★男を育てるのは誰の責任?
5月3日のブログに家事をやらない男たちのことを書きました。そして、それが日本社会の構造改革が進まないことと同根の男の甘えであるだろうということも書きました。
では、そういう男性たちをどうしたらいいのでしょうか?
放っておいても、嘆くだけでも、批判するだけでも現状は変わりません。
その意味では、誰かが育てないといけないのです。
もちろん、私もカウンセリングを通じて育てているつもりですが、圧倒的に微力です。
家事をしない男性たちの話を聞くと、「あー、この人は、今まで母親にも恋人にも妻にも甘やかされてきたな」と感じることがとても多いです。
言葉を換えると「これまで、母親にも恋人にも妻にも、本当の意味でちゃんと育ててもらってこなかったんだな」と感じるのです。
もちろん、女性たちの中にも親に恵まれなかった人はたくさんいます。
過干渉な親、未熟な親、娘に関心がなかったというしかない親etc.
けれども、女性の場合、理想的な親に育てられなくても、少なくとも相手に対しては、きちんとやさしさを発揮できる人に育つ場合が多いのに対して、男性の場合は自分に対しても相手に対してもきちんとしたいたわりや優しさを身につけられない人が多い印象があります。
この男女差は何なのか、いろいろと考えました。
そんな中で思い浮かんだのは、私が幼少期から一緒に暮らしていたネコと犬たちのことでした。
ネコは、トイレットトレーニングこそ少しだけ必要ですが、それ以外は、放っておいてもほぼ人間たちの空気を読んで適切にふるまってくれる存在に育ちます。
反対に犬は、トイレットトレーニングは問題なくても、それ以外でしっかりとしつけないと本当に扱いにくい生き物となります。でも、しっかりとトレーニングさえすれば、ネコ以上にとてもいい伴侶になってくれます。
人間を犬やネコに喩えるのは失礼かも知れませんが、古来女性はネコに喩えられ、男性は犬に喩えられることが多いというところからも、それぞれの類似性は否定できない感じがします。
本来、気ままでしなやかなネコと女性は似ている感じがしますし、不器用だけど固定した序列と力関係に従順な犬は男性に似ています。
あるいは、こんな犬やネコに喩える必要はそもそもないかも知れません。
現代日本においては、普通に育つと特に身の危険や深刻な服従体験をせずにすむ男性と、そもそも性被害にあう可能性をもち、身体的に弱い存在としての女性、生理痛や妊娠・出産という命に係わるリスクを背負わされている女性とでは、「生のリアリティ」がそもそも違うのかも知れません。
普通に育つと、他者の存在を無視できない女性と、他者を思いやる必要のない男性とが出来上がるのかも知れません。
そんな中で、身近な相手に対して思いやりがある男性に育つためには、女性の力が不可欠なのかもしれません。まずは母親、そして、それがかなわなかった場合には彼女(恋人)、さらにそれもかなわなかった場合は、妻がしっかりと「思いやりの大切さ」を教えて育てるしかないのかもしれません。
というより、これまで出会った「身近な相手に対して思いやりのない男性」は、例外なく母親にも彼女にも妻にも、しっかりと育てられてこなかった人たちなのです。
「だから奥さんが育てるしかないんですよ」と妻に言うと、しぶしぶ納得していただける場合と「なんで私が育てないといけないんですか?」「もう疲れました。。。」と嘆かれる場合とがあります。
上記の犬とネコの喩えに戻れば、やはり男性は誰かにしつけてもらわないと、思いやりのある生き物になれないのではないかとさえ思うのです。
その意味で夫に「育メン」を期待する前に、夫を育てる「メン育」が必要だと思うのです。
ちなみにポー・ブロンソンの『間違いだらけの子育て』によれば、「偏見や差別はよくない」という教育をしないと、人はのびのびと健康な差別主義者になるという事実が伝えられています。
共働きなのに家事をしない男というのは差別主義者ですので、のびのびと育てられてしまった結果なのかもしれません。
このことからも、「メン育」の必要性は疑いようがないのかもしれませんね。
以上