一環に過ぎないのかもしれません。

 

このように考えていくと、現代日本で司法制度やマスコミにおいて、人権尊重がなかなか進んでいかないのも、こういう男性たちの甘えから来ているのではないかとすら思えてきます。

先進国では他に例を見ない「人質司法」や「被害者・加害者バッシング」の主導者たちが、日々家事をしているとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?

 この際、私たちは一番身近な「家事」という視点から、構造改革を徹底しないと、新しい時代についていけないのではないでしょうか?

 

 

 (終わり)

 

2019年

6月

22日

弱いは強い、強いは弱い?

最近、マスコミでは様々な心の問題に関連する事件が報道されています。ピエール瀧さんの薬物嗜癖から、引きこもり傾向の40~50代の方に関係する事件等々です。

 

それらの事件報道に心を痛めていたら、数十年前のクライエントさんのこんな言葉を思い出しました。

 

「僕は確かに、いろいろ弱いです。いろいろなことが気になって、すぐに眠れなくなったり、体調が崩れたり気持ちがくじけたりします。でも、こうやってこれまでやって来れました。そして誰よりも継続できてます。

つまり、僕は自分の弱さを知ってるし、だからこそそれを踏まえて、それに備えていろんな人に相談したり、いろんな工夫をしてます。つまり弱いから強いんです。」と。


当時、まだ30歳そこそこの若手カウンセラーだった僕は、その言葉に心底感銘を受けて、ひたすら泣きながら、うなずきながらその言葉を聞きました。


そこに「強さ」と「弱さ」のパラドックスを超えた、人間のあり方の本質的なものを感じたのです。そして、それをさまざまな挫折や紆余曲折と試行錯誤とを繰り返した後に、やっとたどり着いた言葉として本人の口から発せられたのが、とても感動的だったのです。


当時、彼はそれまで彼を虐めてからかいの対象としてきた母親と姉とに対しては、やっと距離を取ることができるようになりつつ、職場の上司やカウンセリングを上手に頼って、自分なりの生き方をつかんで行ったところでした。


つまりここには「自分の弱さを受け入れて、上手に複数の、しかるべき人に頼る」という理想的な対処スタイルが出来つつあり、すなわちそれが「強さ」だという洞察とプライドにも至っていたわけです。


反対に、今回報道されている事件の人たちを見ると、(あくまでも報道されている限りでは)何とか強気で頑張ろうと「強さ」だけに頼ってしまって、ヤケを起こして強気に暴発してしまって、結果的には社会的に孤立して「弱く」なってしまっていたのだと思わざるを得ません。


幸いにしてピエール瀧さんは、釈放後は、石野卓球さんや家族にうまく頼れているのかもしれないとも思えるので、そこには希望を感じます。


元野球選手の清原さんも、以前の「強がり番長」的な雰囲気で家族や仲間からは孤立していた様子から、現在はさまざまな治療仲間やコミュニティの中で、支え合って生きているご様子です。


やっぱり「弱いは強い、強いは弱い」ですよね。


マスコミにもこの辺りを是非わかってほしいですし、当事者叩きの伝統をいち早く放棄してほしいものです。

2019年

6月

07日

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるべきなのか?ークライエントさんからの手紙よりー

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるのがいいのでしょうか?

 

この点について、クライエントさんからも若手カウンセラーからもよく尋ねられます。

そして、これは実に難しいテーマです。

 

すべて一概・一律に言えない、例外の多いことなのですが、あえて単純化して書くとこんな感じです。

 

★いつ始めるべきか?

・・・これは、もういつでも思い立った時が最適の時です。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにしたいものです。ただし、統合失調症やうつ病が急激に悪化した時には、カウンセリングはふさわしくありませんので、それが疑われるときには医療を優先し、主治医の指示に従いましょう。もし医師の言葉が疑わしくても、ちゃんとした臨床心理士・公認心理師なら同じことを言ってくれるはずです。

 

★いつ終わるべきか?

・・・これこそ難しい問題です。症状や悩みによっても、ご本人の動機づけによってもかなり変わります。私としては「カウンセリングってどれくらいの期間や回数がかかるんですか?」というご質問には以下のように答えています。

 

「人によって全く違うのですが、とりあえず10回通っていただくとかなり様子がわかりますし、場合によってはかなり効果も感じられます。そして20回通っていただければ、ある程度効果が実感できるはずです。」と。

 

そして「でも、本格的に変わるためには2年ほどかかる場合が多いです」「2年くらい通うと『これまでと全く違う日々です』とか『こんなに穏やかに暮らせるのは生れて初めてです』とおっしゃる人も少なくありません」とお答えしています。

実際そのような形で、周囲もご本人も見違えるように変化して、きっちりと終わっていかれる方も少なくありません。

 

また、それまで何年にもわたって薬が欠かせなかった双極性障害の方がすっかり良くなって再発もせず、でもそこから今度は人生そのものの課題に取り組んでいかれるために、カウンセリングを利用するというタイプの方もいらっしゃいます。

 

これらは、すべて事実なのですが、これでも表現しきれない様々な個別性があります。そして、上記のように「これまでと全く違う日々」を過ごせるようになれた方が、大多数とは言い切れないのも事実です。

 

そこそこ多い方々が「問題がまったくなくなったわけでも、自分ががらりと変わったわけでもないけれど、自分との付き合い方がかなりよくわかってきたし、これからは何とか自分でやって行けると思う」という感じでの終結するように思われます。

 

最近このような実感がとてもよく伝わるお手紙をいただきました。

以下は、最近福島があるクライエントの方からいただいたお手紙です。

ご本人の了解を得て、一部を微修正・省略のうえ掲載させていただきます。

 

★クライエントさんからのお手紙

このクラエントさんは、福島が担当した女性の方です。

幼少期からの家族関係の問題と、父親からの虐待、それに続く様々なトラウマティックな出来事の中で苦しんでこられた人でした。

 

当オフィスにおいでになる前に、2か所のカウンセリングを短期間で中断した経験のある方でした。

はじめはほぼ毎週、そして、だんだんと1か月から数か月に一回のペースになって、次の予約を3か月後にして、しばらくたった後にいただいたお手紙です。

 

***********

 福島先生こんにちは。

 次回のカウンセリングをお休みしたいと思い、気持ちが固まったのでお伝えします。

すぐにこの場で終了という意味では全くありません。

 

 カウンセリングの位置づけを、私にとって「いつでも相談にゆける場所」、「どうしようもなくつらくなったら、すぐ戻ることができる部屋」として、日々の変化を自分の力で真剣に取り組みたいのです。一歩離れた場所からコツコツと。

 

 カウンセリングを始めてからずっと感じていた問いは、『カウンセリングの終了・完結って何だろう?」ということでした。きっと人それぞれ、ゴールや節目があったり、カウンセラーの立場としての正解のような地点があるのかと考えましたが、私は『これで私の納得いく答えは出た」「ここまでで、自分の成長は終わりだ」とは、きっとずっと思えなくて、それならば、曖昧なまま終わりを決めず、今、明確にあるベストなことを実行しつづけてゆくのが私の思う「自分とカウンセリングとのちょうど良い関係のありかた」だと思っています。

 

 人生も人も状況も変わってゆくのに、悩みも変化してゆくのに、「もうこれで大丈夫、先のこともやってゆける」とは、私は先生に言えません。

 

 でも、今は、ものすごい苦境の中にある暗闇から抜け出ていて、自分のつらさや悲しみを聴いてほしいという思いがあまりなく、、、カウンセリングで学んだことや変わった自分で、前を向いて生きてみたいと感じます。自分をこれから幸せにしてゆくぞ!と希望を持てたり、自らの経験をいつか誰かのために優しい力に変えたいなと、思うのです。

 

 今までは助けてもらったり必要な支援、また愛情を与えてもらう側でしたが、その立場はもう卒業かなと思うのです。

 

今度は私が、自分で自分をよろこばせたり自身で自己成長を、試行錯誤を重ねていく時です。そして、今まで私を決して諦めないでくれた先生からの心からの安心感、信頼、無条件の愛や支えを受け取ったぶん、今度は私が、なにかや誰かのために、それを注げる人になりたいと思います。

 

(中略)

 

内向的、繊細でとても過敏な性格の自分が生きてゆくには、何に気をつけて、何を大切にしていけば苦しくないのかを、長くカウンセリングで学びました。(中略)つらさに自らを追い込まぬように、傷付いた後の「感情と出来事の受け止めと、捉えなおし」ができたら、それは強い成長として、今後のパワーになります。(中略)

 

そうした一連の気づきや学びを、静かに導いて教えてくれて「変化」への作業をサポートしてくれのが、福島先生でした。いくつものチャレンジもできました。

 

 特別大それた何者かになれた訳じゃないけど、私の人生は、こうした「生き方の術を、自分らしくフィットさせる方法」、「挫折や逆境が教えてくれたことを自分のために武器や味方にすること」によって、大きく変わりました。光の部分と影の部分があって、その中心に立ち続けることはできないけど、角度を変えつつ身動きがとれる、ダンスのバリエーションを増やせた感じですごく嬉しいです。

 

 なので、カウンセリングをしていて、ながーく先生とお付き合いさせていただく中で、いつしか私は私と仲良くなりたいと思えたり、私がとても好きになりました。すごく大事な、人生の自己投資でした。(中略)カウンセリングをして、先生と関わることができて私は多くの状況が改善し、私の内面や生き方も変わりました。でも、私にあった「弱み」を捨ててしまったり、涙の記憶を忘れてしまわぬよう、「くじけた私」をいつまでも憶えていたいです。ひとつひとつを、心の中で小さな優しさの種にして、つらい事や痛みを体験した人の気持ちを、大切にしたいからです。

 これからは、先生にご相談をしたい時にピンチになる前に先生を訪れて、自分で見落としていることの自己点検をし、自分の力で前に進める時は、自分の力や周りの人たちの支えを利用してがんばってゆく、そんなやり方で力をつけて行きたいと思います。

 

 これが今の嘘のない気持ちです。

************引用ここまで

 

いかがでしょうか?

 

問題がきれいさっぱりとなくなって終わるのとは違う、「日々成長しながら、ここからは自分の力で取り組んでみたい」というタイプの終結の様子がとても率直な文章でつづられた、素晴らしいお手紙だと思います。

 

このようにだんだんとカウンセリングの間隔をあけていって、「また、相談したいことができたらピンチになる前に行く」という形の終結もとてもリアルで現実的だと思います。

 

カウンセリングで何をつかんでいかれたかは、もう解説の必要がないくらい、明確に書かれています。

 

カウンセラーとして、このようなリアルで、でも確実に成長されている様子を、お手紙や直接お会いして教えていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさに「カウンセラー冥利に尽きる」とはこのことだと思います。

 

以上

2019年

5月

18日

セルフコンパッションでセックスレス解消にもー上手に自分を慈しめば、相手にも慈しまれる

ここ2回のブログでは「家事をしない男性」についてや「男をどう育てるか」というテーマで、やや男性に厳しい内容を書いてきました。

 

でも、もちろん、女性にも課題がないわけではありません。

なので、「女性がもっとこうするといい」と思われる点について、書いてみます。

 

男に家事をやってもらうためには、もちろん頼み方や言い方に「アサーティブネス(自他を尊重する自己表現)」が必要です。けれども、そのアサーティブネスを生み出すもとにあるものは何かというのが、今日のテーマです。

 

日本ではセックスレスが当たりまえ?

日本のカップルの半数近くがセックスレスだというニュースが話題になってから、もう10年近くになるでしょうか?

もちろん、この状況は現在も続いています。

 

ーーー以下引用(https://lulucos.jp/by-s/article/574081301889880595より)
「日本性科学会」の定義では、セックスレスとは「特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」
また、「第8回男女の生活と意識に関する調査報告書2016年(一般社団法人日本家族計画協会)」によると、セックスレス状態の日本の夫婦は47.2%に上る。

ーーー引用以上



もう10年以上前なので、ちょっとだけ書かせていただくと、当時私のクライエントさんたちの中にもすでに、「不倫なのにセックスレス」「セフレなのにセックスレス」と嘆く人もいました。

 

最近では、女子大学生たちにもしばしばこの悩みを聞かされます。

 

この問題には様々な立場から、様々な意見が出されています。

男性の性欲の変化から男女の働き方の問題、経済格差等々です。

これらすべてに一理ありますが、ここでは、あえて「女性の側の心理学的問題」に絞って考えてみましょう。

 

これももう10年以上前から、上記のようなセックスレスに悩む方の相談が増えてきて、そういう女性たちの共通点がおぼろげに見えてきました。

それは、皆さん十分に魅力的な方たちなのに、なぜか複数回お会いしていても「ゆったり感」が感じられないということです。

 

もちろん、こちらはできるだけリラックスしていただけるように「共感的うなずき、相づち」「ゆっくり間を取ること」などを心がけているのにです。

こうすると、ほとんどの方が1回目の後半部分で、すでにかなり「ゆったり感」が出てくるにもかかわらずです。

 

そこで、ある一人の女性に意を決して言ってみました。

「お会いしてお話を伺っていると、あなたはとても頑張り屋さんで、夫のためにもいろいろと献身的にやっていらっしゃいますよね。そして、疲れてバタンと寝てしまうことも多い。つまり、すごく頑張っているかバタンと寝てしまっているかで、その中間のゆったりする時間が持てていない感じがします。家事を少しさぼってもいいから、ゆったりと自分を慈しむ、自分をいとおしむ時間を作ってみませんか」と。

 

具体的にはスキンケアなどをあえてゆっくり、夫の目に触れるところでする。休日の朝や夜はあえてゆったりと、自分の好きなお茶を飲んだりして過ごすなどをアドバイスしました。

 

この女性は、元々とても素直な頑張り屋さんだったので、私のこのアドバイスもそのまま取り入れて、「頑張って」ゆったりと自分を慈しむ時間を作るようになりました。

 

すると驚いたことに、たった数週間でこれまで1年以上もセックスレスで、言葉で言うと必ず喧嘩になっていた夫が自然に誘ってきて、セックスできたとのことでした。そして、さらに彼女が自分を慈しむ行動を取っていると、何となく自分に自信が持てて、こちらからもタイミングを見て誘うことができて、とても愛情に満ちたセックスできたということでした。(どういう時がタイミングかというのは、僕が詳しく教えました)

 

セルフ・コンパッション(コンパッション・フォーカスト・セラピー)

まだ、当時セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)という言葉はあったものの、それに焦点を当てたコンパッション・フォーカスト・セラピーは、日本に導入されていませんでした。

 

このセルフ・コンパッション(self-Compassion)とは「苦悩や失敗場面、あるいは自分が不十分であると感じる状況において自己に向けられるケアや思いやり」と定義されています(Neff,2003)。このセルフ・コンパッションには以下の下位概念があるとされています。

 

(1)苦痛や困難に直面したときに自己への情動反応としての「自己への思いやり(その反対は自己批判)」

 

(2)自己の困難な体験への認知的理解である「共通の人間性(その反対は孤立)」(人はみんなこういう時には悩むものだと思えるか、こんなことに悩んでいるのは私だけだし、私が劣っているからだと思ってしまうか)

 

(3)苦しみへの注目の仕方を表すとされる「マインドフルネス(その反対は過剰な囚われ)」

 

これら3つは相互に関連する要素であり、セルフ・コンパッションが高い人は、困難な出来事や自己の感情をバランスよく客観的に捉えることを促すため、自尊感情とは正の相関、反芻や失敗へのおそれとは負の相関関係があるとされています。

 

そして、近年このセルフ・コンパッションの能力を育てることに焦点を当てた介入技法として先述のコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)が注目されています。このCFTの介入技法は、まず脳内の脅威システム・獲得達成システム・鎮静システムの3つの働きと感情について心理教育し、最終的にクライエントの持つ恥感情や自己批判を和らげることを目標とします。そのために「自分へのやさしい眼差し」を意識した呼吸法や、「自分を批判する自分」「自分を慈しむ完璧な養育者」についてのコラム法を実施します。さらには、自分に向けた慈しみの手紙を書くなど、技法としてはまさに統合的なセラピーそのものです。

 

ただし、これらの介入のすべてに「自分への慈しみ」を促進するという目的がはっきりと含まれているのが特徴です。また、どのような学派のどのような技法とも合わせて用いることが可能で、相乗効果が期待できるとされています。

 

CFTの開発者であるGilbert,P.は、CFTはクライエントが抱える問題だけでなく、セラピスト側にも恩恵をもたらすと述べています。私も、このCFTのワークショップに参加してみましたが、3日間受けるうちにどんどん自分の中でセルフ・コンパッションが高まっていくのを実感しました。

 

セックスレス解消にもCFT!

そして、10年前の上記の事例を思い出したのです。

「そうだ、あの時実際にはセルフ・コンパッション・セラピーの心理教育と同じことをやっていたんだ」

「セルフ・コンパッション・セラピーの発想はセックスレス解消にもとても有効なんじゃないか」と。私たちは、知らず知らずのうちに自己批判的になり、自分を虐げたりしています。あるいは、自己批判のあまり他者批判的にもなってしまっています。ちなみに今の日本はその傾向がどんどん高まっているように感じます。(さらに言えば、今の日本の少子化対策に欠けているのは、このセルフ・コンパッションなのではないでしょうか)

 

この自己批判を少しでも和らげて、自己を慈しみ、その延長で他者を慈しむ傾向が少しでも強まると、現実の人間関係もぐっと良くなるのです。

 

そして、それはカップルにおいては「セックスレス解消」というとても具体的・現実的・今日的な問題解決にも直結するのです。

 

ちなみに現在、成城カウンセリングオフィスでは、このCFTも含んだ介入技法の効果研究をしています。

 興味のある方は、このホームページの「研究協力のお願い」をご覧ください。

 

以上

 

 

2019年

5月

12日

男を育てるのは誰?-育メンより先にまずメン育?

★男を育てるのは誰の責任?

5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。

 

では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?

放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。

その意味では、誰かが育てないといけないのです。

もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。

 

家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。

 

言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。

 

もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。

過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.

 

けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。

 

この男女差は何なのか、いろいろと考えました。

そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。

 

ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。

反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。

 

人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。

 

本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。

 

あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。

 

現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。

 

普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。

 

そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。

 

というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。

「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。

 

上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。

 

その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。

 

ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。

 

共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。

 

このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。

 

以上

2019年

5月

03日

男の仕事と家事育児ー男の家事参加と社会構造改革

とっても久しぶりのブログ更新です。

 

この1年の間に、福島の身に起こった大きな出来事といえば、なによりも「公認心理師」関連です。

必携テキストの執筆・編集から大ヒット、そして必須センテンスの編集とその反響₍ポジティブとネガティブいろいろありました!)、さらに国家試験本番です。

年が明けてからは「国試問題解説」と「マンガでやさしくわかる公認心理師」も出版しました。

 

これらを一応、無事にしのいできました!

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、この1年、いろいろな人や事件、マスコミからも家事と育児、そして男女格差の問題について考えさせられてきました。

私は元より男女同権論者ですし「男も家事育児を十分にやって当然」という立場です。

さらに女子大の教員としても、生来のバランス重視派としてもどちらかというと女性の権利擁護の方に重点を置きたいのが本音です。

そして、別のブログや小論文にも書きましたように、私自身30歳の頃から「家事をやらない人のあらゆる言説は信用しない」という原則を立てて、今も守っているつもりです。

そもそもなぜそう決めたのか、今振り返ると家事をやらない人には、私が大切にしている「日常性へのリスペクト」が圧倒的に欠けているからです。

 

けれども2000年を過ぎてもうすぐ20年になろうとする今日この頃、改めて家事・育児をしない若い男性たちに何人も出会って、今更ながらに驚いたこの1年でした。

「苦手だからしない」「仕事で疲れているからできない」「妻に言われれば、その都度やっているから充分」等々、全部ごもっともです。

さらに驚くことに、私の勤務先の女子大学の男性教員たちも家事をしていない人が多いということに気付かされました。

専攻内の男性教員はもちろん、先日立ち話をしていて明らかになったのは前学部長、現副学長も家事はほとんどやらず、家事をしているのは、学長と私だけでした。

 

最近の調査でも、以下のような結果が出ています。

「フルタイムで共働きをしている夫婦1,000名の家事の分担状況について「妻がほとんど担う」は27%、「妻が主だが、夫も少し分担」が38%で、あわせて64%の共働き家庭で妻がメインで家事を担っていることが示されました。なお、「妻と夫で分担」しているという家庭は31%です。」https://honote.macromill.com/report/20181030/

 

この事実は何を意味しているのでしょうか?

しかも、私の偏見で言わせていただければ、現実的かつ柔軟に仕事をこなしている男は家事もやっているのです。(上記の具体例からも言えるのですが、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます)

 

そもそも家事・育児という日常性やリアリズムの最たるものを、そんな形で誰かに任せてしまえて、大丈夫なのでしょうか?

それで仕事はうまくいくのでしょうか?

 

★妻の理想化と奴隷化、それは紙一重ーどちらもマザコン?

(以下の記述は、すべて男女を逆にしても成り立ちますし、同性カップルにも成り立つので、その際には「男女」を入れ替えたり、「パートナー」にしたり「母を父に」読み替えてください。ただ、個人的にはやはり男性の女性に対する甘えが顕著なので、基本的に「夫」の問題として記述しました。)

 

パートナーに対する極端な理想化は、それがそのまま奴隷化の裏返しです。

例えば「うちの妻は家事・育児は任せて大丈夫」「うちのパートナーはいつどんな時でもとても優しいから決して怒らない(あるいは怒るけれど、すぐにご機嫌が直る)」などの発言は、すでにそこにパートナーの優しさに甘えている様子が見られる場合があります。これは相手を理想化しているからこそできることです。「妻はいつも綺麗で笑顔でいて欲しい」「夫はいつも頼りがいのある立派な男でいてほしい」という気持ちや発言の裏にあるものと同じです。

 

もちろんその反対に「僕は忙しく働いているんだから、すべて僕に従って欲しい」という発言には相手を奴隷化している姿勢が見られます。

 

本来、パートナーは相互作用で成り立っているのですから、自分のあり方を抜きにして「全部やってもらえるはず」「いつも綺麗で笑っていられるはず」ということはあり得ません。家事から笑顔まで、夫婦はすべて「お互い様」であるはずです。

 

★専業主婦の存在は歴史のごく一時期だけ

 男性に家事の話をすると「僕の母親は専業主婦だったので、父親が家事をするのを見たことがない・・・」と言葉を濁す人が少なくありません。たしかにそうだったのかもしれません。現在の30代~50代は、母親が専業主婦として家にいて、家事はすべて母親がやり、夫や息子が家事をすることを良しとしない世代だったかもしれません。

 

 けれども、これは、日本史上まれに見るほんの一時期の出来事です。それ以前は、主婦と言っても家の近くの畑で野菜を育てたり、商売をほぼ対等に切り盛りしたり、それがなくても水汲み洗濯など、とても忙しかったし、平成の後半からは夫婦共働きが圧倒的に多くなってきているのです。

 

このようなごく一時期の生活習慣を、まるで普遍的なもののように考えるのは、妥当性が低いと言わざるを得ないでしょう。

 

★平成の30年間を通じて、男たちはまた甘えるようになってきている?

 バブルの頃の男たちは、浮かれてはいてもあまり甘えてはいなかったように思います。その前の高度経済成長期もそうだったかもしれません。もちろん、その陰で過労死や過労自殺などの悲しい事例はたくさんあったのかもしれません。

 

 ところが、この30年近く、日本の男たちは元気がなくなり、それだけでなく「構造改革」を不十分なままにして、政治・経済・産業構造・教育・研究等々のすべての分野で、中途半端に甘え、現状維持にしがみついていると指摘する識者も複数います。なかでも特にマスコミと司法制度と教育制度は、世界水準から相当に遅れているのは、数々の指標から疑いのないところでしょう。

 

 もちろん、それ以前、明治期の男性たちが「男尊女卑」の名の下に、女性に甘えていたのは様々な文献や小説からも明らかなことです。

 

家事をしない男たちというのも、時代に流れによって見え隠れする、男たちの甘えのその一環に過ぎないのかもしれません。

 

このように考えていくと、現代日本で司法制度やマスコミにおいて、人権尊重がなかなか進んでいかないのも、こういう男性たちの甘えから来ているのではないかとすら思えてきます。

先進国では他に例を見ない「人質司法」や「被害者・加害者バッシング」の主導者たちが、日々家事をしているとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?

 この際、私たちは一番身近な「家事」という視点から、構造改革を徹底しないと、新しい時代についていけないのではないでしょうか?

 

 

 (終わり)

 

2019年

6月

22日

弱いは強い、強いは弱い?

最近、マスコミでは様々な心の問題に関連する事件が報道されています。ピエール瀧さんの薬物嗜癖から、引きこもり傾向の40~50代の方に関係する事件等々です。

 

それらの事件報道に心を痛めていたら、数十年前のクライエントさんのこんな言葉を思い出しました。

 

「僕は確かに、いろいろ弱いです。いろいろなことが気になって、すぐに眠れなくなったり、体調が崩れたり気持ちがくじけたりします。でも、こうやってこれまでやって来れました。そして誰よりも継続できてます。

つまり、僕は自分の弱さを知ってるし、だからこそそれを踏まえて、それに備えていろんな人に相談したり、いろんな工夫をしてます。つまり弱いから強いんです。」と。


当時、まだ30歳そこそこの若手カウンセラーだった僕は、その言葉に心底感銘を受けて、ひたすら泣きながら、うなずきながらその言葉を聞きました。


そこに「強さ」と「弱さ」のパラドックスを超えた、人間のあり方の本質的なものを感じたのです。そして、それをさまざまな挫折や紆余曲折と試行錯誤とを繰り返した後に、やっとたどり着いた言葉として本人の口から発せられたのが、とても感動的だったのです。


当時、彼はそれまで彼を虐めてからかいの対象としてきた母親と姉とに対しては、やっと距離を取ることができるようになりつつ、職場の上司やカウンセリングを上手に頼って、自分なりの生き方をつかんで行ったところでした。


つまりここには「自分の弱さを受け入れて、上手に複数の、しかるべき人に頼る」という理想的な対処スタイルが出来つつあり、すなわちそれが「強さ」だという洞察とプライドにも至っていたわけです。


反対に、今回報道されている事件の人たちを見ると、(あくまでも報道されている限りでは)何とか強気で頑張ろうと「強さ」だけに頼ってしまって、ヤケを起こして強気に暴発してしまって、結果的には社会的に孤立して「弱く」なってしまっていたのだと思わざるを得ません。


幸いにしてピエール瀧さんは、釈放後は、石野卓球さんや家族にうまく頼れているのかもしれないとも思えるので、そこには希望を感じます。


元野球選手の清原さんも、以前の「強がり番長」的な雰囲気で家族や仲間からは孤立していた様子から、現在はさまざまな治療仲間やコミュニティの中で、支え合って生きているご様子です。


やっぱり「弱いは強い、強いは弱い」ですよね。


マスコミにもこの辺りを是非わかってほしいですし、当事者叩きの伝統をいち早く放棄してほしいものです。

2019年

6月

07日

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるべきなのか?ークライエントさんからの手紙よりー

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるのがいいのでしょうか?

 

この点について、クライエントさんからも若手カウンセラーからもよく尋ねられます。

そして、これは実に難しいテーマです。

 

すべて一概・一律に言えない、例外の多いことなのですが、あえて単純化して書くとこんな感じです。

 

★いつ始めるべきか?

・・・これは、もういつでも思い立った時が最適の時です。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにしたいものです。ただし、統合失調症やうつ病が急激に悪化した時には、カウンセリングはふさわしくありませんので、それが疑われるときには医療を優先し、主治医の指示に従いましょう。もし医師の言葉が疑わしくても、ちゃんとした臨床心理士・公認心理師なら同じことを言ってくれるはずです。

 

★いつ終わるべきか?

・・・これこそ難しい問題です。症状や悩みによっても、ご本人の動機づけによってもかなり変わります。私としては「カウンセリングってどれくらいの期間や回数がかかるんですか?」というご質問には以下のように答えています。

 

「人によって全く違うのですが、とりあえず10回通っていただくとかなり様子がわかりますし、場合によってはかなり効果も感じられます。そして20回通っていただければ、ある程度効果が実感できるはずです。」と。

 

そして「でも、本格的に変わるためには2年ほどかかる場合が多いです」「2年くらい通うと『これまでと全く違う日々です』とか『こんなに穏やかに暮らせるのは生れて初めてです』とおっしゃる人も少なくありません」とお答えしています。

実際そのような形で、周囲もご本人も見違えるように変化して、きっちりと終わっていかれる方も少なくありません。

 

また、それまで何年にもわたって薬が欠かせなかった双極性障害の方がすっかり良くなって再発もせず、でもそこから今度は人生そのものの課題に取り組んでいかれるために、カウンセリングを利用するというタイプの方もいらっしゃいます。

 

これらは、すべて事実なのですが、これでも表現しきれない様々な個別性があります。そして、上記のように「これまでと全く違う日々」を過ごせるようになれた方が、大多数とは言い切れないのも事実です。

 

そこそこ多い方々が「問題がまったくなくなったわけでも、自分ががらりと変わったわけでもないけれど、自分との付き合い方がかなりよくわかってきたし、これからは何とか自分でやって行けると思う」という感じでの終結するように思われます。

 

最近このような実感がとてもよく伝わるお手紙をいただきました。

以下は、最近福島があるクライエントの方からいただいたお手紙です。

ご本人の了解を得て、一部を微修正・省略のうえ掲載させていただきます。

 

★クライエントさんからのお手紙

このクラエントさんは、福島が担当した女性の方です。

幼少期からの家族関係の問題と、父親からの虐待、それに続く様々なトラウマティックな出来事の中で苦しんでこられた人でした。

 

当オフィスにおいでになる前に、2か所のカウンセリングを短期間で中断した経験のある方でした。

はじめはほぼ毎週、そして、だんだんと1か月から数か月に一回のペースになって、次の予約を3か月後にして、しばらくたった後にいただいたお手紙です。

 

***********

 福島先生こんにちは。

 次回のカウンセリングをお休みしたいと思い、気持ちが固まったのでお伝えします。

すぐにこの場で終了という意味では全くありません。

 

 カウンセリングの位置づけを、私にとって「いつでも相談にゆける場所」、「どうしようもなくつらくなったら、すぐ戻ることができる部屋」として、日々の変化を自分の力で真剣に取り組みたいのです。一歩離れた場所からコツコツと。

 

 カウンセリングを始めてからずっと感じていた問いは、『カウンセリングの終了・完結って何だろう?」ということでした。きっと人それぞれ、ゴールや節目があったり、カウンセラーの立場としての正解のような地点があるのかと考えましたが、私は『これで私の納得いく答えは出た」「ここまでで、自分の成長は終わりだ」とは、きっとずっと思えなくて、それならば、曖昧なまま終わりを決めず、今、明確にあるベストなことを実行しつづけてゆくのが私の思う「自分とカウンセリングとのちょうど良い関係のありかた」だと思っています。

 

 人生も人も状況も変わってゆくのに、悩みも変化してゆくのに、「もうこれで大丈夫、先のこともやってゆける」とは、私は先生に言えません。

 

 でも、今は、ものすごい苦境の中にある暗闇から抜け出ていて、自分のつらさや悲しみを聴いてほしいという思いがあまりなく、、、カウンセリングで学んだことや変わった自分で、前を向いて生きてみたいと感じます。自分をこれから幸せにしてゆくぞ!と希望を持てたり、自らの経験をいつか誰かのために優しい力に変えたいなと、思うのです。

 

 今までは助けてもらったり必要な支援、また愛情を与えてもらう側でしたが、その立場はもう卒業かなと思うのです。

 

今度は私が、自分で自分をよろこばせたり自身で自己成長を、試行錯誤を重ねていく時です。そして、今まで私を決して諦めないでくれた先生からの心からの安心感、信頼、無条件の愛や支えを受け取ったぶん、今度は私が、なにかや誰かのために、それを注げる人になりたいと思います。

 

(中略)

 

内向的、繊細でとても過敏な性格の自分が生きてゆくには、何に気をつけて、何を大切にしていけば苦しくないのかを、長くカウンセリングで学びました。(中略)つらさに自らを追い込まぬように、傷付いた後の「感情と出来事の受け止めと、捉えなおし」ができたら、それは強い成長として、今後のパワーになります。(中略)

 

そうした一連の気づきや学びを、静かに導いて教えてくれて「変化」への作業をサポートしてくれのが、福島先生でした。いくつものチャレンジもできました。

 

 特別大それた何者かになれた訳じゃないけど、私の人生は、こうした「生き方の術を、自分らしくフィットさせる方法」、「挫折や逆境が教えてくれたことを自分のために武器や味方にすること」によって、大きく変わりました。光の部分と影の部分があって、その中心に立ち続けることはできないけど、角度を変えつつ身動きがとれる、ダンスのバリエーションを増やせた感じですごく嬉しいです。

 

 なので、カウンセリングをしていて、ながーく先生とお付き合いさせていただく中で、いつしか私は私と仲良くなりたいと思えたり、私がとても好きになりました。すごく大事な、人生の自己投資でした。(中略)カウンセリングをして、先生と関わることができて私は多くの状況が改善し、私の内面や生き方も変わりました。でも、私にあった「弱み」を捨ててしまったり、涙の記憶を忘れてしまわぬよう、「くじけた私」をいつまでも憶えていたいです。ひとつひとつを、心の中で小さな優しさの種にして、つらい事や痛みを体験した人の気持ちを、大切にしたいからです。

 これからは、先生にご相談をしたい時にピンチになる前に先生を訪れて、自分で見落としていることの自己点検をし、自分の力で前に進める時は、自分の力や周りの人たちの支えを利用してがんばってゆく、そんなやり方で力をつけて行きたいと思います。

 

 これが今の嘘のない気持ちです。

************引用ここまで

 

いかがでしょうか?

 

問題がきれいさっぱりとなくなって終わるのとは違う、「日々成長しながら、ここからは自分の力で取り組んでみたい」というタイプの終結の様子がとても率直な文章でつづられた、素晴らしいお手紙だと思います。

 

このようにだんだんとカウンセリングの間隔をあけていって、「また、相談したいことができたらピンチになる前に行く」という形の終結もとてもリアルで現実的だと思います。

 

カウンセリングで何をつかんでいかれたかは、もう解説の必要がないくらい、明確に書かれています。

 

カウンセラーとして、このようなリアルで、でも確実に成長されている様子を、お手紙や直接お会いして教えていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさに「カウンセラー冥利に尽きる」とはこのことだと思います。

 

以上

2019年

5月

18日

セルフコンパッションでセックスレス解消にもー上手に自分を慈しめば、相手にも慈しまれる

ここ2回のブログでは「家事をしない男性」についてや「男をどう育てるか」というテーマで、やや男性に厳しい内容を書いてきました。

 

でも、もちろん、女性にも課題がないわけではありません。

なので、「女性がもっとこうするといい」と思われる点について、書いてみます。

 

男に家事をやってもらうためには、もちろん頼み方や言い方に「アサーティブネス(自他を尊重する自己表現)」が必要です。けれども、そのアサーティブネスを生み出すもとにあるものは何かというのが、今日のテーマです。

 

日本ではセックスレスが当たりまえ?

日本のカップルの半数近くがセックスレスだというニュースが話題になってから、もう10年近くになるでしょうか?

もちろん、この状況は現在も続いています。

 

ーーー以下引用(https://lulucos.jp/by-s/article/574081301889880595より)
「日本性科学会」の定義では、セックスレスとは「特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」
また、「第8回男女の生活と意識に関する調査報告書2016年(一般社団法人日本家族計画協会)」によると、セックスレス状態の日本の夫婦は47.2%に上る。

ーーー引用以上



もう10年以上前なので、ちょっとだけ書かせていただくと、当時私のクライエントさんたちの中にもすでに、「不倫なのにセックスレス」「セフレなのにセックスレス」と嘆く人もいました。

 

最近では、女子大学生たちにもしばしばこの悩みを聞かされます。

 

この問題には様々な立場から、様々な意見が出されています。

男性の性欲の変化から男女の働き方の問題、経済格差等々です。

これらすべてに一理ありますが、ここでは、あえて「女性の側の心理学的問題」に絞って考えてみましょう。

 

これももう10年以上前から、上記のようなセックスレスに悩む方の相談が増えてきて、そういう女性たちの共通点がおぼろげに見えてきました。

それは、皆さん十分に魅力的な方たちなのに、なぜか複数回お会いしていても「ゆったり感」が感じられないということです。

 

もちろん、こちらはできるだけリラックスしていただけるように「共感的うなずき、相づち」「ゆっくり間を取ること」などを心がけているのにです。

こうすると、ほとんどの方が1回目の後半部分で、すでにかなり「ゆったり感」が出てくるにもかかわらずです。

 

そこで、ある一人の女性に意を決して言ってみました。

「お会いしてお話を伺っていると、あなたはとても頑張り屋さんで、夫のためにもいろいろと献身的にやっていらっしゃいますよね。そして、疲れてバタンと寝てしまうことも多い。つまり、すごく頑張っているかバタンと寝てしまっているかで、その中間のゆったりする時間が持てていない感じがします。家事を少しさぼってもいいから、ゆったりと自分を慈しむ、自分をいとおしむ時間を作ってみませんか」と。

 

具体的にはスキンケアなどをあえてゆっくり、夫の目に触れるところでする。休日の朝や夜はあえてゆったりと、自分の好きなお茶を飲んだりして過ごすなどをアドバイスしました。

 

この女性は、元々とても素直な頑張り屋さんだったので、私のこのアドバイスもそのまま取り入れて、「頑張って」ゆったりと自分を慈しむ時間を作るようになりました。

 

すると驚いたことに、たった数週間でこれまで1年以上もセックスレスで、言葉で言うと必ず喧嘩になっていた夫が自然に誘ってきて、セックスできたとのことでした。そして、さらに彼女が自分を慈しむ行動を取っていると、何となく自分に自信が持てて、こちらからもタイミングを見て誘うことができて、とても愛情に満ちたセックスできたということでした。(どういう時がタイミングかというのは、僕が詳しく教えました)

 

セルフ・コンパッション(コンパッション・フォーカスト・セラピー)

まだ、当時セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)という言葉はあったものの、それに焦点を当てたコンパッション・フォーカスト・セラピーは、日本に導入されていませんでした。

 

このセルフ・コンパッション(self-Compassion)とは「苦悩や失敗場面、あるいは自分が不十分であると感じる状況において自己に向けられるケアや思いやり」と定義されています(Neff,2003)。このセルフ・コンパッションには以下の下位概念があるとされています。

 

(1)苦痛や困難に直面したときに自己への情動反応としての「自己への思いやり(その反対は自己批判)」

 

(2)自己の困難な体験への認知的理解である「共通の人間性(その反対は孤立)」(人はみんなこういう時には悩むものだと思えるか、こんなことに悩んでいるのは私だけだし、私が劣っているからだと思ってしまうか)

 

(3)苦しみへの注目の仕方を表すとされる「マインドフルネス(その反対は過剰な囚われ)」

 

これら3つは相互に関連する要素であり、セルフ・コンパッションが高い人は、困難な出来事や自己の感情をバランスよく客観的に捉えることを促すため、自尊感情とは正の相関、反芻や失敗へのおそれとは負の相関関係があるとされています。

 

そして、近年このセルフ・コンパッションの能力を育てることに焦点を当てた介入技法として先述のコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)が注目されています。このCFTの介入技法は、まず脳内の脅威システム・獲得達成システム・鎮静システムの3つの働きと感情について心理教育し、最終的にクライエントの持つ恥感情や自己批判を和らげることを目標とします。そのために「自分へのやさしい眼差し」を意識した呼吸法や、「自分を批判する自分」「自分を慈しむ完璧な養育者」についてのコラム法を実施します。さらには、自分に向けた慈しみの手紙を書くなど、技法としてはまさに統合的なセラピーそのものです。

 

ただし、これらの介入のすべてに「自分への慈しみ」を促進するという目的がはっきりと含まれているのが特徴です。また、どのような学派のどのような技法とも合わせて用いることが可能で、相乗効果が期待できるとされています。

 

CFTの開発者であるGilbert,P.は、CFTはクライエントが抱える問題だけでなく、セラピスト側にも恩恵をもたらすと述べています。私も、このCFTのワークショップに参加してみましたが、3日間受けるうちにどんどん自分の中でセルフ・コンパッションが高まっていくのを実感しました。

 

セックスレス解消にもCFT!

そして、10年前の上記の事例を思い出したのです。

「そうだ、あの時実際にはセルフ・コンパッション・セラピーの心理教育と同じことをやっていたんだ」

「セルフ・コンパッション・セラピーの発想はセックスレス解消にもとても有効なんじゃないか」と。私たちは、知らず知らずのうちに自己批判的になり、自分を虐げたりしています。あるいは、自己批判のあまり他者批判的にもなってしまっています。ちなみに今の日本はその傾向がどんどん高まっているように感じます。(さらに言えば、今の日本の少子化対策に欠けているのは、このセルフ・コンパッションなのではないでしょうか)

 

この自己批判を少しでも和らげて、自己を慈しみ、その延長で他者を慈しむ傾向が少しでも強まると、現実の人間関係もぐっと良くなるのです。

 

そして、それはカップルにおいては「セックスレス解消」というとても具体的・現実的・今日的な問題解決にも直結するのです。

 

ちなみに現在、成城カウンセリングオフィスでは、このCFTも含んだ介入技法の効果研究をしています。

 興味のある方は、このホームページの「研究協力のお願い」をご覧ください。

 

以上

 

 

2019年

5月

12日

男を育てるのは誰?-育メンより先にまずメン育?

★男を育てるのは誰の責任?

5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。

 

では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?

放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。

その意味では、誰かが育てないといけないのです。

もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。

 

家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。

 

言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。

 

もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。

過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.

 

けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。

 

この男女差は何なのか、いろいろと考えました。

そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。

 

ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。

反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。

 

人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。

 

本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。

 

あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。

 

現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。

 

普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。

 

そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。

 

というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。

「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。

 

上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。

 

その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。

 

ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。

 

共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。

 

このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。

 

以上

2019年

5月

03日

男の仕事と家事育児ー男の家事参加と社会構造改革

とっても久しぶりのブログ更新です。

 

この1年の間に、福島の身に起こった大きな出来事といえば、なによりも「公認心理師」関連です。

必携テキストの執筆・編集から大ヒット、そして必須センテンスの編集とその反響₍ポジティブとネガティブいろいろありました!)、さらに国家試験本番です。

年が明けてからは「国試問題解説」と「マンガでやさしくわかる公認心理師」も出版しました。

 

これらを一応、無事にしのいできました!

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、この1年、いろいろな人や事件、マスコミからも家事と育児、そして男女格差の問題について考えさせられてきました。

私は元より男女同権論者ですし「男も家事育児を十分にやって当然」という立場です。

さらに女子大の教員としても、生来のバランス重視派としてもどちらかというと女性の権利擁護の方に重点を置きたいのが本音です。

そして、別のブログや小論文にも書きましたように、私自身30歳の頃から「家事をやらない人のあらゆる言説は信用しない」という原則を立てて、今も守っているつもりです。

そもそもなぜそう決めたのか、今振り返ると家事をやらない人には、私が大切にしている「日常性へのリスペクト」が圧倒的に欠けているからです。

 

けれども2000年を過ぎてもうすぐ20年になろうとする今日この頃、改めて家事・育児をしない若い男性たちに何人も出会って、今更ながらに驚いたこの1年でした。

「苦手だからしない」「仕事で疲れているからできない」「妻に言われれば、その都度やっているから充分」等々、全部ごもっともです。

さらに驚くことに、私の勤務先の女子大学の男性教員たちも家事をしていない人が多いということに気付かされました。

専攻内の男性教員はもちろん、先日立ち話をしていて明らかになったのは前学部長、現副学長も家事はほとんどやらず、家事をしているのは、学長と私だけでした。

 

最近の調査でも、以下のような結果が出ています。

「フルタイムで共働きをしている夫婦1,000名の家事の分担状況について「妻がほとんど担う」は27%、「妻が主だが、夫も少し分担」が38%で、あわせて64%の共働き家庭で妻がメインで家事を担っていることが示されました。なお、「妻と夫で分担」しているという家庭は31%です。」https://honote.macromill.com/report/20181030/

 

この事実は何を意味しているのでしょうか?

しかも、私の偏見で言わせていただければ、現実的かつ柔軟に仕事をこなしている男は家事もやっているのです。(上記の具体例からも言えるのですが、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます)

 

そもそも家事・育児という日常性やリアリズムの最たるものを、そんな形で誰かに任せてしまえて、大丈夫なのでしょうか?

それで仕事はうまくいくのでしょうか?

 

★妻の理想化と奴隷化、それは紙一重ーどちらもマザコン?

(以下の記述は、すべて男女を逆にしても成り立ちますし、同性カップルにも成り立つので、その際には「男女」を入れ替えたり、「パートナー」にしたり「母を父に」読み替えてください。ただ、個人的にはやはり男性の女性に対する甘えが顕著なので、基本的に「夫」の問題として記述しました。)

 

パートナーに対する極端な理想化は、それがそのまま奴隷化の裏返しです。

例えば「うちの妻は家事・育児は任せて大丈夫」「うちのパートナーはいつどんな時でもとても優しいから決して怒らない(あるいは怒るけれど、すぐにご機嫌が直る)」などの発言は、すでにそこにパートナーの優しさに甘えている様子が見られる場合があります。これは相手を理想化しているからこそできることです。「妻はいつも綺麗で笑顔でいて欲しい」「夫はいつも頼りがいのある立派な男でいてほしい」という気持ちや発言の裏にあるものと同じです。

 

もちろんその反対に「僕は忙しく働いているんだから、すべて僕に従って欲しい」という発言には相手を奴隷化している姿勢が見られます。

 

本来、パートナーは相互作用で成り立っているのですから、自分のあり方を抜きにして「全部やってもらえるはず」「いつも綺麗で笑っていられるはず」ということはあり得ません。家事から笑顔まで、夫婦はすべて「お互い様」であるはずです。

 

★専業主婦の存在は歴史のごく一時期だけ

 男性に家事の話をすると「僕の母親は専業主婦だったので、父親が家事をするのを見たことがない・・・」と言葉を濁す人が少なくありません。たしかにそうだったのかもしれません。現在の30代~50代は、母親が専業主婦として家にいて、家事はすべて母親がやり、夫や息子が家事をすることを良しとしない世代だったかもしれません。

 

 けれども、これは、日本史上まれに見るほんの一時期の出来事です。それ以前は、主婦と言っても家の近くの畑で野菜を育てたり、商売をほぼ対等に切り盛りしたり、それがなくても水汲み洗濯など、とても忙しかったし、平成の後半からは夫婦共働きが圧倒的に多くなってきているのです。

 

このようなごく一時期の生活習慣を、まるで普遍的なもののように考えるのは、妥当性が低いと言わざるを得ないでしょう。

 

★平成の30年間を通じて、男たちはまた甘えるようになってきている?

 バブルの頃の男たちは、浮かれてはいてもあまり甘えてはいなかったように思います。その前の高度経済成長期もそうだったかもしれません。もちろん、その陰で過労死や過労自殺などの悲しい事例はたくさんあったのかもしれません。

 

 ところが、この30年近く、日本の男たちは元気がなくなり、それだけでなく「構造改革」を不十分なままにして、政治・経済・産業構造・教育・研究等々のすべての分野で、中途半端に甘え、現状維持にしがみついていると指摘する識者も複数います。なかでも特にマスコミと司法制度と教育制度は、世界水準から相当に遅れているのは、数々の指標から疑いのないところでしょう。

 

 もちろん、それ以前、明治期の男性たちが「男尊女卑」の名の下に、女性に甘えていたのは様々な文献や小説からも明らかなことです。

 

家事をしない男たちというのも、時代に流れによって見え隠れする、男たちの甘えのその一環に過ぎないのかもしれません。

 

このように考えていくと、現代日本で司法制度やマスコミにおいて、人権尊重がなかなか進んでいかないのも、こういう男性たちの甘えから来ているのではないかとすら思えてきます。

先進国では他に例を見ない「人質司法」や「被害者・加害者バッシング」の主導者たちが、日々家事をしているとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?

 この際、私たちは一番身近な「家事」という視点から、構造改革を徹底しないと、新しい時代についていけないのではないでしょうか?

 

 

 (終わり)

 

2019年

6月

22日

弱いは強い、強いは弱い?

最近、マスコミでは様々な心の問題に関連する事件が報道されています。ピエール瀧さんの薬物嗜癖から、引きこもり傾向の40~50代の方に関係する事件等々です。

 

それらの事件報道に心を痛めていたら、数十年前のクライエントさんのこんな言葉を思い出しました。

 

「僕は確かに、いろいろ弱いです。いろいろなことが気になって、すぐに眠れなくなったり、体調が崩れたり気持ちがくじけたりします。でも、こうやってこれまでやって来れました。そして誰よりも継続できてます。

つまり、僕は自分の弱さを知ってるし、だからこそそれを踏まえて、それに備えていろんな人に相談したり、いろんな工夫をしてます。つまり弱いから強いんです。」と。


当時、まだ30歳そこそこの若手カウンセラーだった僕は、その言葉に心底感銘を受けて、ひたすら泣きながら、うなずきながらその言葉を聞きました。


そこに「強さ」と「弱さ」のパラドックスを超えた、人間のあり方の本質的なものを感じたのです。そして、それをさまざまな挫折や紆余曲折と試行錯誤とを繰り返した後に、やっとたどり着いた言葉として本人の口から発せられたのが、とても感動的だったのです。


当時、彼はそれまで彼を虐めてからかいの対象としてきた母親と姉とに対しては、やっと距離を取ることができるようになりつつ、職場の上司やカウンセリングを上手に頼って、自分なりの生き方をつかんで行ったところでした。


つまりここには「自分の弱さを受け入れて、上手に複数の、しかるべき人に頼る」という理想的な対処スタイルが出来つつあり、すなわちそれが「強さ」だという洞察とプライドにも至っていたわけです。


反対に、今回報道されている事件の人たちを見ると、(あくまでも報道されている限りでは)何とか強気で頑張ろうと「強さ」だけに頼ってしまって、ヤケを起こして強気に暴発してしまって、結果的には社会的に孤立して「弱く」なってしまっていたのだと思わざるを得ません。


幸いにしてピエール瀧さんは、釈放後は、石野卓球さんや家族にうまく頼れているのかもしれないとも思えるので、そこには希望を感じます。


元野球選手の清原さんも、以前の「強がり番長」的な雰囲気で家族や仲間からは孤立していた様子から、現在はさまざまな治療仲間やコミュニティの中で、支え合って生きているご様子です。


やっぱり「弱いは強い、強いは弱い」ですよね。


マスコミにもこの辺りを是非わかってほしいですし、当事者叩きの伝統をいち早く放棄してほしいものです。

2019年

6月

07日

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるべきなのか?ークライエントさんからの手紙よりー

カウンセリングはいつ始めて、いつ終わるのがいいのでしょうか?

 

この点について、クライエントさんからも若手カウンセラーからもよく尋ねられます。

そして、これは実に難しいテーマです。

 

すべて一概・一律に言えない、例外の多いことなのですが、あえて単純化して書くとこんな感じです。

 

★いつ始めるべきか?

・・・これは、もういつでも思い立った時が最適の時です。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにしたいものです。ただし、統合失調症やうつ病が急激に悪化した時には、カウンセリングはふさわしくありませんので、それが疑われるときには医療を優先し、主治医の指示に従いましょう。もし医師の言葉が疑わしくても、ちゃんとした臨床心理士・公認心理師なら同じことを言ってくれるはずです。

 

★いつ終わるべきか?

・・・これこそ難しい問題です。症状や悩みによっても、ご本人の動機づけによってもかなり変わります。私としては「カウンセリングってどれくらいの期間や回数がかかるんですか?」というご質問には以下のように答えています。

 

「人によって全く違うのですが、とりあえず10回通っていただくとかなり様子がわかりますし、場合によってはかなり効果も感じられます。そして20回通っていただければ、ある程度効果が実感できるはずです。」と。

 

そして「でも、本格的に変わるためには2年ほどかかる場合が多いです」「2年くらい通うと『これまでと全く違う日々です』とか『こんなに穏やかに暮らせるのは生れて初めてです』とおっしゃる人も少なくありません」とお答えしています。

実際そのような形で、周囲もご本人も見違えるように変化して、きっちりと終わっていかれる方も少なくありません。

 

また、それまで何年にもわたって薬が欠かせなかった双極性障害の方がすっかり良くなって再発もせず、でもそこから今度は人生そのものの課題に取り組んでいかれるために、カウンセリングを利用するというタイプの方もいらっしゃいます。

 

これらは、すべて事実なのですが、これでも表現しきれない様々な個別性があります。そして、上記のように「これまでと全く違う日々」を過ごせるようになれた方が、大多数とは言い切れないのも事実です。

 

そこそこ多い方々が「問題がまったくなくなったわけでも、自分ががらりと変わったわけでもないけれど、自分との付き合い方がかなりよくわかってきたし、これからは何とか自分でやって行けると思う」という感じでの終結するように思われます。

 

最近このような実感がとてもよく伝わるお手紙をいただきました。

以下は、最近福島があるクライエントの方からいただいたお手紙です。

ご本人の了解を得て、一部を微修正・省略のうえ掲載させていただきます。

 

★クライエントさんからのお手紙

このクラエントさんは、福島が担当した女性の方です。

幼少期からの家族関係の問題と、父親からの虐待、それに続く様々なトラウマティックな出来事の中で苦しんでこられた人でした。

 

当オフィスにおいでになる前に、2か所のカウンセリングを短期間で中断した経験のある方でした。

はじめはほぼ毎週、そして、だんだんと1か月から数か月に一回のペースになって、次の予約を3か月後にして、しばらくたった後にいただいたお手紙です。

 

***********

 福島先生こんにちは。

 次回のカウンセリングをお休みしたいと思い、気持ちが固まったのでお伝えします。

すぐにこの場で終了という意味では全くありません。

 

 カウンセリングの位置づけを、私にとって「いつでも相談にゆける場所」、「どうしようもなくつらくなったら、すぐ戻ることができる部屋」として、日々の変化を自分の力で真剣に取り組みたいのです。一歩離れた場所からコツコツと。

 

 カウンセリングを始めてからずっと感じていた問いは、『カウンセリングの終了・完結って何だろう?」ということでした。きっと人それぞれ、ゴールや節目があったり、カウンセラーの立場としての正解のような地点があるのかと考えましたが、私は『これで私の納得いく答えは出た」「ここまでで、自分の成長は終わりだ」とは、きっとずっと思えなくて、それならば、曖昧なまま終わりを決めず、今、明確にあるベストなことを実行しつづけてゆくのが私の思う「自分とカウンセリングとのちょうど良い関係のありかた」だと思っています。

 

 人生も人も状況も変わってゆくのに、悩みも変化してゆくのに、「もうこれで大丈夫、先のこともやってゆける」とは、私は先生に言えません。

 

 でも、今は、ものすごい苦境の中にある暗闇から抜け出ていて、自分のつらさや悲しみを聴いてほしいという思いがあまりなく、、、カウンセリングで学んだことや変わった自分で、前を向いて生きてみたいと感じます。自分をこれから幸せにしてゆくぞ!と希望を持てたり、自らの経験をいつか誰かのために優しい力に変えたいなと、思うのです。

 

 今までは助けてもらったり必要な支援、また愛情を与えてもらう側でしたが、その立場はもう卒業かなと思うのです。

 

今度は私が、自分で自分をよろこばせたり自身で自己成長を、試行錯誤を重ねていく時です。そして、今まで私を決して諦めないでくれた先生からの心からの安心感、信頼、無条件の愛や支えを受け取ったぶん、今度は私が、なにかや誰かのために、それを注げる人になりたいと思います。

 

(中略)

 

内向的、繊細でとても過敏な性格の自分が生きてゆくには、何に気をつけて、何を大切にしていけば苦しくないのかを、長くカウンセリングで学びました。(中略)つらさに自らを追い込まぬように、傷付いた後の「感情と出来事の受け止めと、捉えなおし」ができたら、それは強い成長として、今後のパワーになります。(中略)

 

そうした一連の気づきや学びを、静かに導いて教えてくれて「変化」への作業をサポートしてくれのが、福島先生でした。いくつものチャレンジもできました。

 

 特別大それた何者かになれた訳じゃないけど、私の人生は、こうした「生き方の術を、自分らしくフィットさせる方法」、「挫折や逆境が教えてくれたことを自分のために武器や味方にすること」によって、大きく変わりました。光の部分と影の部分があって、その中心に立ち続けることはできないけど、角度を変えつつ身動きがとれる、ダンスのバリエーションを増やせた感じですごく嬉しいです。

 

 なので、カウンセリングをしていて、ながーく先生とお付き合いさせていただく中で、いつしか私は私と仲良くなりたいと思えたり、私がとても好きになりました。すごく大事な、人生の自己投資でした。(中略)カウンセリングをして、先生と関わることができて私は多くの状況が改善し、私の内面や生き方も変わりました。でも、私にあった「弱み」を捨ててしまったり、涙の記憶を忘れてしまわぬよう、「くじけた私」をいつまでも憶えていたいです。ひとつひとつを、心の中で小さな優しさの種にして、つらい事や痛みを体験した人の気持ちを、大切にしたいからです。

 これからは、先生にご相談をしたい時にピンチになる前に先生を訪れて、自分で見落としていることの自己点検をし、自分の力で前に進める時は、自分の力や周りの人たちの支えを利用してがんばってゆく、そんなやり方で力をつけて行きたいと思います。

 

 これが今の嘘のない気持ちです。

************引用ここまで

 

いかがでしょうか?

 

問題がきれいさっぱりとなくなって終わるのとは違う、「日々成長しながら、ここからは自分の力で取り組んでみたい」というタイプの終結の様子がとても率直な文章でつづられた、素晴らしいお手紙だと思います。

 

このようにだんだんとカウンセリングの間隔をあけていって、「また、相談したいことができたらピンチになる前に行く」という形の終結もとてもリアルで現実的だと思います。

 

カウンセリングで何をつかんでいかれたかは、もう解説の必要がないくらい、明確に書かれています。

 

カウンセラーとして、このようなリアルで、でも確実に成長されている様子を、お手紙や直接お会いして教えていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさに「カウンセラー冥利に尽きる」とはこのことだと思います。

 

以上

2019年

5月

18日

セルフコンパッションでセックスレス解消にもー上手に自分を慈しめば、相手にも慈しまれる

ここ2回のブログでは「家事をしない男性」についてや「男をどう育てるか」というテーマで、やや男性に厳しい内容を書いてきました。

 

でも、もちろん、女性にも課題がないわけではありません。

なので、「女性がもっとこうするといい」と思われる点について、書いてみます。

 

男に家事をやってもらうためには、もちろん頼み方や言い方に「アサーティブネス(自他を尊重する自己表現)」が必要です。けれども、そのアサーティブネスを生み出すもとにあるものは何かというのが、今日のテーマです。

 

日本ではセックスレスが当たりまえ?

日本のカップルの半数近くがセックスレスだというニュースが話題になってから、もう10年近くになるでしょうか?

もちろん、この状況は現在も続いています。

 

ーーー以下引用(https://lulucos.jp/by-s/article/574081301889880595より)
「日本性科学会」の定義では、セックスレスとは「特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」
また、「第8回男女の生活と意識に関する調査報告書2016年(一般社団法人日本家族計画協会)」によると、セックスレス状態の日本の夫婦は47.2%に上る。

ーーー引用以上



もう10年以上前なので、ちょっとだけ書かせていただくと、当時私のクライエントさんたちの中にもすでに、「不倫なのにセックスレス」「セフレなのにセックスレス」と嘆く人もいました。

 

最近では、女子大学生たちにもしばしばこの悩みを聞かされます。

 

この問題には様々な立場から、様々な意見が出されています。

男性の性欲の変化から男女の働き方の問題、経済格差等々です。

これらすべてに一理ありますが、ここでは、あえて「女性の側の心理学的問題」に絞って考えてみましょう。

 

これももう10年以上前から、上記のようなセックスレスに悩む方の相談が増えてきて、そういう女性たちの共通点がおぼろげに見えてきました。

それは、皆さん十分に魅力的な方たちなのに、なぜか複数回お会いしていても「ゆったり感」が感じられないということです。

 

もちろん、こちらはできるだけリラックスしていただけるように「共感的うなずき、相づち」「ゆっくり間を取ること」などを心がけているのにです。

こうすると、ほとんどの方が1回目の後半部分で、すでにかなり「ゆったり感」が出てくるにもかかわらずです。

 

そこで、ある一人の女性に意を決して言ってみました。

「お会いしてお話を伺っていると、あなたはとても頑張り屋さんで、夫のためにもいろいろと献身的にやっていらっしゃいますよね。そして、疲れてバタンと寝てしまうことも多い。つまり、すごく頑張っているかバタンと寝てしまっているかで、その中間のゆったりする時間が持てていない感じがします。家事を少しさぼってもいいから、ゆったりと自分を慈しむ、自分をいとおしむ時間を作ってみませんか」と。

 

具体的にはスキンケアなどをあえてゆっくり、夫の目に触れるところでする。休日の朝や夜はあえてゆったりと、自分の好きなお茶を飲んだりして過ごすなどをアドバイスしました。

 

この女性は、元々とても素直な頑張り屋さんだったので、私のこのアドバイスもそのまま取り入れて、「頑張って」ゆったりと自分を慈しむ時間を作るようになりました。

 

すると驚いたことに、たった数週間でこれまで1年以上もセックスレスで、言葉で言うと必ず喧嘩になっていた夫が自然に誘ってきて、セックスできたとのことでした。そして、さらに彼女が自分を慈しむ行動を取っていると、何となく自分に自信が持てて、こちらからもタイミングを見て誘うことができて、とても愛情に満ちたセックスできたということでした。(どういう時がタイミングかというのは、僕が詳しく教えました)

 

セルフ・コンパッション(コンパッション・フォーカスト・セラピー)

まだ、当時セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)という言葉はあったものの、それに焦点を当てたコンパッション・フォーカスト・セラピーは、日本に導入されていませんでした。

 

このセルフ・コンパッション(self-Compassion)とは「苦悩や失敗場面、あるいは自分が不十分であると感じる状況において自己に向けられるケアや思いやり」と定義されています(Neff,2003)。このセルフ・コンパッションには以下の下位概念があるとされています。

 

(1)苦痛や困難に直面したときに自己への情動反応としての「自己への思いやり(その反対は自己批判)」

 

(2)自己の困難な体験への認知的理解である「共通の人間性(その反対は孤立)」(人はみんなこういう時には悩むものだと思えるか、こんなことに悩んでいるのは私だけだし、私が劣っているからだと思ってしまうか)

 

(3)苦しみへの注目の仕方を表すとされる「マインドフルネス(その反対は過剰な囚われ)」

 

これら3つは相互に関連する要素であり、セルフ・コンパッションが高い人は、困難な出来事や自己の感情をバランスよく客観的に捉えることを促すため、自尊感情とは正の相関、反芻や失敗へのおそれとは負の相関関係があるとされています。

 

そして、近年このセルフ・コンパッションの能力を育てることに焦点を当てた介入技法として先述のコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)が注目されています。このCFTの介入技法は、まず脳内の脅威システム・獲得達成システム・鎮静システムの3つの働きと感情について心理教育し、最終的にクライエントの持つ恥感情や自己批判を和らげることを目標とします。そのために「自分へのやさしい眼差し」を意識した呼吸法や、「自分を批判する自分」「自分を慈しむ完璧な養育者」についてのコラム法を実施します。さらには、自分に向けた慈しみの手紙を書くなど、技法としてはまさに統合的なセラピーそのものです。

 

ただし、これらの介入のすべてに「自分への慈しみ」を促進するという目的がはっきりと含まれているのが特徴です。また、どのような学派のどのような技法とも合わせて用いることが可能で、相乗効果が期待できるとされています。

 

CFTの開発者であるGilbert,P.は、CFTはクライエントが抱える問題だけでなく、セラピスト側にも恩恵をもたらすと述べています。私も、このCFTのワークショップに参加してみましたが、3日間受けるうちにどんどん自分の中でセルフ・コンパッションが高まっていくのを実感しました。

 

セックスレス解消にもCFT!

そして、10年前の上記の事例を思い出したのです。

「そうだ、あの時実際にはセルフ・コンパッション・セラピーの心理教育と同じことをやっていたんだ」

「セルフ・コンパッション・セラピーの発想はセックスレス解消にもとても有効なんじゃないか」と。私たちは、知らず知らずのうちに自己批判的になり、自分を虐げたりしています。あるいは、自己批判のあまり他者批判的にもなってしまっています。ちなみに今の日本はその傾向がどんどん高まっているように感じます。(さらに言えば、今の日本の少子化対策に欠けているのは、このセルフ・コンパッションなのではないでしょうか)

 

この自己批判を少しでも和らげて、自己を慈しみ、その延長で他者を慈しむ傾向が少しでも強まると、現実の人間関係もぐっと良くなるのです。

 

そして、それはカップルにおいては「セックスレス解消」というとても具体的・現実的・今日的な問題解決にも直結するのです。

 

ちなみに現在、成城カウンセリングオフィスでは、このCFTも含んだ介入技法の効果研究をしています。

 興味のある方は、このホームページの「研究協力のお願い」をご覧ください。

 

以上

 

 

2019年

5月

12日

男を育てるのは誰?-育メンより先にまずメン育?

★男を育てるのは誰の責任?

5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。

 

では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?

放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。

その意味では、誰かが育てないといけないのです。

もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。

 

家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。

 

言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。

 

もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。

過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.

 

けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。

 

この男女差は何なのか、いろいろと考えました。

そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。

 

ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。

反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。

 

人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。

 

本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。

 

あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。

 

現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。

 

普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。

 

そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。

 

というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。

「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。

 

上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。

 

その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。

 

ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。

 

共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。

 

このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。

 

以上

2019年

5月

03日

男の仕事と家事育児ー男の家事参加と社会構造改革

とっても久しぶりのブログ更新です。

 

この1年の間に、福島の身に起こった大きな出来事といえば、なによりも「公認心理師」関連です。

必携テキストの執筆・編集から大ヒット、そして必須センテンスの編集とその反響₍ポジティブとネガティブいろいろありました!)、さらに国家試験本番です。

年が明けてからは「国試問題解説」と「マンガでやさしくわかる公認心理師」も出版しました。

 

これらを一応、無事にしのいできました!

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、この1年、いろいろな人や事件、マスコミからも家事と育児、そして男女格差の問題について考えさせられてきました。

私は元より男女同権論者ですし「男も家事育児を十分にやって当然」という立場です。

さらに女子大の教員としても、生来のバランス重視派としてもどちらかというと女性の権利擁護の方に重点を置きたいのが本音です。

そして、別のブログや小論文にも書きましたように、私自身30歳の頃から「家事をやらない人のあらゆる言説は信用しない」という原則を立てて、今も守っているつもりです。

そもそもなぜそう決めたのか、今振り返ると家事をやらない人には、私が大切にしている「日常性へのリスペクト」が圧倒的に欠けているからです。

 

けれども2000年を過ぎてもうすぐ20年になろうとする今日この頃、改めて家事・育児をしない若い男性たちに何人も出会って、今更ながらに驚いたこの1年でした。

「苦手だからしない」「仕事で疲れているからできない」「妻に言われれば、その都度やっているから充分」等々、全部ごもっともです。

さらに驚くことに、私の勤務先の女子大学の男性教員たちも家事をしていない人が多いということに気付かされました。

専攻内の男性教員はもちろん、先日立ち話をしていて明らかになったのは前学部長、現副学長も家事はほとんどやらず、家事をしているのは、学長と私だけでした。

 

最近の調査でも、以下のような結果が出ています。

「フルタイムで共働きをしている夫婦1,000名の家事の分担状況について「妻がほとんど担う」は27%、「妻が主だが、夫も少し分担」が38%で、あわせて64%の共働き家庭で妻がメインで家事を担っていることが示されました。なお、「妻と夫で分担」しているという家庭は31%です。」https://honote.macromill.com/report/20181030/

 

この事実は何を意味しているのでしょうか?

しかも、私の偏見で言わせていただければ、現実的かつ柔軟に仕事をこなしている男は家事もやっているのです。(上記の具体例からも言えるのですが、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます)

 

そもそも家事・育児という日常性やリアリズムの最たるものを、そんな形で誰かに任せてしまえて、大丈夫なのでしょうか?

それで仕事はうまくいくのでしょうか?

 

★妻の理想化と奴隷化、それは紙一重ーどちらもマザコン?

(以下の記述は、すべて男女を逆にしても成り立ちますし、同性カップルにも成り立つので、その際には「男女」を入れ替えたり、「パートナー」にしたり「母を父に」読み替えてください。ただ、個人的にはやはり男性の女性に対する甘えが顕著なので、基本的に「夫」の問題として記述しました。)

 

パートナーに対する極端な理想化は、それがそのまま奴隷化の裏返しです。

例えば「うちの妻は家事・育児は任せて大丈夫」「うちのパートナーはいつどんな時でもとても優しいから決して怒らない(あるいは怒るけれど、すぐにご機嫌が直る)」などの発言は、すでにそこにパートナーの優しさに甘えている様子が見られる場合があります。これは相手を理想化しているからこそできることです。「妻はいつも綺麗で笑顔でいて欲しい」「夫はいつも頼りがいのある立派な男でいてほしい」という気持ちや発言の裏にあるものと同じです。

 

もちろんその反対に「僕は忙しく働いているんだから、すべて僕に従って欲しい」という発言には相手を奴隷化している姿勢が見られます。

 

本来、パートナーは相互作用で成り立っているのですから、自分のあり方を抜きにして「全部やってもらえるはず」「いつも綺麗で笑っていられるはず」ということはあり得ません。家事から笑顔まで、夫婦はすべて「お互い様」であるはずです。

 

★専業主婦の存在は歴史のごく一時期だけ

 男性に家事の話をすると「僕の母親は専業主婦だったので、父親が家事をするのを見たことがない・・・」と言葉を濁す人が少なくありません。たしかにそうだったのかもしれません。現在の30代~50代は、母親が専業主婦として家にいて、家事はすべて母親がやり、夫や息子が家事をすることを良しとしない世代だったかもしれません。

 

 けれども、これは、日本史上まれに見るほんの一時期の出来事です。それ以前は、主婦と言っても家の近くの畑で野菜を育てたり、商売をほぼ対等に切り盛りしたり、それがなくても水汲み洗濯など、とても忙しかったし、平成の後半からは夫婦共働きが圧倒的に多くなってきているのです。

 

このようなごく一時期の生活習慣を、まるで普遍的なもののように考えるのは、妥当性が低いと言わざるを得ないでしょう。

 

★平成の30年間を通じて、男たちはまた甘えるようになってきている?

 バブルの頃の男たちは、浮かれてはいてもあまり甘えてはいなかったように思います。その前の高度経済成長期もそうだったかもしれません。もちろん、その陰で過労死や過労自殺などの悲しい事例はたくさんあったのかもしれません。

 

 ところが、この30年近く、日本の男たちは元気がなくなり、それだけでなく「構造改革」を不十分なままにして、政治・経済・産業構造・教育・研究等々のすべての分野で、中途半端に甘え、現状維持にしがみついていると指摘する識者も複数います。なかでも特にマスコミと司法制度と教育制度は、世界水準から相当に遅れているのは、数々の指標から疑いのないところでしょう。

 

 もちろん、それ以前、明治期の男性たちが「男尊女卑」の名の下に、女性に甘えていたのは様々な文献や小説からも明らかなことです。

 

家事をしない男たちというのも、時代に流れによって見え隠れする、男たちの甘えのその一環に過ぎないのかもしれません。

 

このように考えていくと、現代日本で司法制度やマスコミにおいて、人権尊重がなかなか進んでいかないのも、こういう男性たちの甘えから来ているのではないかとすら思えてきます。

先進国では他に例を見ない「人質司法」や「被害者・加害者バッシング」の主導者たちが、日々家事をしているとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?

 この際、私たちは一番身近な「家事」という視点から、構造改革を徹底しないと、新しい時代についていけないのではないでしょうか?

 

 

 (終わり)

 

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